Category Archives: 社会

プレミアムフライデー

2月24日(金)

今月から最終金曜日がプレミアムフライデーと称して、早めに退社しましょうと国が旗振りをしています。中央省庁も3時に退勤することを勧めたとか。大手企業の中には半ドンにしたところもあるようです。

KCPは4:45まで授業がありますから、3時に退勤というわけにはいきません。午前授業の教師は…と言いたいところですが、今は受験シーズン最末期ですから、学生がいつ相談などに訪れるかわかりません。学生が図書室に残っている限りはスタンバイしておくに越したことはありません。また、出席率の悪い学生がひょっこり表れたら即座に指導しなければなりません。つまり、待ったなしで対応する必要がある事柄がうようよしていますから、そう簡単にプレミアムフライデーとしゃれ込むわけにはいかないのです。

金曜日は受験講座がありませんから、バス旅行の準備などで遅れていた仕事に手をつけました。そのすべてが卒業式前には片付けねばならない仕事でしたから、そういう意味でも、やっぱりプレミアムフライデーには程遠い1日でした。

でも、来月のプレミアムフラーデーは31日で学期休み中ですし、それに新学期の準備もたけなわになる前ですから、もしかすると早帰りも可能かもしれません。要するに、「今」が必要な仕事には「今」対応するほかないためプレミアムフライデーどころではなく、そういう仕事がない(少ない)時期ならプレミアムフライデーに乗ることもありうるというわけです。

国はプレミアムフライデーを通して個々に働き方を考え直してもらいたいようです。私たちも、学生に振り回されるだけではない時間の使い方を模索していきたいです。

手袋がない

2月20日(月)

土曜日の帰りに道でこけて手をついたときに、手袋の指先が破れてしまいました。小さな穴ですが、指先がくっきり見えてしまい、貧乏くさいことこの上ありません。家には予備の手袋がありませんから、昨日、新しい手袋を買おうと家の近くの店を回りました。しかし、手袋がないのです。あっても、ちょっとねえ…というものばかり。今週はバス旅行で日光へ行きますから、手袋は必須です。軍手ならありますが、それじゃ様になりませんから、どうしましょう。

破れてしまった手袋は、百均で買ったものですから、捨てるにしても惜しくはありません。でも、暖かいし、手袋をはめたまま本のページがめくれるし、とても気に入っていました。だから、昨日もまず百均をのぞいたのですが、“さくらコレクション”とかというのになっていて、私がはめていた手袋は既にありませんでした。

確かに、2月も下旬ですから、春物が売られているのはわかります。しかし、まだ2月ですからこれからも寒い日があることは間違いないのに、手袋のような冬の小物が消えてしまっているのは納得がいきません。店としてはもう売れ行きが衰えているものより、これから売れるはずのものに売り場を使いたいのでしょう。こけて手袋を破いてしまったのは自己責任で、あと1か月ほど冷たい手をこすり合わせて過せということなのでしょうか。

今朝は冷え込んで、たとえ指先が破れていても、手袋は欠かせませんでした。しかし日中は結構気温が上がったようで、最高気温が19.7度と言われると、やっぱり今さら冬物を買おうというほうが間違ってるかなって気にもなります。そんなもうすぐ春の陽気をよそに、午後は今週末受験という学生4人の面接練習をしました。あと数日のうちに、みんなうまく仕上げてくれるといいのですが…。

子供と話す

2月13日(月)

超級クラスは、近くのH小学校との合同授業をしました。昨年度から行われている地域交流であり、今年度は私のクラスがKCPの代表に選ばれました。

学生たちは日本の小学校に入るのは初めてであり、おっかなびっくりであり興味津々という顔つきで校舎に入っていきました。私も選挙の投票以外で小学校に入るなんていうことはなく、動き回る子供たちに思わず見入ってしまいました。

交流授業は図書室で行われました。今日は初回ということで、自己紹介が中心でした。学生と小学生たちが自己紹介し合っている間、私は図書室の本を見ていました。ハリーポッターのような比較的新しい本も並んでいましたが、「ルパン」とか「家なき子」とか「シートン動物記」とか、概して私が小学生の頃にもあった本のほうが多かったような感じがしました。そういう本は不朽の名作ということなのでしょう。

それから、子供たちの名札がローマ字だったことも、私にとっては驚きでした。今日のクラスは高学年でしたから、英語教育を見据えてのことかもしれません。私のころは、もちろんひらがなか漢字で名前が書かれていました。そして、それをどこでも必ずつけて歩くように言われました。しかし、今日の子供たちの名札はかなり大判で、明らかに校内用でした。今は物騒な世の中ですから、名札をつけて外を歩くなど、考えられないのでしょう。

