Monthly Archives: 6月 2015

評判落とされた

6月4日(木)

Jさんは21日のEJUを受ける上級の学生です。毎日のように職員室へEJUの過去問を借りに来ます。もう直前の追い込みの時期ですから、過去問をがんがんやってもらうのはいいことです。ところが、Jさんは職員室の先生方の受けがよくないのです。それは、あいさつをしないからです。

無言で職員室に入り、必要最小限の言葉で過去問を借りようとし、返すときもぶっきらぼうとくれば、そういう評判もやむをえないところかもしれません。職員室に入るときは「失礼します」と声をかける、用件をきちんとはっきり伝えるなど、コミュニケーションの基本以前の姿勢についても、私たちは指導してきています。その指導を無視しているかのようにも見えますから、評判が悪いのもしかたがありません。「あんまりしゃべらないから、初級の学生かと思った」とおっしゃる先生も。

終わりよければ全てよしで、Jさんが最終的に「いい大学」に入ってしまえば、こんなことも笑い話になってしまうのかもしれません。でも、同時に、「あの大学、Jさんみたいにしゃべれない学生でも受かるんだ」と心の底で思う先生もいらっしゃることでしょう。Jさんの行為は、自分が受かった大学の評判まで落としてしまいかねないのです。

学生たちにはオープンキャンパスに行けと言いつつも、私たち自身が、学生たちが受ける大学に足を運ぶことはめったにありません。その大学に進学した学生の成績や人となり、卒業生の声が私たちの最大の情報源なのです。間口が狭く偏った見方だと思いますが、こういう思考回路は一朝一夕には変えられないでしょう。進学した学生が異口同音にいい大学に入れたと言っているS大学は評価の高い大学の代表です。一方、好き放題のことをして出て行った学生が不思議と受かるF大学は、私にとって変な大学の最右翼です。

明日は進学フェアが講堂であります。私の心の中の一流大学も来てくれます。その大学の先生とお話して、学生を引き付ける根源を見つけ出したいです。

受験したい

6月3日(水)

初級のOさんは17年に国立大学に入りたいと言っています。学部は、「よくわからないけど、将来貿易会社に入りたい」とのことでした。また、国立大学なら東京や東京近郊にはこだわりません。

要するに、漠然と国立大学に入りたいと思っているだけです。そう思うことはとても大切ですが、まだ受験勉強の大変さを知らないので、この気持ちを最後まで持ち続けられるかは疑問です。進学コースの学生は入学と同時に厳しくしごかれるので、Oさんと同じぐらいのレベルの学生ならもう少し具体像を描いていますし、初志を維持する難しさもだんだん感じてきています。進学コースではないOさんは、そこのところから始めなければなりません。

先学期私が担当した初級クラスの学生だったHさんは、学期末に急に「大学進学したい」と言い始め、受験講座に申し込み、進学コースの学生と一緒に勉強を始めました。しかし、すでに挫折し、大学進学はあきらめてしまいました。受験勉強を続け、最初に考えていた大学に入ることは無理だということがわかったと、少し寂しげに言っていました。Oさんもそうなってしまうのではないかと心配しているのです。今は意気込んでいますから何でも「大丈夫」と言ってしまえますが、1年半後も同じ気持ちでいられるでしょうか。

若者が成長するには挫折も必要です。しかし、味わわなくてもいい挫折まで引き受ける必要はありません。大学受験は単なる勢いや流れで首を突っ込むと、無用のダメージを受けるおそれがあります。Oさんにはじっくり考えて、最終判断するように指示を出しました。

三平方の定理

6月2日(火)

漢字の授業では、教科書に出てくる熟語のほかにいくつかの言葉を紹介します。どの先生がどんな単語を取り上げているかはわかりませんが、私はどうしても理系的な言葉を入れたくなります。たとえば「直」では、直す、直接、正直の3つが「直」の字の用例として挙げられています。理系人間にとって「直」は「直角」「直線」「直流」の直です。初級の学生に対して「直流」の説明は難しいですが、「直角」は絵を描けばすぐにわかってもらえます。

確かに、日常生活において「直角」とか「直線」とかを使うチャンスはありません。そんなのよりも「素直」とか「やり直す」とかなんていうのを教えたほうがよっぽど役に立つでしょう。でも、それじゃあ私は面白くありません。数学アレルギーの学生もいるでしょうけれども、「直角三角形」なんていうのはどこの国でも勉強している事柄ですし、そういう純粋に学問的な言葉を日本語でどういうかを知るというのも、学生たちの喜びにつながっていると思います。学生たちはテストになんか出るわけがないことを承知の上で、板書をノートに書き写しています。

「万有引力」とか「光合成」とかを授業で語彙として取り上げることは、日本語教師としての私のとがっている部分だと思っています。学生も私が受験講座の理系科目を教えていることを知っていますから、そういう言葉が出てくることを半分期待しているところもあります。自分自身仕事を楽しむという面からも、私はこういう授業をやめるつもりはありません。

さて、明日の漢字には「定」の字がありますから、「三平方の定理」なんてやっちゃおうかな…。

くっつく?

6月1日(月)

「『歩く』の「止める」と「少ない」はくっつけませんよね」「ええっ、くっつけますよ」「でも、私の見た本にはくっつけないって書いてありましたよ」「漢字の教科書ではくっついてますよ」と、初級のS先生とT先生がやりあっていました。上級のテストだったら、くっついていようがいまいが、上に「止」が、下に「少」が書いてあったら〇だけどなあと思いながら聞いていました。

今学期は初級クラスに入っていて、私も漢字を教えます。はねるとかくっつけるとかいうのを自分なりにチェックしてはいるのですが、学生から細かいところを突っ込まれて苦しくなることもあります。私は、画数が違っていなければいい、読めればいいと思っています。「土」と「士」は違う字ですから上が長いか下が長いかを厳密にチェックしますが、「本」の1画目が多少長かろうと短かろうと気には留めません。「見」と「貝」はきっちり区別しなければなりませんから、脚の部分の曲がり具合は厳しく目を光らせます。しかし、その脚と上の「目」の部分がくっついているかいないかは、どうでもいいと思っています。

ところが、中間テストの採点を見ると、私などどこが間違っているのかわからないのに不正解とされている答えがあります。なんで×なのか学生に聞かれたら、「上級なら〇なんだけどね。初級は字の形をきちんと覚えなければなりませんから、もう一度教科書をよ~く見てください」と言って逃げます。ま、半分は本当のことですからね。

外国人留学生に漢字の基礎をたたき込まなければならないことは疑いのない事実です。中国人には中国語の漢字と日本語の漢字が微妙に違うことをうんと強調しなければなりません。しかし、そういう子細にわたる部分にこだわり過ぎると、漢字に対する苦手意識を持たせてしまうのではないかと思うのです。それが高じて漢字アレルギーになってしまったら、元も子もありません。

言葉はコミュニケーションの道具です。文字であってもそれは変わりません。誤解を生まない範囲であったら、多少字形が不細工であっても、〇なんじゃないでしょうか。私自身がいい加減な漢字を書いているから、自己弁護のためにこんなことが言いたくなるのかな…。