Monthly Archives: 3月 2016

命名法

3月15日(火)

受験講座の化学を受けている学生たちは、有機化学に出てくる物質名を覚えるのに難儀をしています。そこで、今期は、主な有機化合物の構造式とその名前をプリントにまとめ、学生たちに配りました。教科書の何十ページにもわたってちびちびと登場するたくさんの有機化合物を、一網打尽にしました。

そのプリントを配り、今すぐ覚えろと言い、20分後にテスト。もちろん、いい点数なんか取れるわけはありませんが、私が見ようと思ったのは、化合物名の覚え方やテストでの答え方です。

Hさんは、国で勉強した知識を基に、国で勉強した名前をカタカナに置き換えていきました。安息香酸みたいに漢字の名前になるとつまずき気味でした。

Sさんは、ひたすら丸暗記を始めました。カタカナ語は皆目見当がつかないということで、つべこべ理屈を唱えず、潔く丸暗記に取り掛かったのです。

テストとなると、Hさんは手持ちの知識でどうにかなるところをどんどん答えていきます。一方、Sさんは暗記した部分はすぐに答えられましたが、そうでないところでは筆が止まってしまいます。しかし、Sさんが偉いのは、構造式と化合物名の一覧表の問題となっていない部分、つまり、構造式とその物質名の両方が出ているところからヒントを得て、命名法の規則方を推測し、それに基づいて答えていた点です。

有機化合物の物質名は、IUPAC命名法という規則にのっとって付けられており、その規則がわかれば、構造式から物質名が自動的に付けられるのです。Sさんはその規則を見つけ出そうとし、一部は見出すことに成功していました。残念ながら、IUPAC名ではない慣用名が定着していてそちらが用いられるものも少なからずあります。そうなると、Sさんの努力も実りません。

でも、このように雑多なものの中から規則を発見し、そこから自然の本質に迫ることこそ、科学者が進むべき道です。正直に言って、Sさんの実力はまだまだだと思いますが、伸びる芽はもっといるとも思います。

ハンドドライヤー

3月14日(月)

2階から5階の学生用トイレに、ハンドドライヤーがつきました。今年の卒業生一同が寄付してくれたものです。これまでにAED、廊下のベンチが卒業生からの寄付で贈られています。AEDは幸いにもまだ使用実績はありませんが、ベンチはすっかり定着して、学生たちのおしゃべりの場、軽い食事の場を提供してくれています。このハンドドライヤーも、すぐに空気のようにあたりまえの存在となることでしょう。

そもそも学生たちは、およそハンカチというものを持たず、トイレで手を洗うと、手を振って水気を飛ばそうとします。そのため、トイレの床は常に濡れており、それに外の土やらほこりやらが絡んで、どんなに掃除をしてもどこと泣く汚れた感じがありました。トイレの鏡もその水滴の標的となり、きれいとは言いがたい状態でした。

今年の卒業生は新校舎の1期生で、きれいな校舎が汚れていくのが耐えがたかったのでしょう。寄付物件として、ハンドドライヤーを選んでくれました。早速学生たちは使っています。1階の教職員トイレには取り付けられなかったので、私も3階の学生トイレで用を足して手を洗って使ってみました。思ったより強力で、あっという間に洗った手が乾きました。外は雨が降っていて、靴がいつもより汚れているはずですが、トイレの床はいつもよりきれいなような気がしました。

卒業生が後輩のために寄付をするというパターンが定着したようです。以前から同窓会組織はありましたが、ベンチやハンドドライヤーなど目に見える形で先輩に触れられるようになると、「同窓」という意識も強まるでしょう。

書類を取りになどでKCPへ来る卒業生がちょこちょこいます。明日からは、トイレを案内してあげようと思います。

旅立ち

3月12日(土)

今週は別れの1週間でもありました。全国各地とまでは言えませんが、北にも西にも卒業生たちが旅立っていきました。東京を離れる学生は、東京で進学する学生よりも、新しい生活への期待も不安も大きいです。受験の際にその町を見ているとはいえ、それはしょせん旅行者の目です。その地で何年間も暮らすとなったら、心配の種には事欠かないでしょう。また、新たな土地へ引っ越すとなると、それにまつわる手続きも自分の手でしなければなりません。1年か2年とはいえ、住み慣れた土地を離れるのは、勇気と根気の要る仕事だと思います。

