4枚の切符

10月15日(木)

お昼を食べて帰ってきたら、1階の受付にKさんが立っていました。Kさんは大学受験のため、明日の授業後、新幹線で京都に向かいます。京都までののぞみの指定席を取ったのはいいのですが、乗り方がわからないと言います。乗車券と特急券とで片道2枚、往復で4枚の切符を目の前にして、戸惑っている様子でした。

.Kさんは超級クラスの学生で、日本に2年近く住んでいます。もちろん、Kさんの国にも鉄道はあります。それでも新宿駅で切符を4枚も渡されると、不安でたまらなくなってしまうのです。自分の人生を左右しかねない旅行だっていうプレッシャーがそうさせている面もあるでしょう。また、新宿駅の窓口で切符の使い方を聞こうと思ったけど、後ろに並んでる人がいたから遠慮したとも言ってました。そういう優しさはKさんの美点ではありますが、時にはずうずうしさ、ふてぶてしさも必要です。

私は旅行が好きで、まとまった休みのたびに旅行していますから、どんな切符でもビビることはありません。でも、旅慣れない人にとっては、乗車券と特急券の2枚だけでも怖気づいてしまうのでしょう。それが往復で2組あるとなると、間違ってしまうのではないか、そのためせっかく取った指定席に乗り損ねるのではないかって心配になるほうが普通の神経かもしれません。

乗車券と特急券を1枚にできないものでしょうか。いろいろと複雑な事情があって2枚としているのでしょうが、お客のほうに顔が向いていないと言われてもしかたがないシステムだと思います。まあ、常連さんはケータイをかざすだけで、通常料金より安く新幹線に乗れちゃうんですから、お得意様には優しいんですね。

いずれにしても、Kさんには、新幹線の切符ごときに振り回されることなく、あさっての入試で全力を出し切り、来月初旬に朗報を聞かせてもらいたいです。

不安をあおる

10月14日(水)

午前中の通常授業のあと、進学相談と、面接練習と、理科の受験講座のオリエンテーションと、志望理由書と小論文の添削とで日が暮れてしまいました。

Cさんは親に意向で大学院進学を目指していましたが、本人は専門学校に行きたいと思っていました。KCP入学以来1年間、大学院進学の準備をしてきましたが、自分の思いを抑えることができず、専門学校の体験入学に行ってきました。そうしたら、気持ちがさらに膨らみ、この夏に親に談判して、専門学校への進学を認めてもらったそうです。この判断が間違っていないかという最終確認の相談を受けました。背中を押してもらいたいんだけれども、大学院進学を完全に断ち切ってしまうことに、漠然とした不安も感じているのです。

今週末に面接試験を控えるKさんとFさんが面接練習をしました。もうすでに想定問答を作り、それを暗記するぐらい練習しているのですが、想定外の質問にどう対処したらいいか、1つでも多くのパターンを詰めておきたいのです。練習をどんなにやっても、KCPの教師は受験校の面接官じゃありませんから、すべての質問パターンを網羅することなど、不可能です。それはわかっていても、不安を解消するために、自分の思考の及ばない角度からの質問をしてもらい、自分をいじめずにはいられないのです。

Lさんは、志望校の小論文の過去問に答えては、原稿用紙を持ってきます。私が見れば十分合格点なのですが、どこか直してもらわないと気がすまないのです。直されたところを見たら、それだけ実力がついたような気がするのでしょう。Tさんは志望理由書です。何度ダメ出しをされても、果敢に再挑戦してきます。本番に試験以前に燃え尽きてしまうんじゃないかと、こちらが不安に感じるほどです。

その点、受験講座理科のオリエンテーションは、まだだいぶ時間がある学生たち相手ですから、Cさん、Kさん、Fさん、Lさん、Tさんのように切羽詰ったところはありません。でも、来年の今頃には、理科系ですから、口頭試問の練習をしてくれなんて言っているかもしれません。

感動を与える

10月13日(火)

いろんな事情があって、午前中は最上級クラスで始業日オリエンテーションをし、午後は日本語ゼロの新入生のクラスで、学生にとっては初めての日本語の授業を担当しました。最上級クラスで葉「君たちはKCPの良心だ」と語り、日本語ゼロクラスではゼスチャーを交えて自己紹介を教えました。私は慣れもありますから最上級クラスのほうが楽ですが、ゼロクラスの最初の授業というのも好きです。

「こんにちは」と言いながら教室に入った時、Tさんは不安げな顔つきで上目遣いで私を見ていました。自己紹介のパターンを教え始めて時は、明らかに何もわかっておらず、顔つきがどんどん暗くなっていきました。困ったなと思いながらも、わかっていそうな学生に自己紹介をやらせながらTさんを指名すると、たどたどしさは残るものの、きちんと自己紹介ができたではありませんか。

