Category Archives: 日本語

単語が多くて

8月12日(金)

今週は、アメリカの大学のプログラムでKCPに留学している学生のインタビューをしています。学生たちは異口同音に語彙力不足を嘆きます。国ではまあまあ日本語に自信を持っていたのですが、KCPの授業では、単語がわからなくて読み取れなかったり聞き取れなかったり話せなかったりすることが多いのです。

漢字は国でも勉強していますが、たいてい、その漢字を使った熟語までは話を広げていません。しかし、KCPでは日本で進学しようと考えている学生たちと同じクラスで勉強しますから、大学や大学院の入試に出てきそうな言葉も取り上げます。読解や文法でも、ディクテーションでも、次々に新しい言葉が登場します。私がインタビューした学生たちは、そういう言葉の蓄積がまだまだなので、語彙力不足を痛感しているわけなのです。

日本語は語彙が多い言語だといわれます。フランス語は500語覚えれば新聞のかなりの部分が読めるのだそうですが、日本語では「たった」500語に過ぎません。「取り消す」「解約する」「キャンセルする」、どれにも共通する部分もありますが、指し示す意味範囲がちょっとずつ違うこともまた事実です。「こうこう」と読む漢語は、高校、航行、孝行、口腔、後攻など、いっぱいあり、文脈に応じてその中から最適なものを選ばなければなりません。こういうことに直面し戸惑っているのが、今の彼らなのです。

彼らはナチュラルスピードが聞き取れ、ナチュラルスピードで返すこともできます。でも、こちらが語彙のレベルをちょっと上げると、聞き取れなくなったり、聞き取れてもその語彙レベルより一段か二段下の語彙でしか返せなくなったりします。理解語彙、使用語彙ともに大いに拡張していくことが、これからの彼らの課題です。

学生たちの中には、天狗の鼻がへし折られて落ち込んでいる者もいます。新たな目標が明らかになったのですから、それを目指してはい上がってきてもらいたいです。

答え方

8月10日(水)

大学入試の過去問を上級の学生にさせてみると、気懸かりなことが見えてきています。それは、記述式の問題の答え方です。選択肢の問題は十分に答えられるのですが、たとえ短くても文で答える問題に答え切れていないのです。過不足のありすぎる答えだったり、字数制限を無視したり、答えの形が整っていなかったりなど、減点の要素たっぷりの答えが答案用紙に満開です。

答えがまるっきり的外れではないのです。方向性は合っているのですが、きちんと答えることができていません。違和感を抱かせるような答えと言ってもいいでしょう。文章の内容は理解しているけれども、その理解したことを他人にわかるように表現することに問題があるのかもしれません。あるいは、なんとなくしかわかっていないから、ぼやかした答えをしているのかもしれません。いずれにしても、詰めの甘さが感じられます。

学生たちの多くは、選択肢のテストには慣れています。しかし、国でも記述式のテストはあまり受けていないそうです。受けていても、本文からできるだけたくさん文を抜き出せば点がもらえるとか、逆にキーワードだけ書いても点になるとか、日本の試験の答え方とはだいぶ違う習慣のもとで育ってきたようです。そういう学生たちにとって、簡にして要を得た答えを求める日本の国語テストの流儀が重い負担になることは、想像に難くありません。

でも、そういう答え方の延長線上に、大学でさんざん書かされるレポートがあると考えると、受験勉強での訓練にも意義が感じられます。答え方を事細かに注意すると、学生たちはあまりおもしろそうな顔をしませんが、遠慮なくビシバシ鍛えていかなければなりません。

短期間で上達

7月7日(木)

新入生のレベル判定のためにインタビューしていると、日本語の勉強を始めてから短期間のうちにかなりのレベルにまで到達していて驚かされることがよくあります。

Hさんは去年の夏に勉強を始めたと言っていましたから、ちょうど1年です。それなのに中級と上級の境目ぐらいの実力で、会話も非常に滑らかでした。レベル判定のついでに、どんな勉強をしてきたんですかと聞いてみました。日本語の本を読み、インターネットの授業を聞いて勉強したと答えてくれました。また、ネットを通じて日本人の友達と話をして、会話の練習をしたそうです。

去年の12月のJLPTでN2をとり、この前の日曜日はN1を受験したそうです。つまり、勉強を始めて1か月かそこらでN2の受験を申し込んだことになります。Hさんは、1か月ほどの勉強で、その数か月後に自分の日本語力がN2という、ある程度の仕事も学問もできるレベルに到達すると踏んだのでしょうか。それが手の届く目標だと思えたのでしょうか。今学期、KCPの一番下のレベルに入学した日本語ほとんどゼロの学生が、果たして12月のN2に申し込むでしょうか。申し込んだとして、受かるでしょうか。否定的な答えにならざるを得ません。それだけに、Hさんの能力や、インターネットを上手に活用した勉強法に驚かされるのです。

