Category Archives: 社会

四半世紀の時を越えて

9月26日(土)

富久クロスにできたイトーヨーカ堂へ行って来ました。昨日オープンだったので、授業が終わってからでものぞきに行こうと思っていたのですが、あいにくの雨であきらめていたのです。薄曇りの暑からず寒からずのお天気に誘われてか、私と同じ考えの人たちで結構な人ごみでした。オープンセールで何か安い物がないかと探してみましたが、ヨーグルトやキャベツじゃ持って帰るのが一苦労ですから、手を伸ばせませんでした。私より一足先に行ったK先生やS先生は、店内で美味しいものを食べたそうです。

富久クロスの住居部分への入居はもう少し先のようですが、ずっと工事中だった周囲の道路は黒光りしたアスファルトで開通しました。また、内科や歯科などの医療機関も内覧会をしていました。そのうち人が住む街らしくなるのでしょう。

私なんかにとっては、「富久町」といえばバブル期の地上げの象徴です。不動産屋だか開発業者だかがあこぎなやり方で土地を買い占めたあげく、不動産価格の下落で塩漬けになったという印象です。古くからのコミュニティーが破壊され、砂漠のような駐車場になってしまいました。どういうフレームワークの下でか知りませんが、それがようやく立ち直って、富久クロスという形で結実するまでに、四半世紀もの時を必要としました。

その間に日本の経済繁栄は終わりを告げ、富久クロスの最上階は中国人実業家が買ったという噂もあります。3.11の不連続線を越え、社会の様相も人々の考え方も大きく変化しました。地上げ当時の計画よりも成熟した街ができるのだとしたら、それもまた一興です。

イトーヨーカ堂へは、靖国通りを越えねばなりませんから、そうそう行けるわけではありませんが、学校指定の中華料理屋・明京園さんのそばですから、そこで食事したついでにたまには寄ってみましょう。

夢は枯野を

9月25日(金)

女優の川島なお美さんが亡くなりました。私と同年生まれで、密かに応援していました。亡くなる直前まで舞台に立ち、降板の際も不治の病であると知りながら復帰を信じてその病と闘う姿勢を見せたことは、立派の一言に尽きます。私と同年ですから思い残すことがなかったとは思えませんが、最期まで女優であり続けたことに関しては、それなりの満足感を抱いて旅立ったのではないでしょうか。

高校生の時、祖父の法要で、「人間、40までは生を生き、40からは死を生きる」という法話を聞きました。そのときは意味がよくわかりませんでしたが、20年ちょっと前に父が亡くなった時、半分ぐらいわかりました。自分が死ぬ順番ということを初めて意識したのです。その頃から恩師やお世話になった方などの悲報に接することが多くなりましたから、より一層そういう気持ちが強まりました。

東日本大震災で同級生が亡くなり、最近は田中好子さんや川島なお美さんなど、同年代の有名人の訃報を耳にすることもまれではなくなりつつあります。つい先日、骨髄バンクから手紙が来て、バンクの上限年齢に達したので登録が抹消されると知らされました。中年から老人への道筋がだんだんはっきりしてきて、「死を生きる」ムードがどんどん強まってきました。

私は川島なお美さんのように死の直前まで現役というつもりはありません。頭と体がしっかりしているうちに、すでに世界制覇は無理でしょうから、せめて日本中の行きたい所へ行き、見たいものを見ておきたいと思っています。「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」って形で死ねたらなと思います。周りには迷惑でしょうが…。

せいしょこさん

9月18日(金)

熊本市民は、加藤清正を自分たちの街をつくった英雄として尊敬、崇拝しています。わりと最近、市が住居表示を変えようとした時、市民から「あんたは清正公さん(せいしょこさん)のお決めになった街の名前を変えようとするのか。あんたは清正公さんより偉いつもりか」と詰め寄られて、計画を思うように進められなかったという話を聞いたことがあります。

昨日の安倍首相には、「あんたは今までのどの首相や最高裁長官より偉いのか」と言ってやりたいものがあります。歴代の首相や最高裁長官が、いや、国民が国を挙げて築き上げてきた憲法や平和に対する思いを一気にひねりつぶそうとしています。しかも、正面から憲法論議をして改正するのではなく、姑息な手段で委員会可決をし、その勢いで本会議も突破しようというのです。正々堂々と市民に理解を求めようとした熊本市の職員のほうが、よっぽど責任ある態度です。

