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未熟

2月13日(火)

火曜日は、受験講座の科学が2クラスあります。1つは中上級の学生のクラス、もう1つは初級の学生のクラスです。先週と今週は、たまたま同じような内容の授業になりました。

中上級クラスは、先学期かそれ以前から勉強を始めている学生が主力ですから、日本語で化学が理解できるようになっています。問題文もすらすら読めますし、こちらがガンガン説明しても、どうにかついてきてくれます。初級クラスは、そうはいきません。かなりスピードを落としてアクションを交えて説明しても、いまひとつピンと来ていない顔つきの学生がいます。化学に対する素養だけなら中上級の学生たちに負けないものを持っている学生もいますが、練習問題を読むスピードは半分にも満たず、題意を正確に読み取ることができずに間違えてしまうこともあります。

初級の学生でも、EJUで高得点を上げる学生もいます。そういう学生は、理科に対するカンがいいことは確かです。しかし、それはカンに過ぎず、問題の出し方がちょっと変わっただけで点数は落ちてしまいます。日本語力の裏づけができて初めて、カンが実力になるのです。受験講座は、そこを狙っています。

だから、大学の独自試験のように、マークシートではない筆答試験や、口頭試問にどう対処するかにも力を入れています。毎年、何名かの学生から口頭試問に受験講座で練習した内容が出たと言われ、報告してくれた学生の肩をたたいてからほくそ笑んでいます。

今、日本語で苦しんでいる初級の受験講座の受講生たちも、受験講座にずっと出席し続けてくれれば、来学期末に控えるEJUのころには向こうから点数がやってくるようになるでしょう。

古風な日本語

2月7日(水)

昨日の夜、夜っぴて眠れなかったので、学校へ行くのはちょいと無理です――今朝メールを開いたA先生が笑い転げていました。言いたいことはわかりますが、“よっぴ”とか“ちょいと”とか、いったいどこで覚えたのでしょう。たぶん、国の言葉の辞書で“一晩中”を引いたら“夜っぴて”という言葉が出ていたのではないかと思います。いまどき、こんな言葉を使う人はほとんどいません。少なくとも、KCPの学生が付き合いそうな年代の日本人は、使わないと思います。

もし、本当に辞書の中にこの言葉があったとしたら、その辞書の編者にお会いして、語感をじっくり観察したいです。どこでこの言葉と出会い、普段どのような感覚で使うのか、お話をお聞きしたいです。久しくお目にかかれなかった、とても懐かしい言葉と出会わせていただいたので、お礼も申し上げたいです。

“夜っぴて”は、私が持っている6冊の国語辞書系の辞書には載っていましたから、死語ではないようです。しかし、「古風な和語表現」と注釈を入れている辞書もあり、現代人の使用語彙ではありません。私も、伯母がよく使っていたので耳に残っていたに過ぎず、自分から進んで使う言葉ではありません。

同じ頃、初級の学生のルームメイトと称する人から電話がかかってきました。その学生がおなかを壊して休むということを伝えてくれたのですが、たとえ初級でも、どんなに拙い日本語でも、本人が連絡するのがKCPのルールです。そんなこともありましたから、“学校へ行くのはちょいと無理です”も温かく見てあげたくなったのです。

にじゅうなのか

2月6日(火)

先日、ある手続きをするためにコールセンターに電話をかけました。本人確認で生年月日を聞かれました。「はちがつにじゅうしちにち、にじゅうななにちです」と答えると、向こうの担当者は「はちがつにじゅうなのかですね」と問い返してきました。一瞬、何と聞かれたのかわからず、絶句してしまいました。“にじゅうなのか”とは“27日”のことなのだろうかと、落ち着いて考えたくなりました。でも、そこで妙な間が空くと、本人じゃないと疑われそうなので、“にじゅうななにち”とまでダメ押ししているのだから、“にじゅうなのか”は、きっと“27日”に違いないと信じることにして、「はい、そうです」と答えてしまいました。手続きは滞りなく済ませられましたが、“にじゅうなのか”は手続きをしている間ずっと気になっていました。

“7日”は“なのか”です。しかし、“17日”を“じゅうなのか”というだろうかと考えると、私は絶対にNOです。だからこそ、“にじゅうなのか”と言われて意味をつかみかねてしまったのです。日々、学生たちのへたくそな日本語を聞いていますから、私の日本語感覚がそれに害されていて、“にじゅうなのか”という正しい日本語に違和感を抱いてしまったのかと心配になりました。でも、やっぱり、“にじゅうなのか”は変です。