私も大学進学で地方から東京へ出てきた口ですが、親も親戚も手を貸してくれましたから、KCPの学生たちに比べたら、不安なんか桁違いに小さかったです。就職の時ですら、レールと道路はつながってるんだという気持ちでした。卒業後久しぶりに学校に顔を出した学生は、よく「ふるさとへ帰ったようだ」と言います。私が大学生の時に実家に対して抱いていた感情が、多少は学生たちの気持ちに近いのかもしれません。

となると、我々教師は、実家の母であり父であるわけです(中には姉か兄と思ってもらいたい先生もいらっしゃるでしょうが)。学生が成長した姿を自慢できるのは、ひよこの頃を知っている私たちだけなのです。私たちも、立派になった学生たちの姿を目にするのと、無上の喜びを感じます。

昨年も、私なりに、種をまき、水をやり、台風よけの囲いを作り、実を実らせてきたつもりです。その果実が遠い地でも芳香を放つことを、期待してやみません。

再び、金曜日

3月11日(金)

あの日も、金曜日でした。午前中の授業を終え、旧校舎の5階にあった職員室で学生に漢字テストの追試を受けさせようとした時です。小刻みな揺れが始まり、学生は「先生、地震」と私を見上げました。「大丈夫、大丈夫」とテストを始めるように促しましたが、揺れは収まらず、「結構来ますね」なんて言っているうちに、揺れが本格的に。学生は机の下にもぐり、私は机の上のパソコンや本や書類が落ちないように手で押さえました。目の前のビルが大きく左右に揺れて、「頼むから倒れないでくれ」と心の中で強く祈ったのを今でもよく覚えています。

その日は卒業式の翌日で、あるレストランのクーポン券を持っていたので、夕食はそこで美味しいものをいただこうと思っていました。揺れの最中も、そのレストランが営業を中止するのではないかという、今思えば実にみみっちい心配をしていました。もちろん、地震後の諸対応で、たとえ営業していても行くことはできなかったでしょう。

上級クラスのN先生は、3.11関連の生教材か何かの授業を入れるようにとお願いしておきましたから、映像資料なども活用して、そういう授業をしてくださいました。しかし、私はといえば、地震や原発事故の記憶を風化させてはいけないとは思いながらも、午後2時46分は来週の教材を考えているうちに過ぎ去っていました。原発をバンバン再稼動させる政策に疑問を感じながらも、こんなことでは言行不一致ですね。

昨年末、思わぬ休暇が得られたので、仙台へ行きました。仙台駅などは震災前よりにぎやかになった気さえしましたが、海岸に近づくにしたがって、更地やプレハブの建物が目立ってきました。新築の家が固まって建っているところは復興が進んでいると考えられますが、私の目にはかえって震災の傷跡が浮かび上がってきました。

日本は地震大国です。「震災」が意味するところは、地域によって、人によってそれぞれです。どんな震災であれ、私たちにはその記憶を後の世の人に伝えていく責任があります。そして、日本を知ろうとしている世界の若者たちにそれを伝えていくことが、この学校の使命です。

伸びたね

3月10日(木)

お昼過ぎに去年の卒業生のCさんが来ました。スーツ姿なのでどうしたのかと聞くと、この近くの会社までアルバイトの面接に来たからKCPにも顔を出しに来たとのことでした。

在校中のCさんは、おとなしいを通り越して、意思疎通すら事欠くありさまで、Cさんに一言しゃべらせようとすると、こちらが十言ぐらいしゃべらなければなりませんでした。今通っているM大学も、Cさんにとってはレベルが高すぎるので、あの話しっぷりでは面接で落とされるのではないかと危惧したほどです。どこをどう評価されたのか首尾よく合格しましたが、入学してからが試練だろうなと思っていました。

ところが、目の前のCさんは、私が一言口を挟む前に十言ぐらい話すのです。それも、無意味な内容ではなく、いいたいことを要領よくまとめた話し方なのです。これならM大学でもそれなり以上の成績を収めているだろうなと感じさせられました。また、こういう調子で面接を受けてきたなら、きっとその会社のアルバイトに採用されるだろうとも思いました。

Cさんの口から、就職希望先として、T社の名前が出てきました。日本人でも簡単には入れない会社ですが、挑戦してみたいと、1年生が終わったばかりですが、目標として掲げたようです。以前のCさんだったら、とても考えられない積極性です。日本人学生に伍して1年間大学生活を送ってきたという自信が、「T社」という希望表明につながったに違いありません。

