デザインの基礎を勉強します

10月3日(土)

学期休み中だというのに、授業あり、会議あり、面接練習ありと、忙しい1日でした。期末テストの作文の添削をしなければならないのですが、それが全然進んでいません。1人原稿用紙2枚で、40枚近い原稿用紙が私の机の上を占拠しています。

面接練習は、10月から中級に上がるHさん。芸術系の大学を狙っています。しかし、答えが全然芸術家っぽくありません。大学でデザインの基礎を勉強しますって、ありきたりの答えにも程がありますよ。創造力、発想力って何ですか。どうやって伸ばすつもりですか。そんな言葉を組み合わせるだけなら、芸術の素養が欠如している私でも言えます。実技が多少よくても、そんな答えだったら落とされます。

そうは言っても、Hさんだって日本語で日本式の面接を受けるのは初めてです。できないほうが当たり前です。ここでぼこぼこにされて、どこまで這い上がれるかで合否が決まるといったところでしょうか。本番までもう少々時間がありますから、何とかしてくれるでしょう。私に悪いところを指摘されまくった程度で再起不能なほど落ち込むようじゃ、日本で留学なんて土台無理です。芸術系だったら、精魂こめた作品を完膚なきまでにけなされることだってありえますからね。

それはさておき、もう10月ですから、先月あたりまでに各大学に出願した学生が続々と面接試験を迎える時期です。Hさんぐらいのできなさ加減の面接練習を、いくつもこなしていくことになるでしょう。こちらもそれなり以上の覚悟を決めていかなければ…。

自分の成績

10月2日(金)

金曜日ぐらいに成績が出るよって伝えておいたので、午後ぐらいからその問い合わせが来はじめました。毎学期そうなのですが、電話を掛けたりメールを送ったりしてくるのは、成績に問題がない学生ばかりです。点数が足りない学生に限って、何も言ってきません。怖くて聞けないという面もあるでしょうが、そういう学生はそもそも成績に関心が薄いようにも思います。年功序列じゃないけど、3か月間勉強したんだから、当然進級させてくれるんだよねっていうくらいにしか思っていないんじゃないかな。

電話を掛けてきたHさんは、余裕で合格の学生。Hさんの性格を考えると、掛けてきて当然かな。Cさんも一時はどうなることかと気をもみましたが、きっと直前に猛勉強をしたのでしょう、合格点はしっかり確保しました。Zさんも、授業態度が悪くて私に叱られたこともありましたが、やるべきことはちゃんとやっていて、合格。

自分の成績に関心の薄い学生は、平常テストで不合格でも再テストを受けようとしません。そのため、悪い成績がそのまま記録に残り、学期を通しての成績の足を引っ張ります。間違えたところを勉強し直して再試を受ければ、その項目が頭に残り、中間テストや期末テストではできるようになります。それをしていないんだから、中間や期末でまた同じところを間違え、不合格に直結します。

そういう学生がおとなしくもう一度同じレベルをすることを受け入れてくれればいいのですが、えてしてそうなりません。というか、進級にやたらこだわることが多いのです。だったら学期中からするべきことをしておけよって声を大にして叫びたいのですが、叫んだところで問題の解決にはなりません。学期納めの茨の道が待ち構えています。

病院通い

10月1日(木)

昨日は1日かけて病院を2か所回りました。本当はもう2か所ぐらい行きたいのですが、そもそも、この年になれば体じゅうにガタが来て、いくら病院回りをしてもきりがありません。機械でいえば、経年劣化というやつです。酷使したり耐用年数が近づいたりすると、だんだん調子が悪くなるっていうあれです。風邪みたいな病気は日頃の生活管理で防げても、老化現象はいかんともしがたいです。「老いる」が意志動詞ではないのが何よりの証拠です。それに、学期休みだからってそうそう休んでばかりはいられませんからね。

朝、受付が始まる15分ぐらい前に病院に着いたのですが、私の受付番号は183番でした。総合病院ですからいろいろな診療科を合わせて183番であり、私の診療科は受診者が少なく、診療時間が始まったら、予約時間通りに、すぐに順番が来ました。時間があるだろうと思って待合室にある無料の血圧測定器で血圧測定をし始めたら、名前を呼ばれてしまったくらいです。でも、隣の診療科は多くの受診者が来ていて、こちらの待合室にまで流れ込んでいました。

老人病のご他聞に漏れず、私の場合も慢性疾患ですから、完治は望むべくもなく、いかに現状維持を続けるかがキーポイントです。昨日の担当医も、「あと40年か50年使うつもりで、ずっと見ていきましょう」と、半分は揶揄でしょうが、そう言っていました。病院通いをしていない部分に関しても、病院へ行ったところで劇的な改善は見られないでしょうから、行こうと思わないのです。今通っているのは、ここが壊れたら人生の楽しみがなくなりそうだという器官の病気です。

