Monthly Archives: 6月 2015

お問い合わせ

6月30日(火)

先週末から期末テストの成績の問い合わせが相次いでいます。私が担任をしたクラスは期末テストを受験しなかった1名を除いて、全員合格して進級します。ですから、問い合わせメールに答えるのは気楽なのですが、果たしてこれでいいのだろうかと思うことがあります。

たとえば、Mさんのメール。「私  4行 。心配……」とだけ書いてありました。「私はレベル4にいけるでしょうか。とても心配です…」とでもいう意味なのでしょう。確かにMさんの言いたいことも気持ちもわかりますが、こんなメールの送り主を中級に上げてしまっていいのだろうかと思ってしまうのです。

Mさんも含めて、クラス全員が私の予想を上回る好成績を挙げてくれたことはうれしい限りです。試験直前にかなり一生懸命勉強したのでしょう。でも、授業中の様子を見ていると、「この学生が中級???」という学生が何名かいることも事実です。平常テストは再テストでかろうじて合格点を確保し、期末テストの一発勝負でVサインというパターンが目立ちます。

自分は余裕たっぷりで上がったのではないという自覚があればいいのですが、そういう学生に限って上がってしまえばこっちのものと思うものです。そうすると、学期休み中ろくに勉強せず、新学期が始まるころには中級どころか初級に逆戻りとなりかねません。自分は余裕たっぷりで上がったのではないという自覚があれば、合格で安心せずに復習もするでしょう。でも、メンバーを見ると、そんな奇特な心がけの学生はいそうにありません。

上がるにしても、もっと苦しんでから上がってほしかったなというのが、正直な感想です。順調すぎて逆に最終的な勝利に結びつかなかったっていうんじゃ、全く意味がないじゃありませんか。小さな挫折で軌道修正し、大きな挫折を未然に防ぐのが理想なんですが、挫折はたとえ小さくても味わいたくないですよね。

気が付いたら今年も半分過ぎてしまいました…。

たまのお葬式

6月29日(月)

昨日は和歌山電鐵の社長代理・ウルトラ駅長のたまのお葬式がありました。式場となった貴志駅はたまが駅長として勤務していた駅であり、昨日はそこに警察が交通整理をするほどの参列者が訪れました。3000人と報じられていますから、人間の葬式にしてもかなりの規模です。

私も、去年の5月の連休にたまを見に和歌山まで出かけました。私が乗った和歌山電鐵の電車は、乗客の大半がたま目当てでした。たまによって和歌山電鐵の乗客が大幅に増えたと報じられていましたが、それを身をもって感じました。たまがいなかったら、貴志駅まで乗ったお客はほとんどいなかったでしょう。それが和歌山電鐵沿線の実力であり、たまによって数十名の乗客が数百円の運賃を払って貴志駅まで乗り通したのです。そして、貴志駅に併設されているカフェや売店でお金を落としていました。たまの経済効果が11億円とかと算出されていますが、それぐらいあっても全然おかしくないと思いました。

たまの成功の後、各地の地方鉄道で動物の駅長が相次いで生まれました。二番煎じにならないようにと工夫はされていますが、たまを超える駅長はいまだ出現していないようです。それだけに、たまを招き猫として見出し、駅長に抜擢した和歌山電鐵の社長さんは偉いと思います。こういう経営センスは、机上の学問だけじゃ身に付きませんよね。学生たちは「大学を卒業したら経験を積んで…」と気安く言いますが、こういう発想の現場での経験こそ、学生の将来に資するものなんじゃないかと思います。

和歌山電鐵にはたまの後継ぎの猫がいるそうですから、きっと人気は保たれるでしょう。それどころか、たま大明神として祭られるそうですから、死して後も和歌山電鐵の貢献する勢いです。

私の周りの時間

6月26日(金)

私の周りには他の先生方と違う時間が流れています。学校の中はアメリカの大学のプログラムで来日した学生であふれていて、昨日から授業が始まっています。教師は総出でその授業をしています。しかし、私は日本語教師養成講座の講義やその準備に明け暮れています。いつもの年なら私もアメリカからの学生の授業をするのですが、今年は養成講座が最優先です。

