Category Archives: 教師

山場

2月1日(木)

2月は、受験シーズン最後の山場です。私のクラスでは、2名が入試のため欠席でした。明日は3名だったかな。どの学生もまだ行き先が決まっていませんから、何とか合格をつかみ取ってもらわねばなりません。面接練習やポートフォリオの説明文のチェックなど、試験に向けての最終チェックを頼みに職員室まで来る学生も、毎日何名もいます。不安や緊張を押し殺して教師の発する想定質問に答える姿には、鬼気迫るものすら感じられます。

中には、ぐうたらしていたあげく、切羽詰って進退窮まって、教師を頼ろうとする学生もいます。そんな学生は、だいたい教師に怒鳴られています。書類がいい加減だったり、約束した時間に来なかったり、質問に対する答えがどうしようもなかったり、早い話が受験の基礎知識すら身に付けていないのです。神妙に教師の指示に従えばいいのに、突っ込みどころだらけの学生に限って自己主張したがります。

「先生、B大学やC大学だけでは危ないですからA大学を受けます。この理由は大丈夫ですか」「本当はB大学かC大学に入りたいけど、そこがダメだったらしかたなくA大学に入るって聞こえますが」「はい、そうです。だめですか」「それは志望理由になりませんね」「でも、A大学を受験する留学生は、みんなそう思っています」「あなたがA大学の面接官だったら、そういう答えを聞いてどう思いますか」「A大学の先生も知っていると思います」

どうやら、世間の荒波様にもんでいただくほかないようです。この頑固さを違う場面で発揮すると、この学生の人生も明るくなるかもしれません。しかし、発揮するのは今じゃないこともまた、確かです。

修羅場を迎える

12月26日(火)

期末テストの成績が出揃うと、各学生の進級をどうするかを決めなければなりません。各科目の学期を通じた成績で合格点を取った学生は「進級」で問題ありません。しかし、1科目でも不合格点があると、こちらが頭を悩まさなければならなくなります。全科目不合格なら、胸を張って「もう一度同じレベル」と言えますから考えるまでもないのですが、中途半端に不合格の科目があると、情けをかけるべきかどうか多面的に考えていくことになります。

初級で文法の点が基準に達していないというのなら、情けをかけて進級させても次のレベルでつまずくだけで、情けが仇となるだけです。本人にとっては厳しい宣告でしょうが、「もう一度」が最善の指導です。学生はいろいろと抵抗を試みますが、教師はそれに負けてはいけません。鬼に徹しなければなりません。いかに学生自身に納得させるかが、教師としての責務だとも言えます。

10月期の上級となると、大学も大学院も入学試験たけなわで、それへの対応のために学校の勉強がおろそかになったと言い訳する学生が出てきます。確かにそういう事情もありますが、同じ状況にもかかわらずちゃんと合格点を取っている学生がいるのですから、教師としてすんなりと受け取れる言い訳ではありません。また、それだけ入試の勉強に力を注いで、それなりの結果を残してくれたら情状酌量の余地も出てきますが、そういう学生に限ってどうにもなっていないものです。

午前中、養成講座の修了式がありました。座学も教壇実習もこなして修了しているのですが、学期後の修羅場の実習なんていうのがあってもよかったかな。いや、こんな実習があったら、KCP日本語教師養成講座の最大のウリになるかも…。

去る者

12月22日(金)

選択授業の時間に書かせた小論文を読んでいます。教養とは何かというテーマを与えたのですが、ちょっと重すぎたようです。一生懸命書いてはいるのですが、議論が浅いのです。「教養は人間らしい生活に不可欠なものだ」といった類の、書いた本人もおそらくわけがわかっていないと思われるものが多く、出題を失敗したかなと思いました。しかし、これは何年か前の某大学の留学生入試の問題ですから、受験生たるもの、12月の時点で書けないなどと言っていてはいけないのです。

マークシート的な知識の堆積を狙った授業ばかりをしてきたつもりはありません。しかし、「教養」という、高等教育の目的の1つについてお手上げ状態では、私たちの教育のどこかに至らぬ面があったのでしょう。学校の中に物事を深く考える雰囲気が足りなかったのかもしれません。

その中に、「教養とはコミュニケーションのツールである」という意見がいくつかありました。異文化に触れ世界に目を向けるきっかけを作るなどという話になると、読んでいても夢が広がります。こういう学生の将来がまぶしく見えてきました。