でも、それならずっと国で勉強を続ければいいのに、どうしてわざわざ日本へ、KCPへ来ちゃったのでしょう。日本で進学したいという気持ちもありましたが、生の日本の文化に触れたい、日本語を使ってコミュニケーションしたい、日本人以外の外国人とも交流したい、という意欲に駆られて留学することにしたそうです。それならKCPで勉強する価値がありますね。

Hさんが私のクラスになるかどうかはわかりませんが、今学期も有望な学生が入ってきてくれたようです。

ねぼった

6月15日(水)

「先生、Sさんったら、今学校へ来て、ねぼったって言うんですよ」と、前半の授業を終えて職員室に戻ってきたF先生が嘆いていました。Sさんは寝坊したと言いたかったのですが、「ねぼう」を名詞ではなく1グループの動詞だと勘違いし、“買う⇒買った”と同様にた形を作ってしまったのでしょう。

漢字で“寝坊”と記憶されていれば、おかしげなた形を発明することもなかったのですが、読み方の“ねぼう”だけが一人歩きしてしまったため、上述のような悲劇が起きたと考えられます。また、Sさんができる部類の学生だったことも災いしてしまいました。なまじ応用力があったため、ねぼってしまったのです。これが単語レベルのコミュニケーションしかできないJさんだったら、ぶっきらぼうに「ねぼう」と言ったでしょうから、かえって意思疎通が図れたと思います。

これで思い出したのが、私が日本語教師を始めたばかりの頃に教えたMさんです。意向形の作り方を教えたら、しばらく黙り込んでいました。そしておもむろに、「先生、『ごります』は何ですか」と、真剣な顔で聞いてくるではありませんか。もちろん、「ごります」なんて初めて聞く言葉です。内心の動揺を抑えつつ、「どこで聞きましたか、見ましたか」と聞くと、「イトーヨーカドー」という答えと同時に、「ゴリヨー、ゴリヨー」とだみ声で魚売り場かどっかのおじさんのまねを始めました。

「食べます⇒食べよう」という説明を聞いて、よく耳にするけど意味がわからない「ゴリヨー」はこれだと思い、「X⇒ごりよう」という変換方程式から「X=ごります」という解を得て、私に質問したわけです。この変換方程式を解くために、しばらく黙り込んでいたという次第だったのです。

確かにMさんは勘違いしていましたが、私には頭脳の明晰さが印象に残りました。Sさんの間違い方にもMさんの勘違いに通じるものがあります。Sさんの作文には読んでいて引き込まれるような飛躍があります。「ねぼった」と聞いて、Sさんの今後が楽しみになってきました。

さりげなくVサイン

6月7日(火)

久しぶりに、一番下のレベルの授業に入りました。このレベルに入ると、今、受け持っている初級クラスの学生たちも結構話が通じるなと思ってしまいます。1つ上のレベルと比べても、かなり意識して語彙や文法を選ばないと話が通じなくなります。ましていわんや、ダジャレなど通じるわけもありません。

例えば、助詞の「に」を強調する時、私は空いている手でVサインをします。もちろん、数字の「2」に引っ掛けてのことです。これが、下から2番目のレベルだったら、頭が柔軟な学生には通じますが、一番下のレベルでは、全く通じません。みんな、こちらの話を聞き取るので精一杯で、指のほうになど目が行かないのです。たとえVサインに気がついたとしても、「2」が「に」と結び付くことはなく、そのままスルーされます。

おそらく、学生たちは「2」を母語で意識するため、音に結びつけるとしても“two”とか“er”とかにしかならず、この先生は何でVサインなんかしているんだろうとなってしまうのでしょう。「2」と「に」が結び付くということは、学生が日本語で考え始めているということでもあるのです。ですから、「電車『に』傘を忘れました」と言いながら出したVサインに学生が反応したということは、教師としては大いに喜ぶべきことなのです。

「ここ『に』お金を入れます」のVサインを見逃していた学生たちも、来学期の今頃は目ざとく見つけて笑ってくれることでしょう。下のクラスで持った学生を上のクラスでまた受け持つと、こんな形で学生の成長が実感できることもあります。心の中で密かに手をたたき、授業が終わってからにんまり笑うのです。

イライラの原因

6月2日(木)

午後、中間テストの成績が振るわなかったKさんが、テストで間違えたところを直しに来ました。これを通して今学期前半の復習をしてもらうのですが、Kさんの病根はさらに深いのです。

