Category Archives: 日本語

推理は人なり

12月13日(火)

選択授業の「小説を読む」の時間に、ミステリを読ませ、犯人探しをさせました。犯人がわかる部分を切り取った課題の小説を与えると、学生たちは水を打ったように静かになり、真剣に推理力を働かせている様子でした。推理がまとまった学生は原稿用紙に向かい、自分の推理を書き表し始めました。

時間が来て、学生たちから原稿用紙を受け取り、ざっと見てみると、犯行の方法も含めて犯人をピタリと当てた学生も何名かいました。逆に、完全にギブアップという学生も何名か。

Sさんは、文法や語彙の間違いはありますが、作者が提示した材料をすべて使い切り、犯人を見つけ出しました。そこに至るまでの推理も、作者が考えたとおりでした。授業では抜けているところがありそうな感じなのですが、なかなか緻密な頭脳を持っていることがわかりました。

これに対し、Gさんは、ふだんの授業では論理的な考えを披露することが多いのですが、この犯人探しはからっきしダメでした。かろうじて解読可能な、メモというに等しい内容を書きつけた原稿用紙を提出しました。想像力が欠けているはずはないのですが、この手の文章の読み解きは不得手なのでしょうか。

Oさんは、犯人は当てましたが、推理というよりはカンのたまもののようです。Sさんに比べると、論理の荒さが目立ちました。KさんとLさんは、読むのにも推理するのにも飽きてしまったようでした。出てきた原稿用紙も、やる気が感じられないものでした。

文は人なりといいますが、推理の要素が加わると、さらに複雑な様相を示し始めます。来学期も同じ授業を受け持つとしたら、この点を掘り下げてみたいです。

さあ出願だ

11月24日(木)

朝、メールをチェックすると、Cさんから志望理由書が送られてきていました。BBQの前に相談を受けてある程度手を入れて、それをもとに書き直したようです。Cさんの志望校の出願締め切りは明日の消印有効ですから、授業の前に急いで読んで添削しました。

こういう文章を訂正する場合、私はまず、語句や文法の間違いを直します。こうして読みやすい文章にしてから、構成を組み替えます。文法や語句の間違いが多いと、文章のまずさが浮き上がってこないのです。

志望理由書などを見てもらおうとする学生は、まず内容の良し悪しの判断を求めます。Cさんのようなレベルになれば、「いい学校ですから志望しました」のようなアホなことは書きません。志望理由書に必要なことはひと通り書かれているものです。ただし、自分の思いが効果的に書かれているか、他の受験生と差別化できているかとなると話は別です。この部分が構成の良し悪しにかかってくるのです。

差別化がうまくできていない場合は、こっそり入れ知恵することもあります。こういう考え方がこの分野におけるトレンドだとか、この大学はこういう方面に強みを持っているとか、この大学が置かれた地方はこんな特色がある、こんな問題を抱えているとか、留学生が普通に調べただけでは手が届かない情報を与えます。でも、与えるまでです。その情報をどう生かすかは、学生次第です。

Cさんは語句・文法の誤りは少なかったですが、構成が間延びしているのと、その学部学科で勉強できることの一部が抜けていたのを訂正・指摘して、授業前に返信しました。すると、午後、その部分を書き直して持って来ました。ぐっと立派な文章になっていましたから、OKを出しました。志望理由書ではねられることはないでしょうから、本番の試験での健闘を祈るのみです。

晩秋

11月1日(火)

読解のテキストに「晩秋」という言葉が出てきたので、晩秋とはいつごろかと学生に聞いてみました。すると、11月ごろとかちょうど今頃とかという声が挙がりました。確かにその通りなのですが、天気予報によると、明日は晴れますが気温は13度までしか上がらないとか。晩秋というより初冬という感じです。

職員室にはいつの間にか何着かのコートが掛かるようになりました。先週末は朝の日比谷線の電車にヒーターが入っていたことに驚き、今朝は降り立った新宿御苑前駅が妙に暖かく、暖房を始めたのだろうと思いました。もっとも、私の通勤時間はラッシュのはるか前で、人いきれに無縁の時間帯ですから、こうなのかもしれません。

秋の深まりというか冬の始まりというか、季節が進むにつれて、マスクをしている学生・教職員が増えてきました。昨日のハロウィンで大活躍だったFさんからも、風邪で調子が悪いとメールが入りました。そのFさんのクラスは、マスク越しのせきが激しく、授業が終わると窓を開けて空気の総入れ替えをせずに入られません。私が授業後に説教することになっていたSさんも、熱を出して早退したそうです。毎朝校舎内の掃除をしてくださるKさんまで、昨日からダウンしています。