コミュニケーション力をつけてくれというのは、私も去年の1月の入学式で祝辞として述べています。それから2年間勉強した学生たちの卒業式がありました。卒業生全員出席で、会場に空席がないというのは気持ちのいいものです。2年前には講堂いっぱいにいた新入生のうち、卒業式まで残ったのは講堂の真ん中にほんの3列だけ。コミュニケーション力が身についたか怪しい学生もいますが、よくぞ頑張り通したと思います。彼らと激戦を繰り広げた先生方も、式後ににこやかに談笑していました。

よかったね

12月5日(火)

MさんがK大学に受かりました。Mさんは先々学期私のクラスの学生で、少し頭の固いところもありますが、まじめでがんばり屋で、積極的に授業に参加していました。そういう努力が実って、本当によかったと思っています。

先々学期はまだ初級でしたが、私のところへよく進学相談に来ていました。最初は志望校として超有名校ばかり挙げていました。正直に言って、そういう学校には手が届きそうにありませんでした。大学で勉強したいことはとてもはっきりしていましたから、そういう方面ならK大学でもMさんが最初に挙げた大学と遜色のないレベルだと、薦めておきました。それを覚えていて、出願し、受かったようです。

もちろん、しっかり者のMさんのことですから、私の言葉だけで志望校にK大学を加えたわけではないでしょう。自分でも調べてみて、納得した上で出願したに違いありません。だから、合格を知らせに来たときの顔が心の底から喜んでいたのです。

Mさんの勝因は、初級の頃から自分の進路を真剣に考えてきたことです。そして、謙虚な姿勢で教師の言葉に耳を傾けたことです。自分の耳に心地よい返事が聞けるまで身の回りの教師に相談し続ける学生は、ただ単に背中を押してもらいたいだけで、自分の考えを変えるつもりはありません。そういう学生は、玉砕して、地獄に落ちて、こんなはずじゃなかったとショックを受けて、ようやく目が覚めるのです。その時に転進可能なら進学もできますが、クリティカルポイントを過ぎていたら、不本意な結末を甘んじて受けなければなりません。

真に力のある学生やMさんのように聞く耳を持っている学生から吉報が聞こえてきている一方で、まだ夢を追い続けている危険なにおいのする学生もいます。クリティカルポイントが、近づきつつあります。

聞く耳持たず

12月4日(月)

「あなたは、今月、1回も遅刻欠席しないで100%来ない限り、来学期の登録はノーチャンスですよ」と言われたらどう受け取りますか。私だったら来学期はもうこの学校で勉強できないものと思い、次の算段を始めるでしょう。しかし、Aさんは違うようです。100%来ればチャンスはあると思って、希望に満ちた顔つきをしています。でも、これまでのAさんの行状を見る限り、期末テストまで遅刻すらせずにというのはどう考えても無理です。それが1度たりともできたためしがなかったから、今こんなことを言われているのです。そんな学生が急に出席率100%になるとは、到底思えません。

この楽天的性格というか、能天気さというか、自分の都合のいいほうに解釈してしまう根性、私なんか少し見習いたいくらいですが、学生が持っているとなると、生活指導も何も効果半減です。もちろん、可能性が低くても果敢に挑む気持ちも必要な時があります。そういう行為が歴史を動かしたことだってあります。桶狭間における信長がその例でしょう。しかし、信長はそれ以降、可能性の低い勝負はしていません。浅井と朝倉に挟み撃ちされた時は一目散に逃げています。ところがAさんのような学生たちは、自分の過去から何も学ばずに、ただ闇雲に自分の理想に近い情報のみを信じて、そちらに進もうとします。そこには冷静な判断などありません。「信ずるものは救われる」という悲壮感もありません。悪い状況を見ようとしない逃げ、その場しのぎの言い訳や行動でどうにかしようという課題の先送りなど、問題の本質に迫ろうという気持ちが全く感じられません。

こういう学生に会うと、こいつは痛い目にあってもらうしかないと思って、指導する気も失せてきます。そして、実際に痛い目にあってこちらへ来ると、「先生がきちんと指導してくれなかったからこんなひどいことになったんじゃないか」と言わんばかりの顔をする学生もいます。そして、やっぱりこちらの指導を受け入れず、事態は悪化の一途をたどるのです。

