わかるわけがない

11月18日(金)

読解のプリントを配りました。「まず、黙読してください。辞書は使わないでください。わからない単語があったら、その単語の下に線を引いてください。5分、時間をあげます」と指示を出しました。分量的に5分では読み終わらないだろうと思いましたが、学生に辞書など引いている暇はないと思わせるために、あえて短い時間を言いました。

結果的に10分読ませましたが、みんな読み終わりませんでした。辞書を使うなといったにもかかわらず、スマホで調べていた学生が3名。普段の様子からすると、指示が伝わっていない可能性の高い学生たちでした。

次に音読させました。辞書を使わせませんでしたから、漢字の読み方がわからなくて立ち止まるのは大目に見るとして、カタカナ語でつまずいたり、語句の切れ目がわからず“弁慶がな、ぎなたを持って…”的な読み方になってしまったりとさんざんでした。そんな予感はありましたが、現実として目の当たりにすると、愕然とするものがありました。

「月曜日にこのプリントを詳しく読みますから、週末に予習しておいてください」と告げると、予想通り、「はい」と元気な返事が。そこで、「Aさん、どんな予習をしますか。予習のしかたを教えてください」と聞くと、「単語を調べます」と、これまた予想通りの答えが。「そうですね。さっき、わからない単語に線を引きましたね。それから?」とさらに踏み込むと、「………」。「じゃ、Bさんはどんな予習をしますか」「うちでもう一度読んで、わからない単語を調べます」。本人的には工夫した答えのつもりなのでしょう。

「Bさん、“もう一度読んで”と言いましたが、黙読ですか、声を出して読みますか」「黙読です」。“なんでそんなことを聞くの?”という顔つきでした。音読をしないからカタカナ語でつまずいたり、“弁慶がな、ぎなたを持って…”になったり、目で見て意味がわかるので“下位”を“げい”と発音したりするのです。

わからない単語の意味を調べただけでわかった気になってしまいますから、その単語を含んだ文の理解まで進まないのです。文の意味がわからないのですから、そういう文が集まった段落の内容はつかめず、当然、その文章での筆者の主張などに手が届きません。

そういう話をして、予習のしかたを訴えて、授業を終えました。

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