自衛隊を海外で戦える組織にすることは、グローバルスタンダードに則っていると言えます。しかし、グローバルスタンダードって、何でも受け入れていいものなのでしょうか。道のりははるかですが、戦争をしないことこそグローバルスタンダードにするべきことじゃないでしょうか。「核の傘の下でのうのうと…」と言われるのが嫌だったら、それがなくてもやっていけるだけの実力を、別の視点に立って養っていこうと国民に語りかけ、賛同を得るのが、真に尊敬される国家への第一歩だと思います。

私は清正公さんという太い精神的支柱を持っている熊本市民がうらやましいです。日本国憲法って、日本国民にとっての清正公さんになれる要素を持ったものだと思います。これを要素のままにしておくのではなく、本物の柱へと育て、日本人に自信と誇りを持たせてこそ、後世に名の残る政治家なのです。安倍首相の憂国の情は多としますが、その発露のベクトルがちょっと違うんじゃないかな。

見られた?

9月15日(火)

昨日は新聞休刊日で、朝、時間に余裕があったので、国勢調査のインターネット入力をしました。今回の調査は「〇5年」に行われる簡易調査なので、入力もすぐに済みました。朝刊を読む時間に比べてずっと短時間で終わってしまいましたから、時間をもてあまして読書までしてしまったくらいです。

楽勝、楽勝とかって思っていたら、そのインターネットで入力する国勢調査のIDとパスワードが盗み見られているかもしれないって言うじゃありませんか。まあ、私の回答など覗いてみたところで何の御利益もありませんし、知られて困るようなデータもありません。とはいえ、気分は穏やかじゃありません。

調査用紙を配布に行ったものの、留守で直接渡せなかった場合、郵便受けに入れることもあるのですが、この入れ方が悪いと、ID・パスワードが盗まれてしまうそうです。私も、不在で郵便受けに入っていた調査用紙を受け取って、それに従って入力しました。調査用紙が郵便受けに完全に入っていないと、それが抜き取られて、そういうことが起きるかもしれないとのことですが、私の調査用紙がどうだったか、よく覚えていません。

配布担当者への教育が不徹底だったからこのようなことが起きたそうです。日本は仕事をする人への教育レベルの高さでもってきた国です。それが、対象者が70万人もいるとはいえ、国がする仕事でこのざまです。頭の中で、貧すれば鈍すということばが、フルカラーLEDで光りました。

両手を出せ

9月7日(月)

漢字テストが終わって、連絡事項を伝え、ディクテーションを始めたら、Sが怪しい動きを始めました。足音を忍ばせて近づくと、やはり、スマホをいじっていました。「Sさん、何をしているんですか」「すみません」「両手を机の上に出してください」というようなやり取りをし、授業を続けました。

休憩時間のあとで教室に入ると、Lさんが口の開いた缶ジュースを持ち込もうとしていました。「その缶ジュース、ダメです。廊下で飲んできてください」とLさんを追い出したら、廊下で飲んできたようです。

Kさんは弁護士になりたいと言っています。しかし、読解の宿題を忘れました。「宿題は決められた日に出すというのは初級から上級まで全部のレベルのルールです。弁護士になりたいという人がどうしてみんなが知っている決まりが守れないんですか」と叱ると、少ししょんぼりしていました。

この学校には多くのルールがありますが、そのルールの一つ一つには意味があります。たとえば口の開いた缶ジュースを教室に持ち込むなというのは、どこかに置いてこぼすおそれがあるからです。そして、そういうルールはみんなが守って初めて意味があるのです。ルールを破る人を見逃していては、あっという間にルールは有名無実となり、学校全体が無法地帯に陥るでしょう。

また、授業中に電話をいじるなというのは、要するに集中すべきときは電話を忘れて集中しろということであり、これぐらいは社会の常識でしょう。公共の場はきれいに使うのも、納期をきちんと守るのも、みーんな社会常識です。いや、常識以前のことかもしれません。

日本語学校は日本社会へのゲートウェイであり、チェックポイントだと言われます。その役目を果たすために、学生にしっかり常識を植え付けるのも、私たちの大きな仕事です。

台風にも負けず

8月31日(月)

夏休みは九州へ行ってきました。台風に直撃されて、25日は身動きが取れませんでしたが、それ以外はいい旅行ができたと思います。

九州は韓国に近いため、東京よりも韓国人が目立ちました。最近では大久保でも押され気味という韓国人ですが、博多をはじめ九州の町では元気でした。

私が博多駅から特急に乗ろうとしていたら、いきなり切符を目の前に突き出して、「イゴ、イゴ」と声をかけてきた若い女性2人組がいました。「イゴ」とは「イゴ オルマエヨ(これはいくらですか)」の「イゴ」ではないかと私の乏しい韓国語知識がささやきかけ、要は“この切符の席はどこか”ということだろうと判断しました。いきなり「イゴ」と来るのだから、日本語はゼロ、“Excuse me”でもなかったということは英語もゼロに違いありません。ここまでわかれば、日本語が全然わからない人への対処法はKCPで日々鍛錬しておりますので、難なくこなせました。最後もこの2人は深々とお辞儀をするだけで、「ありがとう」も出なかったということは、やはり、日本語全然だったのでしょう。