もうちょっと年を取って、医療費無料化の対象になったとしても、いそいそと通うようにはなりたくないです。注射や採血などは全然怖くないし、どんな苦い薬でも平気な顔で飲めます。また、最近の病院はホテルみたいなすばらしい施設を持っているところも増えてきています。でも、やっぱり、行くのは必要最低限にしたいです。

採点結果

9月29日(火)

今学期もばたばたしているうちに、期末テストの日を迎えてしまいました。私が担当している超級クラスは、私が問題を作り、私が印刷し、私が採点するという、問屋制家内工業みたいなしくみになっています。というわけで、学生一人ひとりの顔を思い浮かべながら愛をこめて作った問題をやってもらいました。

文法は、中間テストがちょっと易しかったようなので、ちょっぴり気合を入れて作りました。最初に採点したHさんが1問間違えただけの98点でしたから、今回も高得点続出かなと思いきや、あとの学生はやっと合格点程度。私の愛が通じた(?)のは、Hさんだけのようでした。

Hさんはその文法がどういう場面で使われ、どんなニュアンスを持っているかをしっかりつかんでいます。だから、文意に合わせて動詞を変形させる問題も、使役とか可能の否定とか、そういうのにも対応できるのです。その文法を使う話者の気持ちも理解しているし、状況も思い描けますから、適切な選択肢も選べれば、気の利いた例文も書けるのです。単に文法項目を丸暗記しただけでは、ここまではできません。

漢字はPさんか大健闘。4月に入学した当初は、漢字、特に書き取りがまるっきりダメでした。これではいけないと思ったPさんは、中級の漢字からやり直し、中級の教科書を買って勉強し、中級クラス用の漢字テストを受けて実力チェックをしてきました。その甲斐あって、クラスで1番にこそなれませんでしたが、それに迫る成績で、平均点を大幅に上回っていました。もはや漢字は得意科目ではないでしょうか。見違えるような躍進ぶりです。

Pさんの国にも「継続は力なり」と同じようなことわざがあると思います。それを信じて努力が続けられたところが、Pさんの偉いところです。学生は三日坊主が多いのですが、Pさんはその貴重な例外です。この調子で行けば、志望校のほうから歩み寄ってきますよ。

読解はまだつけていません。ちょっと怖いようなところもあります。HさんやPさんは、読解でも好成績なのでしょうか…。

戦いは続く

9月28日(月)

今学期の授業最終日は、代講が入ったため、午前も午後も授業となりました。どちらも私が担任のクラスなので、しっかりと責任を果たさなければなりません。

午前は超級のクラスで、試験範囲で残っているところをすべてやり終えました。欠席がちょっと多かったのが気になりますが、出てきた学生には明日の試験の山場をきちんと伝えましたから、まじめな学生が有利になるはずです。

午後は初級のクラスで、こちらは今学期の復習が中心でした。自分ではできるつもりのSさんは助詞をたくさん間違え、同じくOさんは動詞の自他の区別が付かず、文法を理解するのが精一杯のKさんは習った単語がすっぽり抜けていて、授業中すぐケータイをいじっていたZさんは摩訶不思議な文を作り、いつも落ち着きのないLさんは問題をよく読んでおらず、そして全員に共通なのは、カタカナ語の定着の悪さです。“インタネット”“テプル”などなど、気持ちはわかるけど違うんだよなっていう書き方をするのです。

もちろん、私たち教師は努力していないわけではありません。「学生たちはカタカナ語が弱い」というのは教師の共通認識で、ディクテーションなどレベル全体で決められた場以外でも事あるごとにカタカナ語のチェックをしています。それでも日常語のミスさえなくせません。さすがに、午前中の超級クラスの学生は“インタネット”“テプル”みたいな間違いはしませんが、“アカウンタビリティー”とか“”ディスカウントショップ“とかってなると、苦しくなる学生もいます。だから、カタカナ語対策は、学習者にとっても教師にとっても、永遠の課題と言えましょう。

“インタネット”“テプル”と書くということは、その学生はそういう発音をしているということです。発話の中では文脈から単語が推定でき、学生が“テプル”と発音しても我々の聴覚はそれを“テーブル”と自動修正してしまいます。初級の発音チェックの時は、この自動修正のレベルをうんと下げて、陰険かつ意地悪くかつ執拗に、学生に指摘します。1学期間それをやり続けても、まだ不十分なのですから、やはり長期戦を構えるしかないのです。