今週末にいろいろな大学の入試を控えている学生たちは、私の知る範囲では風邪に冒されていないようですが、試験日まで何とか持ちこたえてもらいたいものです。今週は木曜日が文化の日でお休みですから、選択科目の身近な化学はありません。でも、来週は風邪を取り上げて、予防に努めるように訴えるつもりです。

メタンを乗り越えて

10月18日(火)

世界中には数千かそれ以上の言語があると言われています。しかし、その中で、その言語だけで高等教育までできるのは、ほんの一握りにも満たないとも言われています。日本語はその稀有な言語の一つだとされており、日本人は、それを意識することなく、その恩恵をこうむっています。

だから、留学生も日本語を勉強しさえすれば日本で高等養育が受けられるかといえば、残念ながらそうでもありません。入試科目に英語を課するところが増えてきていることもそうですが、留学生にとってはカタカナ言葉は日本語でも英語でも他の言語でもない、何とも扱いにくい存在のようです。

私が受験講座で扱っている理科の場合、まず、化学に出てくる物質名が厄介の元です。メタン、トルエン、マレイン酸などなど、わけても有機化学は英語の発音とも全然違う、不思議な名前のオンパレードです。化学は理系志望の学生のほぼ全員が受けるだけに、被害は広範に及びます。生物もカルビン・ベンソン回路、ランゲルハンス島など、随所にカタカナの用語があふれていますが、受験生が少ないことと、その受験生が生物に強い学生が多いので、化学ほど甚大な被害はありません。物理は図や式で勝負できますから、被害は比較的軽微です。

有機化学の授業を受けたCさんは、冗談めかして死にたいと言っていました。理科のカンが鋭いだけに、カタカナ語のおかげでそのカンを働かせられないもどかしさを人一倍感じているのでしょう。同情はしてあげられますが、私にできるのはそこまでです。メタンがCH4であることは、自分で覚えるしかないのです。死にたいではなく、死ぬ気で頑張らなければ、日本留学の道は開けてきません。

問題集

10月11日(火)

明日から新学期が始まりますが、毎年10月期ともなると頭を痛めるのが、超級クラスの教材です。留学生向けの教材では歯ごたえがなさ過ぎ、かといって毎日生教材を用意するのでは、教師のほうが身が持ちません。今学期は、日本人の高校生向けの市販問題集を読解の教科書にすることにしました。

独自試験を課する大学の試験問題は、日本人の高校生向けの問題よりはいくらか易しいものの、留学生向けに書かれた文章はもちろんのこと、EJUクラスの文章よりも読むのに骨が折れます。どこで骨が折れるかというと、まず、十数年日本で暮らしていれば知っていて当然だけれども、日本語に触れ始めてから数年にも満たない外国人にとっては理解が難しい内容が取り上げられることがある点です。

例えば、今の高校生は、渥美清が亡くなってから生まれていますから、フーテンの寅さんは生では知りません。しかし、彼らが持っている寅さんに関する情報量は、一般の留学生に比べればはるかに多いはずです。「日本文化が好きです」と言っても、日本文化のいいとこ取りをしてきた留学生と、それにどっぷり漬かってきた日本人とは、おのずと受け取り方が違います。外国人から見た日本観が日本人にとって新鮮なように、日本人がごく当たり前に書いた文章も、留学生にとっては不思議というか時には意味不明なことさえあります。

そういうギャップを埋めるためにも、高校生向けの易しめの問題集は超級の学生にもってこいなのです。単に読解のテクニックを磨くだけではどうしようもない谷間に橋をかけ、学生たちを向こう岸に渡そうと考えています。思惑通りにうまく事が運ぶか、私たちの腕の見せ所です。

願書失敗

10月4日(火)

衣替えでせっかくスーツを着てきたのに、東京は最高気温が32度の真夏日となりました。でも、おそらく、これが今シーズン最後の真夏日でしょうね。

そんな中、出願とか進路相談とか面接練習とかで学生がやってきました。WさんはR大学の出願書類を持って来ました。成績証明書や卒業証明書など、自分で取り寄せなければならない書類は準備したものの、自分で記入しなければならないところはすべて未記入でした。学校で書き方を確認しながら記入する心づもりのようでした。