でも、こういうのに限って、国へ帰ってから、「日本語、全然できないけど日本を旅行してきちゃった。ボディーランゲージができれば、ケンチャナ、ケンチャナ」なんて言うんでしょうね。その話を聞いて、次々と言葉の壁を乗り越えて日本へ観光に来てくれたら、私も多少は日本の国に貢献したことになります。

それにしても、なぜ、あの2人組は私に話しかけてきたのでしょう。当日の私は、真っ赤なポロシャツにくすんだ青の短パン、ショルダーバッグを提げていました。どう見てもJRの駅員や車掌のいでたちではありません。唯一可能性があるとすれば、真っ赤なシャツが博多の街かどこかのボランティアの制服で、その制服の人に親切にしてもらって、その同じ色のシャツを特急の車内で見かけたのでまた声をかけたのではないかということです。

中国人も目立ちました。通潤橋なんていう山奥の観光地にもバスを仕立てて大勢の中国人が来ていました。しかし、私が泊まったホテルには、中国語だけの注意書きが貼られていました。私の乏しい中国語知識でそれを読み取ると、大浴場の中で飲み食いするな、バイキングで一度取った料理は元に戻すな、部屋のドアを開けて大声で話すな、などなど、はたで見ていたら傍若無人と感じるだろうなということばかりでした。

通潤橋、祐徳稲荷、軍艦島、田川市石炭・歴史博物館など、若干マニアックなところを巡ってきました。どこも感激しました。半年も前から計画を練り続けた甲斐がありました。

書類不備

7月30日(木)

HさんはW大学に出願しましたが、書類不備で受理してもらえませんでした。国の高校の卒業証明書、成績証明書に生年月日が記載されていないという理由です。来週の月曜日までに生年月日の記載された書類を提出しないと、出願は無効になってしまいます。しかし、今、Hさんの出身校は夏休み中で、学校に誰も出てきていないのだそうです。したがって書類の再発行もできず、W大学への出願は絶望的な状況です。

その学校の正式な書類様式に生年月日の記載がなかったら、その学校の卒業生は自動的にW大学に出願できないということなのでしょうか。W大学の出願に関する書類を読む限り、生年月日が必要だとは書かれていません。W大学にとっては、卒業証明書などに生年月日が記載されているのは改めて書き記すまでもない常識なのでしょうか。その常識が通用しない世界の存在は認めないというのでは、了見が狭すぎると思います。

Hさんの学校にとっては、生年月日を記載した卒業証明書などは非正規の様式です。非正規であるという点においては偽造書類と同列だ、というのは極論すぎるでしょうか。私などうかがい知れない事情があるのかもしれませんが、融通が利かないなと思います。悪意に受け取れば、そんなにまでしてでも学生をふるい落とさなければならないのかという気もします。

書類の戦いは、毎年何らかの形で発生します。私は受験生側の人間ですから、そういうトラブルが起こるたびに、もう一歩譲ってもらえないだろうかと思います。受験生たちは、郷に入れば郷に従えで、すでにかなり譲歩しているのですから。

留学生に便宜を図ってくれないW大学は入学しても苦労するだけかもしれないよー―とHさんに言ってやりました。W大学を目指して日本まで来たHさんに対しては慰めにもなっていないでしょうが、私の心の中ではW大学の株は大きく下がってしまいました。無理してまで入る大学ではないっていう評価です。

熱帯夜じゃない

7月13日(月)

ゆうべは窓を開けたまま寝たのですが、いつの間にかタオルケットがベッドの隅に丸まっていました。外に出ると朝からむっとするような熱気。今シーズン初の熱帯夜の手ごたえ十分だったのですが、気象庁のデータによると東京の最低気温は午前4:40に観測された24.1度。

これは、昨年12月に東京の気象観測地点が移動したからです。竹橋付近の気象庁本庁舎内、ビルとアスファルトに囲まれたところから、緑に囲まれた北の丸公園内に移ったのです。最高気温にはほとんど影響が出ないものの、最低気温は下がるだろうと予想されていたことが、如実に現れました。去年までだったら、ゆうべの最低気温は26度ぐらいだったんじゃないかな。