ここ数年、日本語がほとんどゼロのクラスを担当してきましたから、授業が終わると本当にへとへとでした。でも、スタートがゼロですから、ちょっとでもできるようになったら伸び率無限大なのです。学生もできるようになったことが実感できますから、とてもうれしそうな顔をします。わからない言葉に包まれて教師以上に精神的に疲れているかもしれませんが、きっと心地よい疲れを味わっているのでしょう。

今年はそういう場面に立ち会えないのが残念なのですが、養成講座の授業でそれを補っています。こちらの受講生も、日常普通に使っている日本語や、もう少し大きくいうと言語そのものを、あるいは政治経済、科学技術なんていう角度で眺めてきたこの国を、今までとはまるっきり違う視点から見つめ直す新鮮さを味わっているようです。驚きと感動をもたらしているのだと思うと、アメリカの学生たちに対するときと同じ種類のさわやかな疲れを感じることができます。

私は文法とか言葉の意味とかをねちこちと考えるのが好きですから、養成講座の講義の準備は楽しんでやっています。むしろ、深入りしすぎないようにブレーキをかけているくらいです。あんなこともこんなことも受講生に考えてもらいたいと思いながら授業の計画を立てていると、資料がどんどん膨れ上がってしまいます。今週の3回の講義でも、山ほどあった伝えたいことを泣く泣く切り捨てて、どうしてもっていう内容を厳選しました。来週もそんな感じになりそうです。

さて、来週は新学期の準備もしなければなりません。忙しくなります。

発想の違い

6月25日(木)

期末テストの作文を採点しました。Tさんの作文は、1段落目を添削したところで採点をあきらめました。何回も読み返しましたがTさんの主張内容がついにつかめず、「言いたいことがわかりません」というコメントを書いて、Fをつけました。

採点をあきらめたということは教師として白旗を揚げたことになりますが、そのくせ学生に対してはFという強気の態度で臨むのは、なんだか理不尽なような気もします。今学期指導し続けてきたにもかかわらず改善しなかったのは、教師の力量が及ばなかったのか、Tさんの学力が足りなかったのか…。

Tさんの文章を読むと、思いついたことをどんどん文字にしているような感じがします。与えられた課題に対してブレインストーミング並みにどんどん単語を出し、それをそのまま原稿用紙に書き付けているように、脈絡のない文が並んでいます。一文の中でも主語と述語がねじれているくらいですからね。

授業中によく書かせた短文レベルだと、ターゲットとしている文法や語彙を使ってそれなりの文が作れるのです。しかし、文をいくつか並べた文章となると、とたんに意味不明となってしまいます。話をさせても、Q&Aレベルならどうにかなりますが、今後の進路についてなどというまとまった話になると、理解するには相当な気合が必要になってきます。

Tさんの場合、どうも私たちとは思考回路がかなり違うようです。Tさんからすると、先生はどうして私の気持ちをわかってくれないんだろうというところかもしれません。私は時間をかけてTさんと話し合ったことがありますから、少しはTさんの気持ちや考えが理解できます。それでも作文の採点をあきらめざるを得なかったのですから、EJUの記述はどうだったのでしょう。志望校によっては小論文もありますし、面接はどこでもあります。Tさんは決してバカじゃないだけに、かえって暗澹たる気持ちになります。

ただいま採点中

6月24日(水)

超級の読解の期末テストを採点しています。きちんと授業を聞いて、テキストを読み込んでいる学生もいれば、質問文をろくに読みもせずに答えているような学生もいます。「教科書の言葉を使わずに」と傍点までつけて注意しているのに教科書からそのまま文を抜き出してきたり、空欄の前後のつながりを考えずに単語だけ突っ込んだりしている答えもありました。

採点していて、この学生は授業のときはわかったような顔をしていたけど、本当は全然文章が読み取れていなかったんだね、ということがわかる答案がいくつかありました。EJUの翌日が期末テストでしたから、EJUに全精力を使い果たして、期末の勉強が疎かになってしまったのだろうと、好意的に受け取ることにしています。もちろん、中にはこちらの予想を上回るすばらしい内容の答案もあります。そういう学生は、やっぱりコンスタントに授業をしっかり聞いていますね。

私は満点は取らせないけど合格点は取れるテストを目指して、問題を作っています。ですから、実力差が表れる問題と、これができなかったらよっぽどサボっていたんだねという問題とが共存しています。今回は、誰でも取れるはずのサービス問題を落とした学生が多かったように思えます。でも、その割に不合格者が少なかったのは、何だかんだ言いつつも、超級の力を持っているからなのでしょう。

