上澄み

1月19日(火)

今学期は最高レベルの超級クラスを2つ、上級の入口レベルのクラスを1つ持っています。両者を比べると、愕然とするほどの実力差があります。卒業文集の下書きを並べてみると、超級クラスは語句レベルの手直しで済みますが、上級の入口レベルは文の構成に抜け落ちがあります。だから、そこを補うように指示を出していかねばなりません。

いやしくも上級なのにそんな体たらくなのかと言われてしまいそうですが、そもそも文章を書くという技能は、語学の四技能のうち最難関なのではないかと思います。「聞く」「読む」は情報受信であり、受け身の姿勢でも何とかなります。「話す」「書く」は情報発信なので、何より発信すべき何物かを持っていなければ、どうしようもありません。そして、情報発信となると、受信する身にならないと一方的、独りよがりの行動になってしまいます。また、「話す」は後に何も残りませんが、「書く」は書いたものがいつまでも形として残り、何回でも読み返され、時には批判に晒されます。超級クラスの学生は、発信すべき何物かを持ち合わせ、しかも受信する側を慮って発信しています。上級入口クラスは、その域には及ばないというわけです。

上級入口クラスの学生にも、あまり手を入れなくてもいい文章を書く学生もいます。しかし、超級クラスの文章に比べると、エンターテインメントの要素に欠けているように思います。KCPでの思い出を語るのに精一杯で、読み手の心に響くところには至っていません。超級レベルは、サラッと書いているようで、きっちり盛り上げているんですね。自分にとっての外国語をここまで使いこなせるなんて、外国語を学んだことのある者として尊敬してしまいます。

そういう超級クラスでも、受験では頭を痛めています。Yさんは、今、国立大学に出す志望理由書を書いています。Yさんレベルの学生が紙一重の差で戦うのです。上を見ればきりがないと言いますが、まさにその通りです。

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