教えたばかりの教室用語「いいです」で答えてあげると、Tさんの顔つきがとたんに明るくなりました。これで自信が付いたのか、次のひらがなの導入もスムーズにいき、「おはようございます」なんて長音も、「きゅうじゅうきゅう」なんて拗音も、きちんと書き取れていました。何より、何でも吸収しようというTさんの瞳が、朝からの授業でいい加減疲れてきた私を元気付けてくれました。

Tさんたちは、今学期中に、助詞、動詞、形容詞、~は~が文、て形、ない形、辞書形、た形…と勉強していきます。それゆえ、自己紹介ができたからって、明るい未来が約束されているわけではありません。でも、Tさんは自己紹介がわかった時、できた時、間違いなく感動を覚えたはずです。そんな時、人に感動を与えられる職業ってすばらしいなと思います。これが、ゼロクラスの最初の授業の醍醐味なのです。

最後の粘り? 悪あがき?

10月12日(月)

Kさんは入学から先学期末までの出席率が50%で、退学勧告を受けています。学校としては、出席率があまりにも悪すぎるので、在籍の継続を認めず自主退学してもらおうと思い、先学期末からずっとそういう話をしています。しかし、Kさんは何とかして10月からも学校に残ろうとして、学期休み中も毎日のように学校へ来ては頭を下げ続けています。そんなことをしてもらっても、こちらは継続を認める気はまったくありません。

そもそも、Kさんは6月末の時点で出席率が悪いことで警告を受けています。にもかかわらず7月の出席率はそれ以下に悪化し、そこでまた叱られました。そのときに遅刻欠席したら帰国すると誓ったくせに、いつの間にかまた元の木阿弥となり、今に至っています。誓いの言葉を書いた紙を見せても、最後のチャンスをくれと粘っています。それだけの粘りを、なぜ学期中に出席することに発揮できなかったのかと問い詰めたいです。

情にほだされてKさんの在籍を認めると、結局Kさんのためにはなりません。頭を下げて殊勝な態度を示せば、過去のことは水に流してもらえて、どうにかなると思っているのでしょう。これ以上世の中をなめてかかるようになっては、いずれ大ケガをします。退学させることが、我々のできる最後の教育です。退学勧告を無視し続けるようだと、除籍処分にせざるを得ません。そうなるとKさんの経歴にきずがつきますから、そうなる前に退学届けを出してもらわねばなりません。

今もKさんはロビーのカウンター前で2時間以上泣き続けています。でも、優しい言葉をかけてやる気は、爪の垢ほどもありません。

三陸から北陸へ

10月10日(土)

三陸鉄道が観光客を大幅に減らし、赤字幅が拡大してしまうそうです。原因は多々ありますが、その中で北陸新幹線開業によって、三陸を訪れていた観光客が金沢などに流れてしまったというのが目を引きました。

金沢を始め、北陸各地が観光客を大幅に増やしたというニュースは、新幹線開業直後から何度も目にしています。しかし、この三陸鉄道のような、北陸新幹線開業の負の影響が表に出ることはあまりなかったように思います。考えてみれば、日本は人口が減り始めていますから、がんばってもゼロサムゲームなのです。北陸の観光客が増えれば増えるほど、どこかの観光地が訪問客を減らすのです。北陸へ行く分だけ旅行の回数を増やすなんてできる人は、今の日本の経済状況では天然記念物的存在でしょう。残念ながら、三陸は北陸に観光の魅力の点で負けてしまい、選んでもらえなかったのです。

おそらく、全国各地に北陸との観光客争奪戦に敗れ、経済的ダメージを受けたところがたくさんあると思われます。だから、訪日観光客に目を向けているところも多いのですが、これまたどこでもうまくいっているわけではありません。東海道新幹線沿線など、ごく一部に集中しているのが現状です。

観光に限らず、すべての産業においてゼロサムゲームが展開されています。新しいお店がオープンすれば、既存店のどこかが客を減らします。新しいサービスが始まれば、既存のサービスから客が移り、サービス休止に追い込まれるところが出てきます。観光なら外国から需要を呼び込む目もありますが、その他の産業ではそうはいかない場合のほうが多いです。

日本がこんな調子だと、そういう日本に魅力を感じる留学生も減り、日本語教育業界にも影響が及ぶかもしれません。いつまでもアニメだサブカルだとばかり言っていられません。