そんな観察をしているうちに、交流授業は終わりました。学校に戻ってから学生たちに聞いてみると、1か月分の日本語をしゃべったなどという声もあり、かなりの刺激になったようでした。日本語的には手加減したわけでもされたわけでもなく、いい勝負だったみたいです。

この交流授業は今週から来週にかけてする予定です。学生たちが小学生を通して新宿という街をより深く知ってくれたら、日本のごく普通の子供やその家族、日々の生活に触れて日本をより深く知ってくれたら、この授業は大成功です。

玉砂利を踏みしめて

2月3日(金)

例によって、日枝神社へ豆まきを見に行きました。コートにマフラーで出かけましたが、陽だまりは結構暖かく、スーツだけで行ってもよかったかも。暦の上だけでなく、本当に春が来たかのようにも感じられました。

新宿御苑前駅で乗り遅れた学生を待って引き連れて行ったこともあり、例年よりも遅い時間に現地に着きました。既に中級や上級の他のクラスは豆まきが始まるのを今か今かと待っているところでした。しかし、Jさんを始め何人かの学生は、豆まきをする舞台のそばへ行くどころか、そちらを見ようともせず、ひたすらスマホをいじっていました。そういう学生を見るたびに、どうして自分で自分の世界を狭めてしまうのだろうと思います。

その一方で、Hさんなどは日枝神社の祭神を調べてくるといって、由緒書きを探しに境内を歩き回っていました。SさんとEさんがおみくじ売り場を探していたので、案内してあげました。また、K先生はクラスの学生からどうして神社には玉砂利(学生は「小さい石」と言ったそうですが)が敷き詰められているのかと聞かれたそうです。こういう学生は、これからの留学生活でも多く物を得ることでしょう。

豆まきが始まると、いつの間にかHさんも豆の取り合いに参戦し、戦果を私に分けてくれました。今年は力士のほかに晴れ着の女性タレントが多いように思いました。また、ゆるキャラが2体(2人?)いました。どこかで見たような木がするのですが、なんのゆるキャラか思い出せませんでした。

豆まきが終わり、お客さんが引くと、舞台の解体など、後片付けが始まりました。係員が灯籠を保護していた覆いをはずすと、舞台からまかれた豆袋が出てきました。それを見るや、どこかのオジサンがさっと拾い集めました。あんな豆にご利益があるんだろうかと首をかしげながら、あんなオジサンにだけはなりたくないと思いました(もう十二分にオジサンですが)。

さて、神社の玉砂利ですが、神聖なところを清浄にし、それを踏みしめることによって心身ともに清めて神前にまかり出て祈りをささげられるようにと敷き詰められているそうです。

世界一

1月27日(金)

超級で使っている読解テキストに「新宿駅の一日の乗降客数は世界一」という文があるので、世界の駅の乗降客数を調べました。「世界の」といいつつも、統計データが揃っている国となると、どうしても先進国に偏ってしまいます。でも、それ以外の国は鉄道があまり発達していないので、大した乗降客があるとは思えず、上位のランキングには影響を与えないだろうと判断しました。

日本の駅が上位を独占するだろうとは予測していましたが、best(most?)100駅の80駅余りを日本が占めているとは予想以上でした。アムステルダム中央駅が御徒町駅といい勝負、ローマ・テルミニ駅やパリ北駅が町田駅や川崎駅並みと、その国を代表する駅が東京近郊のちょっとした乗換え駅と同程度の乗降客数でした。新宿駅は町田駅や川崎駅の7倍ほどの乗降客数ですから、いかにとんでもないことになっているかがわかります。

鉄道は大量輸送機関で、多くの乗客を同一方向に運ぶとき、その力を発揮します。東京のように一極集中の極みみたいな都市は、この条件にぴったりです。私が上述のヨーロッパの駅で乗り降りしたのはかなり昔のことですが、その当時の新宿駅など東京のターミナル駅と比べるとずいぶんのどかだなという印象を持ちました。見方を変えると、東京圏は世界で最も鉄道を有効活用している町なのです。

駅舎にしても、新宿駅・渋谷駅・池袋駅の“三横綱”は実用一点張りで、ヨーロッパの都市の中央駅のような建物としての芸術性は皆無に等しいです。わずかに東京駅の丸の内側駅舎にいくらか芸術の香りを感じるのみです。また、今学期の読解では、パリの駅は構内にピアノが置いてあって誰でも弾けるようになっているという内容の教材も扱いました。残念ながら、東京圏の駅は利用者が多すぎて遊び心を楽しむどころではないのです。

どこ出身の学生も、多かれ少なかれ、朝の身動きが取れないほどのラッシュにはショックを受けるようです。でも、日本、特に東京で留学生活を続けようと思うなら、これに打ち勝たなければなりません。そういう意味でも、頑張れ留学生!