進路指導などでこういう場面が続くのが、毎年の年末です。そういう火種を抱えている学生が、私のクラスに1人、2人…。

月末の憂鬱

11月30日(木)

月末になると、その月の出席不良者リストが送られてきます。受験のための欠席は除いてありますから、病気で休んだか、単なるサボリだったかということになります。親類が急逝したので一時帰国中という学生もいましたが、親類家族の不幸がこんなにたくさんあったら、KCPはかなり呪われていることになります。

私が以前受け持った学生の名前もそこここにありました。こういう形での再会はしたくありませんでしたね。「また休みやがって」と思わずつぶやいてしまう学生もいれば、「先学期はあんなにいい学生だったのに」と、何が起きたか心配になる学生もいました。

現在の私のクラスの学生も数名リストアップされていました。今月ずっとマスクをしていた学生、受験準備と称して休んでいる学生、大学合格後完全に気が緩んでいる学生、どういう角度から見ても休む理由などなさそうな学生、いろいろです。ビザさえあえば何をしてもかまわないと思っているのでしょうか。

このうち、本人が受験準備だと信じて休んでいる学生は、確信犯ですから悪いことをしているとは思っていません。自分の本務は入試に受かることで、日本語学校生というのは世を忍ぶ仮の姿と割り切っているようにも見えます。こういう学生への指導や注意は、のれんに腕押しです。話し合った翌日、何事もなかったかのように休みます。そんな時、コミュニケーションの成り立たない無力感をじわーんと味わわせられます。

学校が楽しくてしょうがない、学校ほど居心地のいい場所はないという声もあちこちで聞きます。そういう学生の期待に応えられるように、楽しくてためになる授業作りに力を注いでいます。そんな授業をもってしても、上述の学生たちの心を動かすには至りません。

そして、確信犯が学校へ来るのは、にっちもさっちも行かなくなったときです。お前みたいに都合のいいときだけ学校を頼ろうとするやつなんかに差し伸べる手はない……と言い切ってやりたいですが、言えないんですよね。

文法テスト

10月24日(火)

私のクラスで、今学期初めての文法テストがありました。何回か授業に入ってきて、こいつはできそうだとか、危ないんじゃないかなとか、ある程度の見当はつけていましたが、文法のテストは実力差を画然と浮き上がらせます。

授業中真剣に話を聞いているCさん、気の利いた答えをよく言うAさん、常に積極的なSさんあたりが高得点なのは順当なところ。漢字の弱いYさんも高得点なのは大健闘と言っていいでしょう。欠席の多いQさんやPさんが振るわないのも予想通り。その一方で、授業中はわかったような顔をしているHさん、Wさんが不合格なのは大いに意外でした。LさんやJさんも不合格になるとは思っていませんでした。

口は達者でも文が書けなかったり、例文を作らせると最高なんだけど口が回らなかったりと、個々の学生には得手不得手があるものです。しかし、今回の結果は、得手不得手で片付けてしまうわけにはいかないような気がします。どうやら、学生の力を過大評価していたようです。

ということは、授業がよくわかっていない学生を見落としていたということです。授業の時には質問しやすい雰囲気を作ってきたつもりですが、そういう学生からすると、何をどう質問すればいいかすらわからない状況だったかもしれません。思わぬ学生が不成績だったということは、導入や練習を丁寧にせよという天の声なのかもしれません。

テスト結果はテストを受けた学生にフィードバックするのはもちろんのこと、自分自身にもしっかりフィードバックして、学期末にみんなが笑っていられるクラスを築いていかなければなりません。

辛口

10月10日(火)

始業日の前日は、前の学期に担任をしたクラスの学生に成績表を送ります。成績表の数字は機械的に計算されたものですから、私が個人的な感情をさしはさむ余地はありません。しかし、教師からのコメント欄には3か月間の思いをこめた一言を書きます。

先学期私が担任をしたクラスは、いい学生は文句のつけようがないくらいすばらしく、悪い学生は絶句するほどひどいという、両極端の学生が集まったクラスでした。前者のコメントはすらすら筆が進みましたが、後者は成績の悪さ、出席率の低さを指摘しているうちにムカついてきて、仕事がはかどりませんでした。

