Monthly Archives: 4月 2017

4月28日(金)

4月に進学した卒業生が、ビザを申請するのに必要な書類を取りに来ています。そんな元学生を捕まえては進学先での様子を聞くのが、この時期の楽しみの1つです。

HさんはT大学に進みました。理科系ですから、早速忙しい日々が始まっています。授業時間数もさることながら、その授業や実験でレポートを書かせられることが多く、それが留学生にとってはしんどいようです。

レポートはすべてパソコンで書いて電子的に提出されますが、これがレポートの多い原因の1つではないかと思います。課題を出す教授にしてみれば、紙で提出されると読むのも保管するのも一苦労ですが、スマホで読めるような形になっていれば電車の中でも目を通せるので、学生の理解度をチェックするためとかで、レポートを書かせたくなるのかもしれません。

1人の教授ならまだしも、みんながそれをしたら、学生はたまったものではありません。Hさんも、KCPでがっちり訓練を受けたとはいえ、日本人に比べたらまだまだ書くのは遅いでしょう。コピペで済ませてもいいなら話は別ですが、Hさんはそういう安易な道は絶対に取らない性格ですから、なおのこと厳しいのです。

私が今の時代の学生だったらどんな勉強をするでしょうか。毎晩遅くまで机に向かわないと書ききれないほどのレポート課題を抱えたら、きっとどこかで手抜きすることを考えるでしょうね。それを「要領がいい」と言っていいのかどうかわかりませんが、そうしたとしても、勉強したことが極端に身に付かなくなるようなことはなさそうな気がします。レポートのためとかいうのから離れて、何かの枠にとらわれず、心の赴くままにあれこれ目新しいことに触れるのも、学生の特権ではないでしょうか。

でも、同時に、自分が自由に想像をめぐらしたことや、思考の足跡をきちんとまとめて、他の人に伝える術は学生のうちにしっかり身に付けておいてほしいとも思います。それが、社会の発展への貢献にも、自分の人生の充実にもつながっていますから。

思考回路

4月27日(木)

Nさんは、KCPに入学する前に、神戸でホームステイしていたことがあります。国で勉強した日本語は、もちろん共通語ですが、神戸で話されていた日本語は、もちろん関西弁。初めはかなり戸惑ったようですが、ある日突然、関西弁が自然に口をついて出てきたそうです。その日からは、ホームステイの家族とも関西弁でやり取りできるようになったということです。

私も、就職して山口に住むようになってからしばらく後、思考回路が山口弁で回っているのに気付き、自分でもびっくりしたことがあります。「はあ9時じゃけぇ、はよういなにゃあ…」などという自分の声が、頭の中から聞こえてくるようになったのです。東京出張で山手線かなんかに乗ると、そこで聞こえてくる共通語にむずがゆさとも堅苦しさともつかない不安定さを感じたものでした。もちろんなのか残念ながらなのかはわかりませんが、今は思考回路は東京の言葉で回っています。

言葉は、あるクリティカルな量まで浴び続けると、不連続にその言葉の色に染まってしまうことがあります。Nさんは関西弁に包まれて1か月か2か月経ったときに、その“ジャンプ”を味わったのです。これが、よくいう英語耳の関西弁版なのでしょうか。もし、そうだとしたら、Nさんには語学の才があるんじゃないかと思います。

翻って今のKCPの学生たちですが、休み時間のたびに国の言葉で国の友達としゃべっているようでは、日本語耳への道のりは遠いように思えます。私のクラスのCさんなどは、勉強したくない言い訳に過ぎないかもしれませんが、同国人と日本語で話すのが恥ずかしいと言っています。こんなへっぴり腰では、卒業まで勉強しても大した日本語の使い手にならないことは、目に見えています。

ま、いずれにしても、国の環境に守られながらじゃ、ろくな留学はできないということです。

低度

4月26日(木)

今村雅弘復興大臣が辞任しました。“東日本大震災は東北で起きたからまだよかった”という意味の発言をしたからです。首都圏が同規模の地震に襲われたら、25兆円とも言われる損失がとてつもない巨額になっただろうと言いたかったようですが、被災者の心を逆なでする発言だとされても致し方ありません。

発言の後、これを聞いていた記者からあれこれ質問されてフォローをしていましたが、結局発言を撤回しました。しかし、撤回しても一度はそういう発言をしたという事実は残りますし、今村氏は心の奥底で“東北でよかった”と思っていることは確かでしょう。東北は、九州出身の今村氏にとっては地の果てに等しく、そこで何が起きようと自分にはかかわりのないこととしか感じられないのではないかと思います。