入学式挨拶

皆さん、ご入学おめでとうございます。世界中からこのように多くの学生がKCPに入学してくれたことをうれしく思います。

今日は私のクラスにいた2人の学生―仮にAさんとBさんとしますーについてお話しします。

Aさんは、国で日本語をある程度勉強してきて、入学したばかりの頃は、無遅刻無欠席で、授業にも積極的に参加するすばらしい学生でした。しかし、日本の生活に慣れた頃から遅刻・欠席が目立ってきました。学校から注意されるたびに持ち直すのですが、気がついたらまた元に戻っているということの連続でした。Aさんに事情を聞くと、これではいけないということはよくわかっていると答えましたが、本当はわかっていなかったのだと思います。ついつい楽なほうへ流れてしまったのでしょう。先学期が始まるときも背水の陣で臨むと言っていましたが、その決意の通りに体が動いたのは1か月だけで、学期末にとうとう退学を決意しました。

Bさんは、日本語がほとんどゼロで入学しました。文法のテストでは合格点は取れるのですが、勉強が進むにつれてそれを会話に応用できない自分に気付きました。アルバイトを始めましたが、そこで使う日本語は単純なものばかりで、Bさんの会話力向上にはあまり役に立ちません。そこで、Bさんは、毎日学校へ早く来て、その日の担当の先生と会話練習することを思い立ちました。そして、それをすぐに実行に移しました。まだ始めてから1か月ほどですが、期末テストが終わってからも、毎日きちんと約束をして、その時間通りに登校し、練習していきます。

AさんもBさんも、根はいい学生です。しかし、これではいけないと思ってから、自分自身を変えていくことができたかどうかが、2人の明暗を分けたのです。Aさんは生活態度を根本から改めることができず、Bさんは自分の弱点に正面から向き合い、それを克服しつつあります。Aさんの心には、留学に失敗したという気持ちが残るでしょう。会話の練習に限らず、Bさんのように授業前に勉強するといってきた学生は今までにもたくさんいましたが、ほとんどが半月もしないうちに挫折しています。このような勉強や練習は、1週間や2週間では目に見えた効果は表れません。だからと言ってやめてしまうのではなく、その苦しい時期を乗り越え続けられ学生が、成果を手にするのです。

もちろん、私が皆さんに望んでいるのは、Bさんのような留学生活です。自分の目標をしっかりと見据え、それを達成するには何をすればよいかを真剣に考え、一見遠回りに思えても最善と信じる道を歩み続けることが肝心です。皆さんがそういう道を歩むのであれば、私たち教職員は、喜んでそのお手伝いをしましょう。

本日は、ご入学、本当におめでとうございました。

暗黒の1年半

10月8日(木)

進学コースの新入生へのオリエンテーションをしました。「普通に勉強しているだけでは、今皆さんが考えている大学や大学院には絶対には入れません」というように、今回は厳しい話ばかりしました。

昨日のレベルテストでレベル1(一番下のレベル)に判定された学生は、レベル3で来年6月のEJU、レベル5で11月のEJUを迎えます。入試の早い大学に入りたかったらレベル3でのEJUが、国立大学を狙うならレベル5でのEJUが、勝負となります。また、大学院志望なら、レベル3か4の時に大学院の先生方と自分の専門について議論しなければなりません。いずれにしても、生易しいことではありません。

有名校とか国立大学とかって考えているなら、他人の3倍も5倍も勉強しなければ目標に到達できません。美術系の人も、自分の作品や美に対する考えなどが説明できるだけの日本語力が、面接試験のときまでに必要です。入学するのは1年半後ですが、入試はそのずっと前にあります。今日本語力がゼロに近い人が、そのときにしかるべき力をつけているには、並大抵の勉強では間に合いません。

だから、KCPにおいては楽しい留学生活など望むべくもありません。勉強に追われる毎日で、真っ暗闇になるに違いありません。人生で最も勉強する1年半になることでしょう。

…そういう話を一方的にしました。甘っちょろい考えで勉強を始めたら、卒業時にこんなはずじゃなかったと後悔するのは学生自身です。だから、そういう芽を徹底的に摘み取りました。もちろん、こちらも本気で全力を傾けて指導していきます。本気で全力だからこそ、生半可な覚悟では困るのです。オリエンテーションに参加した新入生たちには、この辛く苦しい1年半の先に夢の楽園があると信じて、この厳しさに耐え抜いてもらいたいです。

いててて

10月7日(水)

どうも腰痛がひどくなってきてたまりません。おとといあたりからちょっとおかしいなと感じていたのですが、今は椅子に腰掛けていてもうずくような痛みを感じます。というか、痛みに関しては、立っているほうが楽なくらいです。午前中、新入生のレベルテストの試験監督をしましたが、ずっと立って歩き回っていました。動いていればそうでもないのですが、立ち止まったり座ったりとなると、痛みがじわーんと神経を刺激してくるのです。