横綱昇進

1月24日(火)

稀勢の里が横綱になります。稀勢の里にとって、一番いい形で初優勝ができ、横綱昇進もつながってきたと思います。いい形とは、心理的負担がかからなかったという意味です。

稀勢の里は、これまで何度もここぞというときに星を落として、優勝や横綱昇進を逃してきました。ところが今回は、場所前は稀勢の里の綱取りなど全く話題に上がっておらず、少なくとも終盤戦を迎えるまでは、自分自身でも昇進がかかっているという意識はなかったでしょう。さらにまた、優勝は14日目に白鵬が敗れるという形で決まりました。好成績とはいえ、平幕下位の力士に白鵬が取りこぼすとは誰が予想したでしょう。千秋楽に1差で直接対決し、雌雄を決すると、本人も思っていたはずです。もし、そうなっていたら、結びの一番で稀勢の里は実力を発揮できたでしょうか。苦杯をなめて、優勝も横綱昇進も泡のごとく消え去ってしまったかもしれません。

つまり、優勝も横綱昇進も、稀勢の里が手を伸ばしてつかんだというよりは、向こうから転がり込んできたのです。おかげで、稀勢の里は何らプレッシャーを感じることなく、その両方を手にすることができました。こう書くと「棚からぼた餅」のように見えるかもしれませんが、私はそうだとは思いません。精進を重ね、実力も有り余るほど持っていながら、長い間それを十分に発揮できない憾みがあった稀勢の里に、天の神様も仏様も一斉に微笑みかけたような感じがします。

KCPにもいるんですよね、力がありながら出し切れない学生が。今年も2、3人ほど顔が浮かびます。そういう学生も、稀勢の里のおこぼれにあずかれるといいんですが…。

稀勢の里は頭の上を押さえ込まれていたつかえが取れたので、これからぐんと伸びるような気がします。30歳と年齢的には遅い昇進ですが、大器晩成を地で行くような活躍を期待しています。

大人になる

1月13日(金)

卒業文集の下書きがまだ完成していない学生を図書室へと追い出し、職員室に駆け下り、荷物を置いて、学生に捕まる前に6階講堂へ急ぎました、講堂には新成人が三々五々集まってきていて、友だちとおしゃべりしていました。定刻から数分遅れて、成人を祝う会が始まりました。

私の成人式は30年以上も前のことで、来賓の祝辞の際に聞き手である新成人がざわざわとおしゃべりを続けていたため、来賓が起こって話を途中でやめてしまいました。子供っぽい成人のさきがけだったのかもしれません。

これに比べれば、KCPの新成人たちは実に礼儀正しかったです。私の話の時も、ずっと耳を傾け、真剣なまなざしでこちらを見つめていました。私の成人式の新成人たちよりも、ずっと大人の態度でした。まあ、私の成人式の来賓氏よりも、私のほうが聴衆との距離が近いということもあるでしょうが。

私は大学入学とともに家族のもとを離れましたが、同じ国内でしたから、その気になればいくらでも会えました。私と同じ成人式に出ていた新成人の多くは、親元にいました。親元から海を越えて来ているKCPの新成人たちよりも、ずっと子供だったと思います。今は情報機器によって海の向こうにいる家族の顔は見られるでしょうが、生身で見られない心細さは決して消え去ることはないでしょう。何でも自分でしなければというプレッシャーが、成長の原動力になっているのです。

大人になることとすれっからしになることは違います。行動や考え方は大人になっても、歓談の時間に見せていたみずみずしい笑顔をいつまでも忘れてほしくはありません。

一人旅は苦手?

1月12日(木)

始業日なのでいろいろな先生がいらっしゃると思ったからでしょうか、授業後の時間帯を狙って、12月に卒業したKさんが来ました。Kさんはお正月休みに関西を旅行し、そのお土産を持ってきてくれました。

Kさんは、京都、奈良、大阪、神戸を回り、姫路城まで足を伸ばしました。姫路城や奈良公園の鹿や北野の異人館や京都で食べた茶そばなど、関西各地に足跡を残してきたことがよくわかる写真を見せてくれました。とても楽しそうな旅行だと思ったのですが、1人旅だったので寂しくてたまらなかったそうです。旅行中、しょっちゅう国のお母さんやM先生に電話をかけていたとか。

私が毎年5月の連休に1人で関西へ行って楽しんできた話を聞いて、Kさんも関西1人旅を試みたそうですが、Kさんとしては失敗だったようです。Kさんはよくしゃべる人ですから、周りに話し相手がいないと張り合いがなく、それで寂しいと感じたのでしょう。そんなKさんに対して、私は1日中全く口を利かなくても平気な人間ですから、1人旅を寂しいとは全く思いません。