自民党には多くの国会議員がいるのに、どうして今村氏「低」度の人材が大臣になってしまうのでしょう。東北の人の心を慮ることすらできない、自分の身の回りしか見えていない人物しかいなくなってしまったのでしょうか。一般人でもこんなことをやっていたら信頼を失います。ましてや、いやしくも一国の大臣がそんな「低」度では、国民は泣くほかありません。

辺野古もそうだと思います。強行着工のニュースを聞いて、20年前の諫早湾のギロチンを思い出しました。辺野古や諫早から遠く離れたところで、現地の真情もわからず何かをやらかしてしまい、やったもん勝ちを決め込む仕事の進め方には、今村氏の発言と通底するものを感じます。

私はかつて東日本大震災の被災地に住んでいたことがあります。だから今村氏の発言に強い憤りを感じている面もあるでしょう。でも、それ以上に、撤回して辞任してそれでおしまいみたいな風向きに、いやなものを感じます。

入れられたレベルで咲きなさい

4月25日(火)

初級には、毎学期、JLPTのN1やN2を持っているんだけど…という新入生がいます。そういう学生は、大きく2つに分かれます。1つは、自分の実力は正当に評価されていない、こんなレベルでは何一つ勉強すべきことはないと考えるタイプです。もう1つは、N1やN2のことは後ろに置いて、現状を認めようとするタイプです。どちらが本人にとって望ましい結果につながるかは、明らかでしょう。

前者は、学校の勉強に身を入れようとしません。教室には入るけれども、授業には参加しようとせず、せっせと内職に励むこともしばしばです。JLPTでは測りきれない日本語力の面で何か不足しているからこそ、N1を持っていても初級と判定されたのであり、そこに初級で学ぶ意義が見出せるはずです。でも、それをせずに、自分の信ずる道を進むといえばカッコいいですが、要するに生兵法を振り回すだけですから、なんら進歩するところはありません。四択問題で正解を選び取るテクニックを、カンのよさを、どこでも通じる日本語力だと信じ込んでいるところが大きな問題です。

後者は、自分の日本語力の基礎部分における抜け落ちをきちんと補おうとします。暗記でわかったつもりになっている部分の理論的裏づけを得ようとしたり、「話す」「書く」というマークシートのテストでは無視されている力を磨こうとしたりします。N1やN2に合格するということは、それにふさわしい優秀な頭脳を持ち合わせているはずですから、勉強しさえすれば、四技能どれも水準以上にすることは難しくありません。

今学期の私のクラスにも、自分はもっと高いレベルに入ってしかるべきだと思ったとしてもおかしくない学生がいます。しかし、その学生は、自分が判定されたレベルを謙虚に受け止めて、基礎からやり直しています。後者のグループに入ってくれれば、志望校も夢ではなくなります。私も上手に導いて、花を咲かせるお手伝いをしたいです。

どこでもいい

4月24日(月)

Jさんは来年4月の進学を目指し、今学期から受験講座を取って勉強しています。しかし、体調が優れず、医者から少し体を休めるようにと言われてしまいました。勉強も体が資本ですが、お昼ご飯もそこそこに毎日夕方まで授業を受け続けたら、体調不良が慢性化しかねません。ですから、今週と来週は受験講座を休みたいと言ってきました。来週は半分が連休ですから、その間に体を元に戻してもらえればと思っています。

それと同時に、文系志望だから数学の受講を取りやめたいとも言ってきました。志望校を聞くとM大学だそうで、確かにM大学には数学のいらない学部もあります。でも、数学の必要な文系学部もありますから、念のため志望学部を聞くと、「行きたい大学はM大学です。学部はどこでもいいです」という答えが返ってきました。

毎年、よくよく突き詰めると行きたい大学だけがあって、そこには入れさえすればそこで何を勉強するかは二の次だという学生は何名かいます。もっと漠然と、有名な大学ならどこで何を勉強してもという学生も、昔ほどではありませんが、いないことはありません。でも、最後までそういう学生は、往々にしていい結果に結びついていないんですね。勉強したいことを見つけて、大学ではなく学部・学科で進学を考えるようになった学生は、結果的に初志貫徹となっていることもあります。

Jさんの場合は、体への負担を軽くすることを第一に考えなければなりませんから、受験講座を休むのも数学をやめるのも認めることにしました。しかし、志望校選びは、M大学のいろいろな学部を受けるというだけでは解決しません。残念ながら、今のJさんにM大学の面接やら小論文やらという入試に耐えられるとは思えませんから、がんがん介入・指導していかなければならないでしょう。

そう考えると、3月に卒業したGさんやSさんにはずいぶんてこずらされましたが、やりたいことに関して1本筋が通っていました。そのやりたいことの勉強できる大学・学部・学科を選んで、夢いっぱいの大学生活をスタートさせていることでしょう。