「先生、名前はこことここに書きますか」「うん」「このローマ字というのは何ですか」「パスポートの名前を書いてください」「はい」と言って、Wさんがアルファベットの名前を書き始めたのは、「氏名」の欄。「あーっ、そこは氏名とフリガナだから漢字で書かなきゃダメだろうが」と叫んでも後の祭り。願書作成は1行目で失敗となりました。

「先生、日本での留学期間と日本での住所はどう書きますか」「どれどれ。……ほら、ここをよく読んで。ここから下は海外から出願の人って書いてあるだろ」「あ、そうですね。すみません」という調子で、Wさんは注意書きをよく読まないきらいがあります。目の前の1行か2行を読むのが精一杯で、その前後を見渡して書き方をチェックしながら書類を作成するというゆとりが感じられません。本当にこれで受験できるんだろうか、受かったとしても、入学に必要な書類を作れるんだろうかと、心配になってきました。

Wさんは、勉強はそこそこできます。しかし、そのもうちょっと外側の、習った日本語を応用して何かをするという部分に不安を感じます。でも、ここができなきゃ勉強した意味がありません。語学は、相手を理解し、自分を伝える道具なんですから。

卒業証書がほしい

9月30日(金)

Lさんが期末テストの追試を受けました。Lさんは大学院に合格し、9月に入ってからオリエンテーションやガイダンスなどがあり、昨日の期末テストが受けられなかったのです。大学院のほうを優先したため、今月はKCPの授業にはあまり出られず、期末テストの範囲の半分ぐらいは勉強していません。こんな場合、期末テストを受けない学生が多いのですが、Lさんは律儀に受けました。

追試を終えたLさんが、「先生、いろいろありがとうございました」と話しかけてきました。「先生、期末テストの成績が悪かったら、私は卒業できませんか」「うん、KCPの規則上は卒業じゃなくて修了になるね」「えーっ、2年近くKCPで勉強した結果がたった1回のテストで決まっちゃうんですか。それはひどいですよ」「でも、毎年3月に卒業する学生たちも、卒業認定試験1回の結果で卒業か修了かが決まるんだよ。条件的にはLさんと同じですよ」「それはそうだけど…」「たとえ修了でも、Lさんの大学院が取り消されたりビザが出なかったりすることはないよ。もし、ビザが出なかったら出席率かなんか、ほかの理由だよ」「でも、一生懸命勉強した証拠として、卒業証書がほしいんです」

大学院の授業が始まった時点でKCPに退学届けを出してもおかしくなかったのですが、今までKCPの学生であり続けたのは、こんな理由からだったんですね。Lさんの心の中で、けじめがつかなかったのでしょう。ありがたいと思います、こんなにまでKCPの卒業証書に価値を認めてくれるとは。

同時に、もっと日本語を勉強しておけばよかったと、早くも反省の弁も聞かれました。「KCPの先生は外国人に話すと思ってわかりやすく話してくれましたが、大学院の先生は全然違います」と、この先授業を受けていくことに不安も抱いているようです。さらに、「成績は、だいたい、レポートと自分が研究したことのプレゼンで決まりますから、留学生には厳しいですよ」と、ビビッている様子もうかがえました。だから、KCPの卒業証書を心のよりどころにしたいのかもしれません。

そういえば、4月に進学した学生たちはどうしているでしょう。顔を見せに来てくれる学生たちは元気そうにしていますが、裏ではへとへとなのかもしれません。元気な頃の自分を思い出したくてここを訪れる学生がいても、おかしくありません。今度来たら、せめて勇気付けてあげましょう。

社会の急速な反映

9月28日(水)

選択授業の期末テストがあり、私が担当した入試問題クラスも某大学の過去問を使って実施しました。

みんな真剣に問題に取り組んでくれたのはいいのですが、試験中に学生の答案を覗き込んでみると、漢字の書き取り問題に間違いが目立ちました。全問答えたからとボケッとしている学生が現れ始めた頃、我慢しきれなくなり、「自分が書いた漢字をカタカナの代わりに文の中に入れて、文全体の意味が通じますか。まだ時間がありますから、本当にその漢字でいいか、もう一度確かめてください」とクラス全体に注意してしまいました。

制限時間が来て、答案を集め、採点してみると、「社会の急速なハンエイ」が「反映」になっていたり、「こどもがカンシンをもつ」が「感心」だったりという誤答がちょこちょこ出てきました。「繁栄」は字が難しいから思い浮かばなかったのでしょうか。「カンシン」という字を見たら条件反射的に「感心」と書いてしまうのでしょうか。