私の電話を受けたオペレーターは、声の感じからすると20代の女性でした。若い世代には“にじゅうなのか”という言い方が広まっているのかもしれないと、インターネットで調べてみました。すると、レアケースであり、ネット上では否定されてはいますが、“にじゅうなのか”と言う人も存在することがわかりました。どころか、某局のアナウンサーがテレビ番組で“にじゅうなのか”と言っていたそうです。そのアナウンサーの言葉遣いを否定する意味で取り上げられていましたから、“にじゅうなのか”は認められていません。

“にじゅうしちにち”は“にじゅういちにち”と聞き間違えやすいです。それを避けるために“にじゅうななにち”と言い換えることは普通に行われています。“にじゅうなのか”と私に聞いてきたオペレーターは、もしかすると、“にじゅうななにち”ではぞんざいに聞こえると思い込み、丁寧語のつもりで“にじゅうなのか”と言ったのかも知れません。強いて考えれば、こんなところでしょう。

“にじゅうなのか”もいずれ日本語の乱れとして認知され、それが日本語の揺れとなり、いつのまにか日本語の一角を占めるようになるのかもしれません。しばらく観察していくことにします。

美人薄命

2月3日(土)

月曜日に超級クラスの語彙テストがあるので、その問題を作りました。学期が始まったばかりだと思っていたら、再来週の金曜日が中間テスト、だから来週の土曜日はその問題作りに励まねばなりません。また、超級クラスでは大半の学生が卒業認定試験を受けますから、その準備も視野に入れておく必要があります。

去年の1月期も超級クラスを受け持ちました。そのときのメンバーが何名か残っているため、教材の使い回しが利きません。去年とは全く違う教材を使っていますから、問題も作り直しです。この点が、他のレベルと違うところです。最上級レベルは、毎年卒業式まで学生がたまる一方なので、同じ教材同じテスト問題を繰り返し使うことができないのです。

理屈の上では2年前の教材やテスト問題なら使えるのですが、読解は時事ネタを使うことも多いので、そういう文章は寿命が短く、新たに開拓しなければなりません。今年はAIの話題を取り上げましたが、2年後にこの教材がそのまま使えるかというと、たぶん日向臭くなっているのではないでしょうか。

じゃあ、半永久的とはいわないまでも、5年か10年は使えそうな文章を探せばいいじゃないかということになりますが、超級は教材のための教材ではなく、身に付けてきた日本語力を使って新た何かを得てほしいのです。ですから、鮮度の高いネタを選びたくなり、そうすると寿命は短いというわけです。小説やエッセイばかりでは、進学してから必要となる論理的な文章の読み取りがおろそかになりますからね。

テスト作りと並行して、身近な科学も受験講座も…。

明日が本番

1月19日(金)

今学期は、金曜日だけ午後に理科の受験講座がありません。のんびりできるかというと、受験期はそんなことなく、面接練習がしっかり入っています。1月も半ばを過ぎるとシーズン末ですから、受験生側は余裕がなくなり、面接練習というよりは、3月までにどこかに滑り込むための進学相談の様相を呈することもあります。

今まで独自の道を歩んできた学生がこちらを頼り出し、その独自の道のいい加減さが露呈するのもこの時期の特徴です。“私がやってきたことは間違いないよね”という確認のつもりで面接練習を受けたらボコボコにされて、一から出直しということもよくあります。自信を失わせては元も子もありませんから、持ち上げつつさりげなく方向転換させなければなりません。

「日本で高いの技術を学び…」といった、下手に聞こえる文法の間違いを直すにしても、そういう話し方の癖ががっちりこびり付いてしまっていたら、困難を極めます。KCP入学以来さんざん注意されてきたはずですが、右から左へ聞き流していたんでしょうね。直前になってようやく教師が目を三角にしていた意味がわかったんじゃないでしょうか。いや、この期に及んでも“私は大丈夫”と信じていて、こちらの指摘も聞き流すだけかもしれません。

答えの内容が空虚だと、人格を疑われかねません。文法的語彙的に変な言葉遣いをすると、誤解を与えることがあります。私は、誤解されるおそれがない間違いは指摘しません。ミスを気にしすぎて答えが縮こまってしまってはいけませんから。でも、答える人の個性が見えない答えは再考を促します。それが流暢な日本語だと、いかにも心がこもっていなさそうに聞こえます。たどたどしかったら、単なるアホと思われてもしかたがありません。

今週末が入試の面々は、明日以降どんな戦いをしてきてくれるでしょうか。

引っ張られる

12月11日(月)