スピーチコンテストを目指して

4月21日(金)

今学期の新入生のTさんは、よくしゃべれますが基礎の文法の抜け落ちが激しい学生です。て形を使って話しているのですが、「〇〇ますのて形は?」と聞かれると見当違いの答えをしてしまいます。本人が言うには、独学なので系統立てた勉強はしておらず、そのため整理した形で文法を問われると答えられないとのことです。このままでは今のレベルをクリアすることはできそうもないので、復習用の問題集を買わせてやらせています。

授業後、Tさんがその問題集を持って来ました。昨日は、て系のところが宿題でした。見ると、「(6時に)おきます」も「(本を)おきます」も、どちらのて系も「おきて」としてしまっていました。おい、Tさん、あんた、さっきの授業で「置いておきます」って言ってたじゃないですか。どうしちゃったんですか。

「(本を)おきます」はⅠグループだとわかった上で、今度はて系作りに挑戦するのですが、「(6時に)おきます」に引っ張られて、「(本を)おきて」になり、それがだめだと言われると「おかて」「おくて」「おきりて」など、よくぞこれだけボケられるもんだと感心してしまうくらい間違ってくれます。“ききます⇒きいて”はできているのですから、その最初の“き”を“お”に換えるだけじゃないかと思うのは、ネイティブの日本語教師の悪い癖です。

その他あっちこっちにあった間違いを1つずつつぶして、どうにかチェックが終わりました。するとTさんは、今朝クラスで案内した学校外部の外国人スピーチコンテストについて質問してきました。週末にスピーチの内容を考えてみると言っていました。

Tさんなら、学校代表になって、特訓に次ぐ特訓で毎日ボコボコにされても、必ずはい上がってくれるだろうなと思いました。これから伸びていく学生特有の勢いを感じました。

倍増期

4月20日(木)

昨日採点した学生たちより2学期分上のレベルの学生たちが書いた作文を採点しました。さすがですね。読みやすさが全然違います。そりゃあ、助詞や漢字や文法の間違いはありますよ。でも文の構造が崩れていないってところが立派なところです。主語と述語がかみ合わないねじれ文が少ないのです。

2つのレベルの学生たちに頭脳的な差があるとは思えません。要するに、頭で考えたことを日本語の文章にする力の差だと思います。語彙力の差もあるでしょうが、長い文になったときに文全体が見渡せるかどうかによるところが大きいように思えます。初級の段階では単語レベルを見張るのがやっとなのに対して、もうすぐ上級という学生たちは複文になっても前後の関係が見えてくるようになっているのだと思います。

午後は、今学期から理科の勉強を始めた学生たちの受験講座をしました。初回ですからオリエンテーションが中心でした。入試の口頭試問の例として、半減期を説明しろと学生に聞いてみました。すると、目や手は動くのですが、口はさっぱり動きません。国の言葉でなら説明できますが、それを日本語で表現できず、もどかしい思いをしているのが手に取るように思いました。私が学生たちの知っている範囲の文法や語彙で説明すると、ノートにメモする学生もいました。

上級の学生なら、半減期程度のことは自分の手持ちの言葉で強引にでも説明しきってしまうでしょう。3月に卒業していった面々を思い浮かべても、そんな気がします。今、口をもごもごするしかない学生たちが、そこまであつかましくたくましく育っていくのでしょうか。彼らの日本語力の倍増期はいつでしょう。

実験台

4月19日(水)

先学期は卒業クラスばかり担当していましたから無しで済ませてしまいましたが、今学期はこれから中級に上がろうかという学生たちのクラスですから、作文は逃げて通れません。私にとって辛い季節が始まりました。

午前中は、昨日書かせた作文を採点しました。幸いにも今学期のクラスには“文字は日本語だけど文章は日本語ではない”というほどひどい作文の書き手はいませんでしたが、何回読んでも理解不能な文はいくつかありました。前後の文を読んでみても、その文だけ浮き上がっていて、どうしてもパズルのピースをはめ込むことができません。書いた本人の頭を解剖して、思考回路をトレースしたいです。

習った文法や語彙を使うというルールも、重荷に感じた学生がいたようです。上手に使って文章を小気味よくまとめている学生がいる一方で、取って付けたような使い方をして文の流れを滞らせてしまった学生もいました。4、5か月前に勉強しているはずの文法をすっかり忘れていて、思い切り減点された学生も。

午後は初級のクラスに入りました。ここでは、習った文法を使って質問に答える練習をしました。安易に下のレベルの文法で答えた学生には、遠慮会釈なしに「はい、レベル1」などと冷たくダメ出しをしました。