「病院で診てもらえば?」って言われそうですが、慢性の腰痛ですから治療を続けたところで治癒に至る見込みはありません。どんな名医でも、当面の痛みを和らげて目先の不快感を取り除くぐらいのことしかできません。ただ、今は新学期の準備でパソコン仕事が多い時期ですから、座っているだけで痛いというのは辛い症状です。超級クラスの教材を見つけ出したり作ったりしなければならないのですが、読解教材の候補をじっくり読み込んだり、文法教材のアイデアを形にしたりする気力も湧かず、新入生オリエンテーションの会場設営なんていう、動いていられる仕事ばっかりしています。EJUの数学の問題の解答作りもしなければならないんですがね…。

学生からは志望理由書の添削の依頼が2通来ました。プリントアウトして、試験監督で教室を歩き回りながら赤を入れ、パソコンの前に座る時間は最短にして、送り返しました。頼りにされているとあれば、それに応えなければなりませんからね。

さて、これから帰宅ですが、地下鉄で座れないのが、腰にはちょうどいいくらいです。

母語で学問

10月6日(火)

日本中で大村智さんがノーベル医学生理学賞を取ったことを喜んでいますが、私は中国人の屠呦呦さんが同時に受賞したことのほうに注目しています。なぜかというと、屠さんは中国から出たことがないからです。

今までにも中華系または中国出身で外国籍を取った人が自然科学系のノーベル賞を受賞したことはありましたが、数はあまり多くありません。中国の研究者は、海外に出て行く傾向があります。そこですばらしい業績を残した人も少なくなかったですが、ノーベル賞という超最高級のレベルにはなかなか手が届きませんでした。これには言語の問題があるんじゃないかと思います。

中国語を母語とする人が英語圏に留学すると、当然、英語で物事を考えねばなりません。しかし、その研究者にとって英語は第2言語ですから、母語に比べたら思索が深いところまで届かなかったのではないでしょうか。それゆえ、いい線までは行くんだけれども、最後の絶壁を登りきれず、最高峰には立てなかったのではと見ています。

屠さんは純粋に中国で生まれ育って教育も研究もすべて中国国内です。中国人が中国語で思索すれば(論文は英語で書いたでしょうが、研究についての議論は中国語で行われたでしょう)最高峰に到達できることを実証した点が画期的だと思うのです。屠さんは84歳と、私の母と同世代の方ですが、中国語で学問することの可能性を、身をもって示した功績は、もしかするとノーベル賞そのものよりも大きいとさえ思います。

中国の学生がみんなこんなことを考えるようになると、中国からの留学生が日本へ来なくなって、KCPは商売上がったりになってしまうかもしれません。いや、たぶんそうはならないでしょう。留学は学問を究めるためだけにあるのではありません。世界を広げ、相互理解を深め、地球の未来を明るいものにするためにあるのです。

心配

10月5日(月)

朝、仕事をしていたら、7時半ごろ、電話が鳴りました。「はい、KCP地球市民日本語学校でございます」「あのー、Tさん(英語圏学生の担当者)はいますか」「いいえ、まだ来ていません。8時半ごろ来ると思います」「そうですか…」

しばらく考えている様子がうかがえ、やがて、意を決したように、「Eですが、S先生からメールをもらいました。期末テストの漢字が悪いですからもう一度テストをします。いつですか」「あさって、10月7日水曜日の午後4時からです」「あさっての午後4時にKCPへ行けばいいですか」「はい、そうしてください」「水曜日の4時ですね」「はい、そうです」…という調子に、不安でならないようで、何度も確認していました。

Hさんは何校か受験する計画で、着々と出願準備を進めています。午前中、その相談に学校へ来て、出願書類の1項目ずつ、私と一緒に確認しました。「本番の面接の時、眼鏡をかけた顔とかけない顔と、どちらがまじめそうに見えますか」「Hさんならどちらでもまじめそうに見えますよ」「でも、第一印象がとても大事ですから…」「じゃあ、受験票の写真に合わせなさい」「はい、わかりました。それと、服装はこれでいいですか(と、スーツ姿を改めて私に見せました)」「OK」「ネクタイの締め方もこれでいいですか」「大丈夫」「面接の受け答えのしかたですが、いつから練習を始めたらいいですか」「もう少し本番が近づいたら練習しましょう」…こちらも、細かい点まで気になるようで、行ったり来たりしながらあれこれ確認していきました。

そんな話をして席に戻ろうとすると、「今、Eさんからメールがあって…」と、S先生に呼び止められました。“今朝、学校に電話をかけました。知らない先生が漢字のもう一度テストは水曜日の4時からだと言いましたが、本当ですか”と書いてありました。本当に心配でたまらないんですね。