先月募集した読書感想文コンクールの審査をしました。出足が悪く、一時はどうなることかと思いましたが、先月末の締め切り直前に大勢からの提出があり、むしろ読むのが大変になったくらいでした。

先週のうちに原稿を渡され、ひと通り目を通してみました。数名は読書感想文というよりは読んだ本の要約で終わっており、「感想」は書かれずじまいでした。また、書評っぽい作品もありましたが、自分の心の動きをきちんと書き留めた感想文らしい感想文をたくさん読むことができました。

また、字数制限を設けたのですが、多くの学生がそれを上回る分量を書いてくれました。その字数では自分の思いを書ききることはできなかったのでしょう。冗長ではなく、中身が詰まった文章で字数を超えていたのですから、感服しました。まあ、中には自分の世界に入り込んでしまい、こちらからはどうすることもできない学生もいましたが…。

審査委員の先生方それぞれにいいと思った作品を選んでもらいました。優秀作品については、おおむね意見が一致しました。初級なのに原稿用紙4枚も、しかも、読み手の先生にその作品を読んでみたくさせる感想文を書いたAさん、審査員だれもがうまい構成だとほめたBさん、学生の気持ちを代弁しているような書きっぷりのCさん、みんな順当に選ばれました。

読書感想文なんか書かせるのは日本だけかもしれないと不安に思ったりもしましたが、それは杞憂でした。思わず引っ張り込まれてしまうような文章を書いてきた学生が多く、KCPの学生の意外な才能を見た思いがしました。

ちょうど32

12月6日(水)

この前の日曜日にうちの近くのスーパーでみかんを買ってPASMOで支払い、翌月曜日朝に駅の改札を通ると、オ-トチャージされて残高がちょうど4832円になりました。こりゃあ週のはじめから縁起のいいことだと思い、何だか足取りも軽くなりました。その後、PASMOでは支払いをしていませんから、残高は今も4832円のままで、改札口を通るたびに表示される4832円を見てはニンマリしています。

午後、受験講座の準備をしていると、K先生から「先生、ちょうど32歳って言いますか」と質問されました。友人のお子さんの結婚式で、新郎の父親が挨拶でこう言ったそうです。「え、ちょうど32歳?」「ええ。ちょうど30歳じゃなくて、新郎が32歳ならわかるんですが31歳だし、どうしてかっていうと、32は2の5乗だからって言うんですよ。そういうの、ちょうどなんですか」「あーあ、気持ちはわかりますね。整数の5乗っていうと、3の5乗すら243で、日常生活には縁遠い数になっちゃうんですよ。でも32はわれわれの手が届く範囲の5乗の数なんで、ちょっと特別なんです。だから、ちょうどって言いたくなる心理は理解できますよ」

その方は、大学院で数学を勉強していたそうです。私も理系人間の端くれとして、「ちょうど32」という高揚感は共感できます。その方も、“3:14”なんていうデジタルの時刻を見ると、ちょっとうれしくなるんじゃないかな。また、1999年11月19日には思うところがあったに違いありません。なんたって、西暦の年月日を構成する数字が全て奇数というのは、この日の次が3111年1月1日と、千年以上も未来なのですから。

こういうことを踏まえて、私はなぜ「ちょうど4832円」と思ったのでしょう。そう、“4×8=32(しはさんじゅうに)”です。小川洋子の「博士の愛した数式」を読むと、この辺の機微がもっともっとよくわかると思います。ついでに言うと、私の誕生日は「2の3乗月3の3乗日」です。プレゼントをお待ちしております。

ラップ

11月28日(火)

上級の学生でも、教科書を読ませるととんでもなく下手くそなのがいます。漢字が読めないだけならまだしも、ひらがなも漢字も一字一字拾い読みする学生には、初級に戻れと言いたくなります。いや、初級の学生だってもう少し文の意味の切れ目を意識して読みますから、初級クラスに入っても平均以下になっちゃうんじゃないかな。

読解の時間にJさんを指名したら、途切れ途切れのラップみたいな読み方をされて、テキストがなかったら文意が全くわからなかったでしょう。あんな読み方では、Jさん自身も文章の意味がつかめているとは思えません。中間テストの成績を調べてみると、案の定不合格。入学以来1年半、順調に進級を重ねてきましたが、“暗記の日本語”でどうにかこうにかテストだけはクリアしてきたに過ぎないのかもしれません。大学院進学が決まっていますが、よくこんなので合格できたものだと感心してしまいます。