授業での文法の練習は、その文法を使うことが明らかなので、動詞などの形さえ間違えなければどうにか乗り越えられます。しかし、何をどこでどう使うかわからない状況で使えと言われても、習ってきたいろいろなツールのなかからふさわしいものを選んで使うのは、学生にとっては厳しいかもしれません。

使って間違えて笑われて悔しい思いをして…。学校はそういう場です。学校にいる間に一生分の間違いをし尽くして、その代わり学校を出たら絶対に間違えないようにしてくれたら、私は喜んで添削もダメだしもします。

あいさつをしよう

4月18日(火)

今月のKCPの目標は「あいさつ」です。朝は「おはようございます」、昼間は「こんにちは」、学校から帰るときは「さようなら」というように、その場にふさわしい挨拶をする習慣をつけようというものです。これらのあいさつの言葉は初級でひらがなを勉強するよりも前に習っていますから、当然学生たちは全員知っています。しかし、知っているのとそのあいさつの言葉を口にするのとの間には、大きな隔たりがあります。無言でスマホを見つめながら通り過ぎたり、授業が終わると脱兎のごとくどこかへ消え去ったりする学生も大勢いるのが現状です。

学生があいさつするなら、教職員もきちんとあいさつを返さなければなりません。そこで困ったことが1つあります。それは、私の「こんにちは」のアクセントです。

30年ちょっと前、私は新入社員として山口県の工場に赴任しました。そこで働いているのは山口で生まれ育った人たちが多かったですし、工場を出れば地元の人ばかりです。「おはようございます」は、一部の年配の方が「おはようございました」となぜか過去形になることを除き、共通語と変わりありませんでした。しかし、「こんにちは」は、共通語は「こ」が低くて「んにちは」が高いアクセントですが、山口では「こ」が高くて「んにち」が低く、「は」で再び上がるアクセントなのです。共通語には絶対に見られないアクセントです。

ところが、このアクセントは実に耳に心地よいのです。無愛想に言おうと思っても、そうできないんじゃないかな。いつしか私もそのアクセントで「こんにちは」とあいさつして、周りの人たちに私の感じた心地よさを感じさせたくなりました。同時に、このアクセントは言うほうも何だか心が穏やかになります。そして、それが現在に至るというわけです。

今までもこの“中低”とでもいうようなアクセントで「こんにちは」と言ってきましたが、これからはその頻度が大いに増えそうです。そうなると、私のアクセントをまねして、それを外で披露して「うわー、ガイジン」なんて言われるような学生が出てくるかもしれません。そんな事件が本当に発生したら、学生に合わせる顔がありません。それでも、この中低アクセントはやめられそうもありません。

消去法

4月17日(月)

午前の授業が終わってカウンターがわいわいがやがやしている中に今学期から受験講座を始めるHさんがいて、受講を申し込んだ数学の受講をやめたいと言います。Hさんは受験講座が必須の学生ではありませんから、必要がなければやめても一向に構いません。文系志望ですから、数学よりも総合科目です。苦手な数学をどうにかしようと力を注いだ代わりに総合科目で思うように点が伸びなかったら、志望校に手が届かなくなってしまいます。いわゆる“いい学校”には、150点ぐらいは必要ですからね。

Hさんは国でも数学は苦手だったと言います。受験講座に申し込んだときには勢い込んで数学も受けると言ってしまいましたが、落ち着いて考えてみると、あのわけのわからない数学を自分にとって外国語である日本語で勉強することに身の毛もよだつような恐怖を感じたのでしょう。

その時カウンターにいたPさんとMさんも、自分たちも数学はどうしようもなかったと盛んに語り始めました。化学や物理はもっととんでもなかったとも。「人生、消去法で行き先が決まるもんですね」という結論になりました。

思い返せば、私も歴史の研究をしたかったのですが、古文漢文がからっきしでしたから理科系に進んだという、やはり消去法の選択をしました。歴史小説を読んだり史跡を歩いたり博物館を見学したりして、歴史に対する自分の興味を満たしています。

その一方で、新入生のYさんは、文系志望ですが物理も化学も生物も受けたいと言います。授業時間が重なっていませんから認めましたけど、果たしていつまで続くでしょうか。受験講座は、EJUや各大学の独自試験にターゲットをあわせていますから、受験とは関係のない学生が聞いて面白い内容かというと、大いに疑問です。年度の後半に行う超級向け選択授業の「身近な化学」のレベルなら面白く感じるかもしれませんが…。

でも、幅広く枠を取って、その中で自分の可能性を見出そうというのなら、大いに歓迎です。Yさんはまだ若いですから吸収力も強いでしょうし、寄り道が許される時間的余裕もあります。是非、消去法ではない選択で、自分の進路を決めてもらいたいです。