いいものはいい

7月13日(木)

スピーチコンテストのクラス内予選をしました。昨日原稿を書かせたクラスとは別の上級のクラスでしたから、どんな話が飛び出してくるか楽しみでした。

昨日のクラスは最上級レベルでしたから、自分の日本語を駆使して社会的な問題に切り込んでいましたが、このクラスはそれより少し下のレベルですから、その分自分の身の回りに寄った話題が多かったです。抽象性が低くなったと言ってもいいでしょう。もう少し正確に言うと、独自の思考によって抽象性を高められた学生が少なかったです。参考にしたネットのページなどに振り回されて、十分に咀嚼せずに文を並べているので、スピーチが聞き手の心に響かないのです。

一方、独自の思考で帰納的に議論を深めていった発表は、聞き手の学生たちの顔つきが違っていました。スピーチにひきつけられ、スピーチを聞くことに知的な喜びを感じていることがわかりました。私自身、なるほどと思わせられ、そこまで自分や社会を掘り下げていったその学生に敬意を払いました。

また、発音の良し悪しの差が明瞭に現れました。きれいな発音の学生は、その辺を歩いているバカ高校生よりよっぽどきれいな日本語を話します。その一方で、上級の端くれなのに日本語教師も理解に苦しむ発音しかできない学生もいます。それに加え、原稿の内容を十分に理解しないままスピーチしたとあれば、聞くに堪えるとか堪えないとかの次元ではありません。

私が「これは!」と思ったスピーチは学生も高い評価を与え、発音の悪いスピーチは学生の評価も散々なものでした。学生たちがここまで真贋を見抜く目をもっているとなると、私など学生たちの前で毎日スピーチしているようなもんですから、何だか背筋が寒くなります。

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