授業後、日が暮れてから、午後クラスのKさんとHさんが未提出の宿題を出してきました。そんな何週間も前の宿題など、突っ返してもいいのですが、2人とも進級ボーダーライン上なので、その場でチェックし、間違いを指摘し、直させました。明日、その効果を発揮してくれるでしょうか…・

四半世紀の時を越えて

9月26日(土)

富久クロスにできたイトーヨーカ堂へ行って来ました。昨日オープンだったので、授業が終わってからでものぞきに行こうと思っていたのですが、あいにくの雨であきらめていたのです。薄曇りの暑からず寒からずのお天気に誘われてか、私と同じ考えの人たちで結構な人ごみでした。オープンセールで何か安い物がないかと探してみましたが、ヨーグルトやキャベツじゃ持って帰るのが一苦労ですから、手を伸ばせませんでした。私より一足先に行ったK先生やS先生は、店内で美味しいものを食べたそうです。

富久クロスの住居部分への入居はもう少し先のようですが、ずっと工事中だった周囲の道路は黒光りしたアスファルトで開通しました。また、内科や歯科などの医療機関も内覧会をしていました。そのうち人が住む街らしくなるのでしょう。

私なんかにとっては、「富久町」といえばバブル期の地上げの象徴です。不動産屋だか開発業者だかがあこぎなやり方で土地を買い占めたあげく、不動産価格の下落で塩漬けになったという印象です。古くからのコミュニティーが破壊され、砂漠のような駐車場になってしまいました。どういうフレームワークの下でか知りませんが、それがようやく立ち直って、富久クロスという形で結実するまでに、四半世紀もの時を必要としました。

その間に日本の経済繁栄は終わりを告げ、富久クロスの最上階は中国人実業家が買ったという噂もあります。3.11の不連続線を越え、社会の様相も人々の考え方も大きく変化しました。地上げ当時の計画よりも成熟した街ができるのだとしたら、それもまた一興です。

イトーヨーカ堂へは、靖国通りを越えねばなりませんから、そうそう行けるわけではありませんが、学校指定の中華料理屋・明京園さんのそばですから、そこで食事したついでにたまには寄ってみましょう。

夢は枯野を

9月25日(金)

女優の川島なお美さんが亡くなりました。私と同年生まれで、密かに応援していました。亡くなる直前まで舞台に立ち、降板の際も不治の病であると知りながら復帰を信じてその病と闘う姿勢を見せたことは、立派の一言に尽きます。私と同年ですから思い残すことがなかったとは思えませんが、最期まで女優であり続けたことに関しては、それなりの満足感を抱いて旅立ったのではないでしょうか。

高校生の時、祖父の法要で、「人間、40までは生を生き、40からは死を生きる」という法話を聞きました。そのときは意味がよくわかりませんでしたが、20年ちょっと前に父が亡くなった時、半分ぐらいわかりました。自分が死ぬ順番ということを初めて意識したのです。その頃から恩師やお世話になった方などの悲報に接することが多くなりましたから、より一層そういう気持ちが強まりました。

東日本大震災で同級生が亡くなり、最近は田中好子さんや川島なお美さんなど、同年代の有名人の訃報を耳にすることもまれではなくなりつつあります。つい先日、骨髄バンクから手紙が来て、バンクの上限年齢に達したので登録が抹消されると知らされました。中年から老人への道筋がだんだんはっきりしてきて、「死を生きる」ムードがどんどん強まってきました。

私は川島なお美さんのように死の直前まで現役というつもりはありません。頭と体がしっかりしているうちに、すでに世界制覇は無理でしょうから、せめて日本中の行きたい所へ行き、見たいものを見ておきたいと思っています。「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」って形で死ねたらなと思います。周りには迷惑でしょうが…。

退学2名

9月24日(木)

PさんとWさんが退学しました。2人とも日本での大学進学を夢見ていましたが、志半ばで帰国することになりました。学力的に無理だからではなく、生活習慣がどうにもならなかったのです。Pさんはそれに加えて、体も壊してしまいました。

進学先の授業は午前が中心だからということで、上級を始め、進学希望の学生はなるべく午前クラスにしています。午前クラスは9時からですが、9時までに登校することがどうしてもできない学生が毎年何人もいます。PさんもWさんも、先生に説教された直後の数日は何とか9時に来るのですが、いつの間にか元に戻ってしまいます。朝型人間の私には理解しがたいことなのですが、10時ぐらいまで軽く寝られてしまうというか、頑張っても10時ぐらいまで目が覚めないそうです。目覚まし時計も全く無力です。

