書けない話せない

1月7日(土)

教師の新学期の打ち合わせがありました。その中で出てきた話に、まとまったことを話す力と、文章を書く力が弱い学生が増えてきたというものがありました。私にも大いに思い当たる節があります。

一読しただけでは内容がさっぱりわからないという作文は、枚挙に暇がありません。文法の例文は作れても、作文となるとからっきしダメなのです。考えや思いを読み手に伝わるように書くことは、文法の穴埋めや漢字の書き取りとは違う能力が要求されます。国でJLPT対策の塾に通っていたりすると、こういうアンバランスな力の付き方になることがあります。

話すほうも同様で、日本語教師ならどうにか理解できても、普通の日本人には理解してもらえないだろうなという学生がよくいます。発音やイントネーションが悪いというのもありますが、論旨が追えないこともよくあります。一生懸命話してくれるのですが、聞き手は理解できる断片をつなぎ合わせて、想像力をたくましくして、話の趣旨をおぼろげながら思い浮かべているに過ぎません。

こういった学生は、文と文の接続がうまくできません。そして、自分の頭に浮かんだことを加工せずにそのまま書いたり話したりしようとします。だから、作文を読んでいると、あたかもその学生に話しかけられているかのような錯覚に捕らわれてしまいます。相手が同じ思考回路を持っていれば理解してもらえるかもしれませんが、そんなことはほとんどありません。思考回路間の橋渡しをするのが接続表現なのですが、それがないとなると、読み手や聞き手は理解の糸口も手がかりも見つけられなくなります。

何より問題なのは、話せなかったり書けなかったりしても、本人がそれを重大な問題だとは感じていないということです。研究計画書や志望理由書を書いたり面接練習をしたりする時に及んで初めて、自分の能力の欠如に気づくのです。そして、何度か痛い目にあって鍛えられて、どうにか進学にこぎつけるというわけです。

そういうことにならないように、初級や中級の作文でみっちり鍛えようとするのですが、教師の気持ちは学生にはなかなか伝わりません。話すことや書くことは、それまでの勉強の集大成だと思います。習った語彙や文法を駆使し、読解のテキストで読んだ文章の構成を思い出し、そういったものを組み合わせて自分の頭や心を表現していくのです。それができなかったら、真にそのレベルを修了したとは言えないと思います。

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