例文を添削したりテストを採点したりすると、いろいろと物申したくなるものですが、絶対値を測れば、KCPで超級まで上がってきたということは、かなりの日本語力を持っているということなのです。だからこそ、それをテストの成績という形で残すために、質問文ぐらいきちんと読んでもらいたいし、前後のつながりを考慮に入れてしかるべき答えを書いてもらいたくなるのです。

献血

6月23日(火)

今学期は、赤のボールペンを2本使い切りました。初級のクラスを2つ持ったので、宿題のチェックや例文・作文の添削、テストの採点などで見る間に赤ペンのインクが減っていきました。私の血が学生に吸い取られていくような錯覚に陥ったこともありました。

宿題のチェックは、間違えたところをきっちり直さなければなりません。ここで直しておかないと、間違った形で定着してしまいかねません。学生の勘違いを正し、基礎部分に穴が開かないようにしていくのが初級の教師の最重要任務です。既習の文法のミスも含めて、あらゆる間違いを一つ残らずつぶすつもりでチェックします。

だから、学生によっては、提出した宿題が真っ赤になって返ってくることもあります。チェックする立場としてはこんなに赤を入れたら受け取った学生は読みたくなくなるんじゃないかと思うこともあります。でも、その真っ赤な宿題で自分の実力を知り、さらに勉強に励んでもらいたいのです。

作文は、学生たちをたたき続けた結果、文法や表記の間違いが確実に減りました。まだ期末テストは採点していませんが、最初はC評価ばっかりだった学生たちがどこまで成績を伸ばしてくるか楽しみです。

今日は漢字テストの採点をしました。私の受け持ちのクラスじゃありませんでしたが、概していい成績でした。私のクラスもこのくらいいいと幸せなんですけど、果たしてどうなんでしょう。

漢字も文法も読解も、私のボールペンの血を吸い取ってどこまで成長したか、楽しみのような恐怖のような…。

始まりました

6月22日(月)

全校的には期末テストでしたが、私にとっては日本語教師養成講座スタートの日でした。初回は日本語教育概論ということで、これから教壇実習に至るまでの舞台となるKCPという学校のしくみや、そもそも人に物を教えるとはどういうことかとか、日本語教師とはどんな仕事をするのかなどについて話しました。話しましたというよりは、半分は考えてもらいました。考えてもらうとは、受身ではなく主体的に授業に参加してもらうということです。

どこの日本語学校でもそうだと思いますが、日本語の授業は教師の説明を一方的に聞くだけではなく、学習者自身が口や手や体を動かしながら身に付けていくものです。ですから、養成講座のうちから授業とは自分が動くんだ、教師は学習者を動かすんだっていうことを身をもって感じてもらいたいのです。

明日からはもう少し理論的なことをやっていきますが、「教える」だけの授業はしません。答えの出し方までは教えますが、実際の答えは自分自身で出してもらうという考え方でいきます。日本語教師は、いつどんな形でどんな質問が飛んでくるかわからない仕事です。そういった質問にすぐ対応できるように、今からビシバシ鍛えていきます。

勝つやつが強い?

6月20日(土)

スポーツやゲームなど、戦いには、「強いやつが勝つ」類のものと、「勝つやつが強い」という発想のものとがあります。前者は、試合場に赴くまでにどれだけ実力を蓄えたか、すなわち、いかにたくさん練習し、鍛錬し、時には涙を流したかで勝敗が決します。後者は、試合の現場で運や流れがつかめるかどうかが勝ち負けの分かれ目になります。じゃんけんなんかは後者の典型でしょうね。

入試という勝負事は、「強いやつが勝つ」と言いたいところですが、そうとばかりは言えません。入試を行う側は「強いやつが勝つ」ゲームにしようと思っていますし、それに参加する受験生たちもそういうつもりで勉強しています。試験前日までは「強いやつが勝つ」のです。しかし、試験会場に入るや、「勝つやつが強い」というルールに変わってしまうのです。どんなに力を蓄えても、その力が試験場で発揮できなかったら、実力がないとみなされてしまいます。

ですから、実力は伸ばしたり蓄えたりするだけではなく、いかに発揮するかも考えておかなければ、受験戦争に勝利することはできません。ところが、受験生はこれをおろそかにしちゃうんですね。