私は自分が見たいと思ったところにはじっくり時間をかけて思索にふけりたいし、そこで得た感動は他の人とシェアするより1人で心行くまで味わいたいです。また、私は歩くのが好きですから、関西で言えば琵琶湖畔の浜大津から山科まで、琵琶湖疏水に沿って寄り道しながら歩いてしまうくらい、平気でします。これもひたすら汗を流すだけですから、誰かと一緒にするような旅ではありません。要するに、自分の興味の対象に浸りきるわがまま人間なのです。

Kさんと私とでは、旅に対する姿勢が根本的に違うのであり、Kさんが私のまねをしたら、やっぱり満足できないでしょうね。感激を分かち合うところに旅の真髄を感じようとするのですから。

5月の連休には、また、関西旅行に行きます。その計画を少しずつまとめつつあるところです。

就職したKさん

1月11日(水)

先学期末で退学し、日本で就職したKさんが書類を取りに学校へ来ました。早速若い力として頼りにされているそうです。何事にも前向きな学生だったKさんなら、社会人としてもきっと立派にやっていけるでしょう。

さて、そのKさんですが、どんな経緯で就職が決まったかというと、アルバイト先でしっかりした人物だと見込まれたからです。普通の大学生がするような、エントリーシートを送って、会社訪問をして、面接を受けて、…という就職活動とは全く別コースです。Kさんの就職した会社がそういう通常の採用活動をしているかどうかまではわかりませんが、通常の就職活動を経ていたら、Kさんは採用されたかどうかわかりません。Kさんは非常に長い面接かインターンシップを通過して採用されたようなものです。

外国人が日本語学校から就職するというのは、法律上は不可能ではありませんが、実際には非常に難しいものがあります。日本語学校卒業は「学歴」にはなりませんし、「KCP」という名前には学歴を乗り越えるほどのブランド力もありません。それゆえ、就職を志す学生たちは、自分の腕や頭脳や人間性だけで勝負しなければなりません。

日本の会社が学生のそういう本質を正確に見極めてくれるのなら、KCPは、例えばN1を取る道場として機能すればいいでしょう。ブランド力のある大学や専門学校を出ることによって、その学生の技術や知識や社会人としての基礎力に保証が与えられるのです。

Kさんはその保証を自分の手で勝ち取ったのですから、感心するほかありません。しかし、日本で就職したいと思って日本語学校に入った学生たち全員にKさんと同じような足取りをたどることを要求するのには無理があります。私たちができることと、歩み寄ってもらわなければならないことと、今年はそんなことも考えていきたいです。

明日から、新学期が始まります。今学期は卒業の学期ですから、学生の送り出し方を考えるにはいい時期かもしれません。

病院にて

1月6日(金)

3か月に1度の目の定期検診のため、病院へ行きました。私が通っている病院は電子化が進んでいて、再診の場合は診察券を機械に通すだけで受付が終わり、その足で眼科の診察室前まで行くと、ほとんど待つことなく名前が呼ばれ、予備検査を受けるという流れになっています。

しかし、診察を受けない月が3か月以上続くと、機械が診察券を受け付けてくれません。前回の診察が9月末でしたから、10・11・12月と診察を受けない月が3か月続いたため、今回は人間のいる受付窓口で手続をしなければなりませんでした。保険証と予約のチェックが済めばOKなんだろうと思っていましたが、一向に名前が呼ばれません。持って行った雑誌を何ページも読んだころに、ようやく名前が呼ばれました。その後はいつものペースで診察が進みましたが、融通が利かない話だなあと思いながらまぶたをひっくり返されたりしていました。

受付が機械化されていなかったら、9月末の次の受診が12月末だろうと1月初めだろうと、待ち時間は、ほどほどに待つという意味においては、変わらなかったはずです。厳密には窓口の方のチェック項目が1つか2つ増えているのかもしれませんが、それが患者の待ち時間に影響を及ぼすほどのことはありません。通常の受付業務が機械化されると人間による受付に比べて待ち時間は短縮されます。しかし、通常ではないと判定された受付は、通常の受付に比べて待ち時間が大きく延びることになります。

大多数の患者が通常の受付ですから、機械化による時間短縮効果は非常に大きいです。私もいつもはその恩恵に浴しています。しかし、通常でなくなると、待ち時間の長さがとてつもなく長く感じられるのです。実際には機械化以前の受付時間と大して変わらないと思いますから、感覚的な問題にすぎません。ですから、病院トータルとしては、患者の待ち時間は大幅に短縮されているはずです。そうは言っても、いや、それだからこそ、通常ではない場合の「待たされた」感が強調されてしまい、そればかりが記憶に残ってしまいます。

通常ではない場合などそう頻繁にあるわけではありませんから、そのときは我慢すればいいのでしょう。でも、それは我慢である限り、機械化の負の側面であることには変わりありません。通常受付ではない患者の犠牲の上に、多くの患者の利便性が図られていると言えないこともありません。

新学期の超級の教材探しをしているからでしょうか、頭の中が理屈っぽくなっています。