本当は、後者の学生にこそ心のこもったコメントを送り、立ち直るきっかけを与えるべきなのでしょう。でも、心をこめてしまうと、どうしてもきつい言葉ばかりになり、学生をさらに絶望の淵に追い込みかねません。かといって、勉強が足りなかったこと、学校中心の生活になっていなかったことを指摘しないと、そういう学生たちは同じ失敗を繰り返すでしょう。耳の痛い言葉にも耳を傾けなければなりません。良薬は口に苦しです。

本当に私の気持ちが伝わってほしいのは後者の学生たちですが、こういう学生はえてして成績表の数字だけ見てコメント欄には目を通さないんですよね。次の学期に立ち直れば、多少なりともこちらの思いが届いたかなと思えます。逆に、次の学期もぐうたらしている様子が知らせられると、徒労感に襲われます。さじを3本ぐらい投げつけてやりたくなります。

辛口のコメントを送った学生たちは、明日、どんな顔を見せてくれるでしょう。まさか、休むんじゃないでしょうね。

風邪ですか

9月14日(木)

どうも最近、マスクをしている学生が多いような気がします。人数を数えたわけではありませんが、私が受け持っているクラスにはいつも1人はいます。Sさんなんか、今学期の最初からしています。2か月も風邪を引きっぱなしなのでしょうか。夏の花粉症なのでしょうか。Dさんもマスクをしていますが、声を聞く限り元気そうです。意地悪い見方をすれば、寝坊で遅刻欠席しても、教師に体調不良のためと思わせるために毎日マスクをしているとも受け取れます。Dさんはよく休みますからねえ…。

口元を隠すのはウソをついていることの表れだと言われます。私は、手で口を隠して話すことは失礼なことだとしつけられました。ですから、毎日マスクというのが気になるのです。また、顔の下半分が見えないと表情が読めませんから、何を考えているのか、どう感じているのかわかりません。教師にとってはそういう学生は扱いにくいです。その学生の反応がつかめず、何かとやりにくいです。

Dさんにはなぜマスクをしているのかと聞いてみたことがあります。予想通り、風邪をひいているからという答えが返ってきましたが、なんとなく信じられません。私の質問に不安げな目つきで答えている様子を見ているうちに、自分をさらけ出すのが怖いからなのかなとも思いました。家族から寄せられる期待に押しつぶされそうな自分を見せたくないのでしょうか。そこまで想像力をたくましくしてしまうのは、いたずらな憶測かな。

いや、Dさんたちが感じているのは、教師や学校からのプレッシャーかもしれません。テストや宿題や、これができなかったら進級させないなどという教師の脅しが、マスクとなってはね返ってきているような気もしてきました。私もマスクをしたくなってきましたが、マスクをするとメガネが曇りますから…。

開業

9月8日(金)

今シーズン初の推薦書を書きました。Pさんは出席率もいいし努力家だし、喜んで推薦できる学生です。推薦書に書きたい内容がたくさんありますから、すらすらと書くことができました。この時期に推薦書と言ってくる学生は、たいてい来日当初から進学したい学校が決まっていて、そこを目指して努力を重ねてきた学生ですから、推薦書で悩むことはありません。Pさんもそんな1人です。

志望理由書の添削も頼まれました。夏休みの直前に相談に来ていたSさんが、A大学の志望理由書を書いてきました。相談に乗った時に志望理由書の書き方の基本を教えておきましたが、実際に書いてみるとそうスムーズには筆が進まなかったようで、約束の時間をだいぶ過ぎてから来ました。悪くはない内容ですが、でも、“悪くはない”止まりです。初めての学生が陥りがちな抽象論の空中戦が見られましたから、注意しておきました。Sさんはいいネタを持っていますから、それを活用してくれれば読み手の目を引く志望理由書が書けるでしょう。

初級クラスの学生の進学相談もしました。ZさんはM大学かC大学といい、FさんはJ大学かG大学と言っています。2人の実力からすると夢のような話で、来春の進学は無理そうだと気付き、予定を延長することを考え始めたようです。2人とも頭でっかちで、難しいものを読む勉強には熱心なのですが、語彙力が伴っていないため、その勉強が血肉になっていない憾みがあります。

来週は9月も半ばです。推薦書も志望理由書も進学相談も、どんどん増えていくことでしょう。時には引導を渡さなければならないことも出てきます。覚悟を決めて事に当たらないと、学生に負けてしまいます。