日中は全国的に気温が上がり、気象庁の観測点928か所中122か所で猛暑日となり、512地点で30度以上となったそうです。この時期は夏至から3週間ほどで、頭のてっぺんから日が差し込みます。ですから、晴れたら気温が勢いよく上がるのです。東京の最高気温は34.2度で、真夏の暑さです。

「梅雨が明けたんですか」とも聞かれましたが、天気図上は梅雨前線が消えて太平洋高気圧に覆われていますから、真夏と同じです。しかし、気象庁は梅雨前線が復活すると読んでいますから、梅雨明けとは言いません。週間予報によると、週の半ば以降はまた曇り空のようです。

外は真夏の暑さでも、校舎内は直射日光も入らず、冷房も効いていますから熱中症などになる心配はほとんどありません。でも、教室に若い体が20も入ると、どことなく暑苦しく感じます。欠席者が多く寒々しい教室は困りますが、熱気がありすぎるのもちょっとね。…なんて思いながら授業を始めるても、いつの間にか自分もその熱気を出す側に回っているんですよね。不思議なものです。

計画が進む

7月1日(水)

大阪からお客様が見えて、打ち合わせをしました。今日だからよかったものの、昨日だったら大変なことになっていたかもしれません。新幹線の車中で焼身自殺とは、人迷惑にも程があります。巻き添えで亡くなった方はどんな思いだったのでしょう。

死人に口なしで、自殺した当の本人は何を考えてわざわざ死に場所に新幹線を選んだのかはわかりませんが、死に場所を選ぶという発想自体、精神的に余裕のある人間の考えることなのかもしれません。自分のことしか見えなくなっているから自殺するのでしょう。自分を客観視できたら、そう簡単には死を選ばないんじゃないかな。

そうだとしても、新幹線で死ぬなよ。新幹線に乗る金があったら、迷惑のかからない死に方ができただろうに。いや、どんな死に方でも誰かに迷惑をかけますよ。だから、その金でおいしいものでも食べて、小さくても夢を抱けばよかったんです。

私はそもそも死にたいと思いません。辛いことがあったら、休みに何をしようかと考えます。今は夏休みの計画立案の真っ最中であり、時には年末年始の休みにも思いを馳せます。あれしようこれしようと考えたり、ネットで調べたり予約したりしているうちに、気持ちが前向きになってきます。この辛い場面を乗り越えたらまた一歩夏休みに近づくと思うと、どうしたら乗り越えられるかという方に気持ちが向いてきます。

そろそろ新学期の授業計画を練り、教材をそろえなければならないのですが、これが遅々として進んでいません。進むのは夏休みの計画ばかりで…。

たまのお葬式

6月29日(月)

昨日は和歌山電鐵の社長代理・ウルトラ駅長のたまのお葬式がありました。式場となった貴志駅はたまが駅長として勤務していた駅であり、昨日はそこに警察が交通整理をするほどの参列者が訪れました。3000人と報じられていますから、人間の葬式にしてもかなりの規模です。

私も、去年の5月の連休にたまを見に和歌山まで出かけました。私が乗った和歌山電鐵の電車は、乗客の大半がたま目当てでした。たまによって和歌山電鐵の乗客が大幅に増えたと報じられていましたが、それを身をもって感じました。たまがいなかったら、貴志駅まで乗ったお客はほとんどいなかったでしょう。それが和歌山電鐵沿線の実力であり、たまによって数十名の乗客が数百円の運賃を払って貴志駅まで乗り通したのです。そして、貴志駅に併設されているカフェや売店でお金を落としていました。たまの経済効果が11億円とかと算出されていますが、それぐらいあっても全然おかしくないと思いました。

たまの成功の後、各地の地方鉄道で動物の駅長が相次いで生まれました。二番煎じにならないようにと工夫はされていますが、たまを超える駅長はいまだ出現していないようです。それだけに、たまを招き猫として見出し、駅長に抜擢した和歌山電鐵の社長さんは偉いと思います。こういう経営センスは、机上の学問だけじゃ身に付きませんよね。学生たちは「大学を卒業したら経験を積んで…」と気安く言いますが、こういう発想の現場での経験こそ、学生の将来に資するものなんじゃないかと思います。

和歌山電鐵にはたまの後継ぎの猫がいるそうですから、きっと人気は保たれるでしょう。それどころか、たま大明神として祭られるそうですから、死して後も和歌山電鐵の貢献する勢いです。