現代社会は時間を守ることで成り立っています。だから、PさんやWさんのような人は、進学に限らず、どこでもまともに相手にされないでしょう。親か誰か、時間をがっちり管理してくれる人がそばにいないと、社会生活が送れそうもありません。2人も帰国して親元で生活するようになれば、“普通の”生活ができるかもしれません。でも、早晩、親から離れて自立することが求められます。今回の留学は、それに失敗した形で終わります。国へ帰ったら、この点を訓練して、一刻も早く自分の脚で歩けるようになってもらいたいものです。

それができなければ、2人の頭脳が生きません。遅刻・欠席が多いにもかかわらずテストで結構な点が取れるということは、優秀な頭脳の持ち主だということであり、それが生かされずに文字通りベッドで眠ったままになっているのは、もったいないこと極まりありません。

学力不足なら私たちが渾身の力で指導すればどうにかなることもあります。しかし、生活習慣となると、一緒に寝起きするわけにもいきませんから、指導にも限度があります。その点をいつもむなしく感じます。同時に、そういう形で退学していった学生たちが、その後どのように生活を立て直して社会生活を送っているのかも、とても気になります。何か私たちの指導のヒントになることがあれば、是非参考にしたいです。

せいしょこさん

9月18日(金)

熊本市民は、加藤清正を自分たちの街をつくった英雄として尊敬、崇拝しています。わりと最近、市が住居表示を変えようとした時、市民から「あんたは清正公さん(せいしょこさん)のお決めになった街の名前を変えようとするのか。あんたは清正公さんより偉いつもりか」と詰め寄られて、計画を思うように進められなかったという話を聞いたことがあります。

昨日の安倍首相には、「あんたは今までのどの首相や最高裁長官より偉いのか」と言ってやりたいものがあります。歴代の首相や最高裁長官が、いや、国民が国を挙げて築き上げてきた憲法や平和に対する思いを一気にひねりつぶそうとしています。しかも、正面から憲法論議をして改正するのではなく、姑息な手段で委員会可決をし、その勢いで本会議も突破しようというのです。正々堂々と市民に理解を求めようとした熊本市の職員のほうが、よっぽど責任ある態度です。

自衛隊を海外で戦える組織にすることは、グローバルスタンダードに則っていると言えます。しかし、グローバルスタンダードって、何でも受け入れていいものなのでしょうか。道のりははるかですが、戦争をしないことこそグローバルスタンダードにするべきことじゃないでしょうか。「核の傘の下でのうのうと…」と言われるのが嫌だったら、それがなくてもやっていけるだけの実力を、別の視点に立って養っていこうと国民に語りかけ、賛同を得るのが、真に尊敬される国家への第一歩だと思います。

私は清正公さんという太い精神的支柱を持っている熊本市民がうらやましいです。日本国憲法って、日本国民にとっての清正公さんになれる要素を持ったものだと思います。これを要素のままにしておくのではなく、本物の柱へと育て、日本人に自信と誇りを持たせてこそ、後世に名の残る政治家なのです。安倍首相の憂国の情は多としますが、その発露のベクトルがちょっと違うんじゃないかな。

うすら寒い

9月17日(木)

1日中雨で、気温もついに20度を上回ることはありませんでした。家の中が暖かかったのでいつもどおり半袖で外に出たら、肌寒いのを通り越して、震えが来ちゃいました。電車内には私と同じ、夏の勢いで半袖のままの人もいましたが、セーターやカーディガンはいうまでもなく、コートを羽織っている人さえいました。コートの人は防寒具というよりは雨具のつもりだったかもしれませんが、でも、季節がずいぶん進んだなと感じさせられました。

雨の日はとかく出席が悪くなりがちですが、私のクラスは、遅刻はいたものの、最終的には全員出席。傘立てがハリネズミのようになっていました。授業が終わると、こんなに雨が降っているのに傘を教室に忘れて行出て行き、気恥ずかしそうに取りに戻ってくるが学生が何人もいました。学生たちは、授業が終わると開放感に浸ってしまい、一目散に1階に下りて、いざ外に出ようという時になって、「雨」という現実に戻されて、教室まで傘を取りに駆け上がってくるのです。

この雨は、今日まででプログラムが終わって帰国する学士たちの涙雨です。修了証を受け取った後のスピーチで「またKCPで勉強したい」という学生は何人もいますが、それが実現する学生は本当にごくわずかです。年を重ねるにつれて、何か月も自由な時間を作るのが難しくなります。いろんなしがらみに縛られていくことが大人になることですから、しようがないのです。

だから、今日の別れが今生の別れになるかもしれません。それで涙雨が降るのです。通信技術がどんなに発展しても、人と人とが顔を合わせることに勝る感激はありません。だからこそ、涙雨なのです。