漢字の授業の中で行うテストなら、出題範囲が限られていますから、漢字に置き換える部分だけしか見ていなくても点が取れることもあります。でも、いやしくも大学の入学試験ですよ。出題範囲は狭く見積もっても常用漢字全体ですよ。問われる漢字には“無限の可能性”があるんですよ。なのに「ハンエイ」を自動的に「反映」に変換して何とも感じないのはどうかしています。「繁栄」という単語を知らないのならいざしらず、このクラスの学生は絶対にそんなことはありません。なのに何の迷いもなく「反映」と書いて平然としているのはどうかしています。

そういう困った人たちの中にも、ごく近い将来、本物の大学入試で漢字の問題に取り組む学生がいます。そういう時期に至っても、まだこんな答案を書いているやからがいるということは、担当した私の力不足なのでしょう。

赤ちゃんに泣かされました

9月16日(金)

Gさんが、受身がわからないと質問して来ました。「先生にほめられました」のような受身ではなく、「赤ちゃんに泣かれました」のような文の意味がつかめないといいます。要するに、自動詞の受身、迷惑の受身の感覚がピンと来ないようです。

「赤ちゃんが泣きました」は事実を述べているだけなのに対して、「赤ちゃんに泣かれました」は、赤ちゃんが泣いたという事実に加えて、赤ちゃんが泣いたことによって寝られなかったとかいらついたとか、表に出てこない話者の状況や感情がそこに盛り込まれています。この裏側の意味がGさんには見えないのです。

それがようやく理解できたところで、Gさんは、さらに、「赤ちゃんに泣かせられました」はどういう意味かと、使役受身について質問してきました。「泣いたのはこの言葉を発している『私』だ」と指摘すると、Gさんは不思議そうな顔をして私を見つめました。いろいろ説明されて「赤ちゃんが原因で私が泣いた」ことがようやく理解できたGさんに、「赤ちゃんは必ずしも泣いたとは限らない」と言うと、Gさんは再び混乱のきわみに陥ってしまいました。

Gさんは、これも最終的には何とか理解しましたが、「受身や使役受身は使わなくても大丈夫ですよね」と逃げを打とうとします。確かに何とかなりはしますが、受身や使役受身を使わないとシャープな表現にならないこともあります。でも、それを今のGさんに伝えることは非常に難しいです。来学期の期末テスト近くになれば、Gさんの日本語力も底上げされ、「赤ちゃんに泣かれました」を、実感を持って理解できるようになるでしょう。そうなれば、それがGさんの日本語力をさらに引き上げることでしょう。これこそが、日本語の機微がわかるということなのだと思います。

15%

9月3日(土)

ある年のEJU日本語の問題に出てきたカタカナ語のリストを作って、EJUの対策講座に出てきた学生に配り、その中にどれくらいわからない言葉があるか聞いてみました。学生によって多少のばらつきはありますが、わからない言葉は15%程度でした。もっと多いかなと思っていましたが、85%ぐらいわかっているということは、結構いい線行ってるんじゃないのかな。ただ、聴解・聴読解に出てきた言葉も文字として渡しましたから、耳だけだとわからない割合が増えるかもしれません。

外国人、殊に日本での進学を考えているような人にとっては、カタカナ語との戦いに勝たない限り、明るい将来は開けてきません。入試もそうですが、進学してからの専門の勉強において、さらに厳しい戦いが待ち構えています。日常生活では目にも耳にもしないカタカナ語に触れ、しかもそれが長ったらしかったら略された形もあります。

日本語は柔軟な構造をした言語ですから、外国語をカタカナ語としてバリバリ受け入れてきました。日本人はそれをわかりにくいとか文句を垂れながらも受け入れてきました。新しいカタカナ語も、いつの間にか自家薬籠中のものとしてしまいます。「リピーター」なんて、私が学生たちの年代にはありませんでしたが、今では過半の日本人が理解するんじゃないでしょうか。その「リピーター」ですが、学生たちはピンと来ていないようでした。

私は、学生たちの頭の中にちょっとでも引っ掛かりを残しておこうと思って、読解でも文法でも聴解でも漢字でも、どんな授業でも積極的にカタカナ語を紹介しています。紹介しっぱなしになっているきらいがある点は否めませんが、学生はわりと楽しみにしていてくれるみたいです。

JLPTの結果通知が届きました。月曜日にこれを見て、12月に上のレベルに挑戦したり捲土重来を図ったりする学生もいるでしょう。彼らもまた、カタカナ語とのにらみ合いを続けていくのです。