最近、発話や音読など、声を出すことを軽視している学生が目立ってきたと感じています。EJU、小論文、英語、理系の数学など、声を出さなくてもすむテストをどうにかこなせば合格できちゃう面があります。また、留学生(の家庭)が豊かになったせいか1人あたりの出願校が増え、どこの大学も受験生が多くなり、面接も決まりきったことを聞くだけで、定番の質問の答えを暗記しておけばぼろを出さずに済むことも多いようです。面接練習でがっちり訓練して臨んだSさんが、肩透かしを食らったようなことを言っていました。だから、声を出す練習よりもペーパーテストをそつなくこなすトレーニングを重ねたほうが効果的だと思ったとしても、不思議はありません。

Lさん、Kさん、Gさんなど、Jさんと同じにおいのする学生はいくらでもいます。1人1人はばかじゃありません。でも、コミュニケーションという観点からは、不安が一杯です。みんな、まだ行き先が決まっていません…。

インフルエンザウィルス

10月27日(金)

選択授業・身近な科学では、授業の最後にその日の授業の内容に関するテストをしています。私が話したことを書かないと正解とは認めませんから、授業中に聞き落としたことをこっそりスマホで調べてそれを書き写しても、たいてい×となります。だからかどうかはわかりませんが、今学期のこの授業の受講者は、みんな一生懸命メモを取っています。

昨日の身近な科学も同じように授業を進めてテストを行いました。みんな、概していい点数だったのですが、その数少ない間違いが、「インフルエンザの特徴を書きなさい」という問題に集中しました。テストの直前に、パワポのスライドで大いに強調して示したのですが、ウィルス一般の特徴を答えた学生が少なくありませんでした。

間違えた学生は、よく言えば自分のペースを守って勉強を進めるタイプ、その実はスライドの文字を写すのに精一杯だったように思えます。そして、スライドを写したところで一安心して、教師の話に耳を傾けるまでいかなかったのでしょう。私の話をきちんと聞いていれば、インフルエンザとウィルスを混同することはありません。

確かに「インフルエンザウィルス」という言葉も使いました。でも、この授業は超級の学生たちばかりですよ。超級の実力をもってすれば、この2つを区別することなど、どうということないはずです。問題文中のカタカナ言葉を見て(運悪く、カタカナ言葉はインフルエンザだけ)、自分のノートの目立つところに書いてあったウィルスということばに反応して、それを答えてしまったのかもしれません。

真の意味で超級ではなかったといってしまえばそれまでですが、こういう学生も進学したら身近な科学など足元にも及ばないような厳しい授業を受けなければなりません。果たしてやっていけるのかなあと、一抹の不安を抱かずにはいられませんでした。

おすすめ

10月14日(土)

今月は、読書の秋ということで、学生たちに活字に親しんでもらおうと思っています。掛け声だけではどうにもなりませんから、具体的におすすめの本を挙げることにしました。たくさん本を読んでいるからということで、私が本を見繕うことになりました。

超級の学生向けなら、私が電車の中で読んでいる本をそのまま薦めても、内容に興味が持てれば読んでくれるでしょう。それぐらいの日本語力を持っている学生は少なくないと思います。中級は、かつてKCPで読解教材として使っていた本がありますから、それを推すことにします。ところが、初級となると、私もにわかに候補を挙げることができません。そこで、昼休みに紀伊國屋へ偵察に行ってきました。

まず8階。ここは日本人児童生徒向け学習参考書問題集が中心ですから、外国人留学生によさそうな本はありませんでした。理科の問題集でよさげなのを見つけましたが、それはまた次回に。

次に7階。日本語教材のところで発見したのが、「小説ミラーさん」。出たという話は聞いていましたが、実物を目にしたのは初めて。私も読んでみたくなり、初級向けの推薦図書として、お買い上げ。

さらに6階。児童書の棚には、講談社、集英社、角川などの児童文庫がずらりと並んでいました。思わず手に取りたくなるようなカバーがかかった本が私を誘惑します。「君の名は。」など、わりと最近の映画のノベライズも何冊かありました。また、「時をかける少女」なんていう、私が子供のころに読んだ小説もあるではありませんか。半世紀近くも昔の話ですが、今の小中学生の心も揺さぶるのでしょうか。いずれにせよ、種類の多さ、ジャンルの広さには驚くばかりでした。

子どもの数が減っているのに、いや、減っているからこそ、良書名作に触れさせたいという親心が強まるのでしょう。帰りにもう一度紀伊國屋に寄って、もう少し時間をかけて見てみます。