どうやら、私たちよりもM大学の面接官のほうが、学生を見る目が確かだったようです。潜在力を引き出してもらえたCさんは、M大学で充実した学生生活を送っているんだろうなと思いながら、Cさんの背中を見送りました。

早朝の楽しみ

3月9日(水)

卒業生を送り出して授業時間が減ったので、久しぶりに理数系科目に時間がかけられます。今朝は誰もいない静かな職員室で、EJUの数学の問題を解きました。ただ答えを出すのではなく、答案を作り上げていくと、他人に読ませることを前提に思考経路を文字化するわけですから、頭の訓練になります。

生物の問題も解きました。こちらもまた、なぜそういう答えが導き出せるのかということを説いていくとなると、あれこれ調べて裏づけを取ることが必要です。このあれこれ調べる過程であちこち寄り道するのが、私にとっては幸せなひとときなのです。生物なんかは、教科書の隅々まで読むと、意外な知識やエピソードなどが得られることがよくあるのです。

先週までは授業に追い立てられていましたから、なかなかこういう時間が取れませんでした。というか、今朝といた数学の問題は、去年のうちに済ませておくべきものだったのです。数学や理科の問題は、頭のさえている早朝に解きたいのですが、午前中に授業があると、そちらの準備に時間が取られがちで、こちらの仕事は後手に回ってしまうのです。

でも、こういう幸せが味わえる時間は長くはありません。新入生の受け入れ準備を始め、4月期に備えての動きが始まると、まっ先に犠牲になるのがこの時間です。とは言え、4月期が始まるまでに何とかしておかないと、残った分は4月期が終わるまで手付かずになりかねません。しかし、6月のEJUの直前には学生たちに問題をやらせて、その解説をしなければなりませんから、持ち越しは許されません。

結局仕事に追われることになりそうですが、それでもしばらくは春の気配が濃くなっていく早朝のひとときを楽しみたいです。

気温変化

3月8日(火)

目を覚ますと、目の前のマンションすらぼやけるほどのひどい霧。そして、部屋の空気がなんだか暖かく感じられました。天気予報の予想気温は20度。コートを着ていこうかどうしようか迷いましたが、明日はまた気温が下がるとのことなので、着ていくことにしました。さすがに、マフラーはしていく気がしませんでした。

外に出た瞬間、失敗したと思いました。コートが重く、夜帰るとき多少寒く感じても、コートは着るべきではなかったと思いました。でも、またエレベーターに乗って家まで戻るのもかったるいので、そのまま駅へ。

3月のまだ上旬ということで、暖かさが信じられなかったのです。もう2週間も後だったら、確実にコートを着ずに出かけたでしょう。自分の肌の感覚ではなく、頭の中のデータを基に行動したわけです。肌感覚からの結論を日付データで修正したとも言えます。今日はどうやらそれが失敗のようですが、肌感覚にしたがって痛い目にあうこともしばしばです。頭脳も野性のカンもあてにならない凡人は辛いものです。

週間予報によると、明後日あたりから最高気温が10度に届かない日が続くようです。今日の最高気温が20.8度ですから、明後日まで一本調子で下がり続けるイメージです。こうなると心配なのが、風邪を引く学生が増えることです。今日の私のクラスは実質全員出席でしたが、今週末はどうなっていることでしょう。学生たちも私に負けず劣らずいい加減な肌感覚で、しかも私よりひ弱ときていますから、これからの急激な温度変化に耐えられるか気がかりです。

顔を作る

3月7日(月)

大量の卒業生が去ってしまったので、午前中の校舎は寂しいものがあります。使われていない教室が多いためどこか薄暗く、休み時間になっても廊下には学生の姿がちらほらするだけです。職員室も、午前中はスカスカでした。

私は超級レベルで残っている学生たちを併せたクラスを担当しました。この学生たちは、来学期からKCPの顔になります。そして、この学校をこれから1年間引っ張っていくことになります。そういう存在になってもらわなければ困ります。

少なくとも来学期の行事では、中心的な働きをしてもらうことになります。去年4月期に行われた運動会でも、去年の卒業式以降に残った超級の面々が、競技役員を始め、中心になって働いてくれました。その経験がとても印象深かった、最上級クラスの一員という自覚が生まれたという声も、おととい卒業していった学生たちから聞かれました。彼らは立派にKCPのか落として活躍してくれたと思います。

だから、今朝の超級合併クラスでは、集まった学生たちに自覚を促すと同時に、プレッシャーもかけました。先週までは卒業していった学生たちの陰に隠れてふわふわしていてもよかったのですが、今からはそうではありません。最上級クラスの一員として、先輩として、在校生にもこれから入ってくる新入生にも、模範を示し、KCPを盛り立てていくことが求められます。