現場で実力を発揮するには、まず、当日いらぬ心配事を抱え込まぬことです。受験票を忘れたとか、試験会場を間違えたとか、寝坊して走ってやっと間に合ったとか、おなかが痛くなったとかということにならないように、準備を万全に、体調を整えておくことです。シャープペンシルに長い芯を入れておくなんていうことも、その一つでしょう。

それから、現場で芽を出しそうな不安の種を押さえ込むことです。時間が空いたらトイレに行っておいて、試験中に尿意を催すことのないようにしておくとか、冷房の効きすぎを想定して、羽織るものを持って行ったり半袖を避けて暑かったら腕まくりするようにしたりとかです。

明日は、EJU本番です。「強いやつが勝つ」でも「勝つやつが強い」でも、どっちでも最後に笑ってほしいです。

帰りたいけど

6月19日(金)

一時帰国したいけどMERSが怖い――韓国の学生の偽らざる気持ちのようです。来週月曜日の期末テストの翌日からの学期休を控え、韓国担当のPさんのところへ学生が押し寄せています。

「私、一時帰国してもいいですか」「はい、一時帰国届けを出せば、いいですよ」「でも、MERSが心配です」「じゃあ、日本にいたら」「でも、もうチケットを予約しましたから…」「じゃあ、行けば」「日本へ戻ってきたとき、韓国人はダメって言われたらどうしますか」「それが心配だったら、日本にいるのが一番いいんじゃない?」「でも、国に用事がありますから…」

こんなやり取りを延々と続ける学生が何人もいるそうです。学生はPさんに答えを求めているのではなく、心配の種を聞いてもらいたいのです。心配でたまらない自分に酔っていると言ってもいいでしょう。そういう試練を乗り越え留学を続けようとしている自分の姿を、自分で英雄視しているのかもしれません。

私のような日本で生まれ育った人間にとっては、MERSはニュースでしかありません。もちろん、普通の日本人よりは強い関心を持っていますが。でも、韓国の学生にとっては、我が事です。当事者だから冷静に考えられなくなり、上述のPさんとのやり取りのようなことになってしまうのです。

日本が留学生を受け入れ始めて間もない頃、中国で辛亥革命が起こると、みんな新しい国づくりに参加しようと帰ってしまったそうです。これほどのことではなくても、留学生は国のことを気にかけながら勉強しています。おそらく、生まれてからいちばん「国」を意識しているんじゃないでしょうか。

留学とは、国際性が身に付くと同時に愛国心も芽生える、その人の人格形成に多大な影響を与えるイベントなのです。

何とかしろよ

6月18日(木)

Sさんは進学コースの学生ですが、成績が思わしくありません。それに加えてここへ来て1週間近く欠席してしまいました。来学期も同じレベルをもう一度勉強することが確定的です。友人のOさんの話によると、Sさんは毎晩のようにお酒をたくさん飲んでいるそうです。留学生活が思い通りにいかなくて、その憂さ晴らしで深酒しているのかもしれませんが、感心しません。

何より、Oさんに迷惑をかけていることがいけません。OさんはEJUが迫っているのに、酔っ払ったSさんの介抱をさせられています。そんなことをしているどころじゃないのに、国にいたときからの親友を捨て置くこともできず、貴重な時間を費やさざるを得ない状況に追い込まれています。Sさんは親友の足を引っ張っていることに気が付いているのでしょうか。自分の行動が親友の将来に暗い影を落としかねないことなんか、自覚していないでしょうね。

2人の状況をつぶさに見ているわけではありませんから断定はできませんが、話を聞く限りSさんのお酒の飲み方は問題飲酒です。最近の欠席は胃の不調によるものですが、内科ではなく心療内科に診てもらうべき心身状態かもしれません。

Sさんは未成年ではありませんから、法律上はお酒が飲めます。しかし、Oさんの犠牲の上に立って飲み続ける資格も権利もありません。本分である学業を疎かにするような飲み方が許されるわけがありません。クラスに彩りを添えてくれる貴重な学生ですが、このままじゃ最悪帰国ですね。私たちがSさんの内面に踏み込んだ指導ができなかったことはこちらの反省点ですが、Sさん自身が自分自身を何とかしようという気持ちがなかったら、この問題は解決しません。