このクラスの学生は、進学実績も上げてもらわなければなりません。初日は「お手柔らかに」したつもりですが、明日からはガンガン行きますよ。覚悟しておいてもらわなきゃ…。

卒業証書をもらう

3月5日(土)

9時ちょっと前に四谷区民センターの9階へ行くと、すでに知った顔がちらほら。授業の時とは違い着飾っているので、挨拶の声を聞いて誰なのかわかることも。

卒業式は、卒業証書をもらうか修了証書をもらうかが学生にとって運命の分かれ道ですが、我々教師にとってもその年度の総決算を意味します。今年度は卒業証書がもらえるだろうか、頑張ったけど修了証書どまりだろうか、私は毎年そんなことを考えながら、一人ひとりの学生に証書を渡しています。

Aさんは伸びたと思えれば卒業証書に近づくし、Bさんの出席率は結局改善されなかったと思えば修了証書のほうに引っ張られます。Cさんを無理だと思っていた第一志望校に入れたのは殊勲賞だけど、Dさんの行き先が決まっていないのは指導力不足だったかな。Eさんは苦手の漢字を克服したけど、Fさんの漢字嫌いはどうにもなりませんでした。入学時はあんなに純真だったGさんがやさぐれてしまったのは私たちのせいかな。最後の3か月でこちらを向いてくれたHさんは、KCPにも心を開いてくれたんでしょうか。

毎年、思うところがたくさんあるのですが、今年は去年より卒業生が多い分だけ、私の前に立つ学生の顔を見ながらこの1年の自分自身を見つめなおす時間もたっぷりいただけました。

午後は卒業生と教師の交流パーティー。琴の「ふるさと」に学生たちがKCPを思い出すときのことを重ね合わせ、歌クラブの卒業生・Iさんの涙に心を揺さぶられ、演劇部の演技とセリフの自然さに魅了され、ダンスクラブのパフォーマンスにはこれまで同様圧倒されました。でも、今年の目玉は、教師の合唱です。学生に隠れてこっそり練習した成果を披露すると、Jさんは涙をあふれさせていました。

式は会場の都合上ゆっくりできませんでしたが、交流パーティーは卒業生も教師も十分に感慨に浸ることができました。どの先生も、寿命が10年ぐらい縮みそうなくらい、卒業生に挟まれた写真を撮られていました。

これだけ学生に慕われたのですから、私たちもかろうじて卒業証書をもらえるでしょうか…。

早くも課題

3月4日(金)

今年の卒業式は例年より早いので寒空の中で行われるのかなと思っていましたが、天がKCPに合わせてくれたのでしょうか、ここに来て急に暖かくなりました。今朝も、遅刻して教室に入ってきた学生があっさりエアコンのスイッチを切ってしまいましたが、誰も文句を言わず、授業終了までエアコンなしでも全く寒くありませんでした。卒業式の予行演習ということで、体を動かしたからかもしれませんが…。

最上級クラスの卒業式前日の授業ということは、KCPで一番レベルの高い授業ということですから、その名に恥じることのないように、日本人でも骨の折れそうな漢字のパズルをやらせました。いかに最上級クラスとはいえ、さすがに一人でやるのは難しかろうと思い、周りの友達と協力してやってもいいことにしました。しかし、多くは独力で答えを出そうとしていました。

辞書やスマホを参考にしながらでしたが、途中で投げ出す学生はおらず、むしろ、私の予想よりもだいぶ早くできてしまった学生が次々と。改めて学生たちの能力の高さを感じました。一流の大学院に進学することになっている学生も多いクラスですから、当然といえば当然ですね。

ただ、論理的に推論して答えを導き出す学生がいる一方で、行き当たりばったりに解いている学生もいました。来年進学予定の学生に後者のタイプが多かったことが少々気懸かりです。でも、明日卒業する学生だって、去年の今頃はそんなもんだったかもしれません。1年間もまれ続けたおかげで、きちんとした仕事の進め方ができるようになったとも考えられます。要するに、これから1年の課題が突きつけられたわけです。

「明日、卒業パーティーの後、一緒に食事をしてくださいませんか。YさんもHさんもMさんも、みんな来ますから」と、授業後、完璧な日本語で明日のお昼のお誘いを受けました。春の陽気に釣られて、ふらっと出かけることにしました。