漢字や読解の選択問題などはすぐ直せますが、文法の短文を作る問題や、読解記述問題となると、こちらが求めている答えにまで簡単にはたどり着けません。頭の中ではわかっているのですが、それを解答用紙上に書き表すとなると、Kさんにとってはイライラの元以外の何物でもありません。指先が明らかにイラついているのが、よくわかりました。もどかしいんだろうなと思いました。

Kさんは初級の入口の文法が不完全で、文は時制すら行き当たりばったりです。「熱があります『、』病院へ行きました」でみたいに句点で文をつなげたり、動詞の活用がいい加減だったりと、読み手泣かせの文を書きます。要するに、自分の考えを表現する術を持っていないのです。

また、読解は、本文をそのまんま引用して答えにしようとします。本文を要約して答えるとか、必要なところをできるだけ短く抜き出すとか、そういうことができません。だから、解答欄が1行なのに2行も3行も書こうとします。答えに核心部分は含まれているのですが、ごっそり引用したらたまたまそのなかに入っていたのか、答えの肝がわかっているのかがさっぱりわからず、採点者としては点を与えることはできません。

Kさんの国では、本文そのままで、できるだけ長く書くのがいい答えなのだそうです。でも、日本は違います。簡にして要を得た答えが評価されます。私たちもそういうつもりで問題を作り、採点しますから、Kさんの答えは点になりません。

初級文法を使って短文作成をすること、解答作成の考え方を根本的に改めることを指示しました。もう6月ですから、早く手を打たないと今学期が終わってしまいます。

焦ったってしょうがないよ

5月31日(火)

中間テスト後の学生面接が始まっています。

Jさんは今学期の新入生で、大学進学希望です。国で日本語を勉強してきたので、初級クラスに入れられたことが不本意なようです。今のレベルではEJUの勉強よりも日本語の基礎固めを優先していますから、Jさんにとっては優しく感じているのでしょう。でも、中間テストの文法は何とか合格点という程度であり、間違えた問題を再度問い直してみても、正しい答えは返ってきませんでした。授業をちゃんと聞かなかったからだということは明らかです。

Jさんは「みんなの日本語」はすでに3回勉強していると言いました。初めてのときは、先生に教えてもらいながら多少はまじめに勉強したことでしょう。でも、2回目は漫然と読んでいただけだったに違いありません。だから、復習になんかなりません。3回目の今回は、ただ教科書を広げているだけで、心は全然別のところへ飛んでいるようですから、新たな発見などあるはずがありません。おそらく、最初の理解から大して深まっていないのです。それゆえ、3回も勉強したのにやっと合格点しか取れないのです。

Jさんは、断片的には、難しい文法やあっと思わせられるような単語を使います。でも、それは断片的に過ぎません。背伸びして勉強した文法や単語を使ってはみますが、そしてそれが当を得ていることもありますが、私から見れば一発屋です。そういった言葉をコンスタントに使いこなし、まとまった内容の事柄が話せたら、Jさんが自己評価しているであろうレベルだと認めてあげてもいいのですが、それには程遠いですね。

一番怖いのは、Jさんの日本語力がこのまま固まってしまうことです。EJUの4択問題はテクニックでどうにかなったとしても、それ以降の力をどうやって付けさせていけばいいでしょうか。テクニックで入ったって、進学してから苦労するだけなのにね。

和訳を理解する

5月30日(月)

先週の中ほどに、Cさんから卒業論文の和訳を添削してほしいと頼まれました。上級の学生のつもりで引き受けてしまったのですが、2行読んで安請け合いしたことを後悔しました。Cさんは今学期入学した初級の学生でした。

Cさんは今年何とか大学院に進学しようと思っています。意欲的な学生で、だからこそ、卒論の和訳の添削を依頼してきたわけです。しかし、いかんせん初級の実力で卒論ほどの内容の文章を和訳しようというのは、たとえそれが要約であっても、無理な話です。私だって、自分の専門に近い分野なら、断片的な内容把握から全体像の見当をつけることもできますが、Cさんの研究は私から見るとはるか彼方の分野ですから、想像力の働かせようもありません。1人で頭を抱えていても仕事は進みませんから、Cさんから説明してもらいながら、和訳を完成させていくことにしました。

ということでCさんを呼びましたが、Cさんの日本語力で現状の和訳以上の日本語を紡ぎ出すのは至難の業です。でも、本当に大学院に進学するのなら、どこかの段階で自分の研究内容を目の前に座っている大学院の先生に説明する必要に迫られます。Cさん自身は卒業研究について完璧に理解していたとしても、それを誰かにわかりやすく話して、相手にも理解させるとなると、一筋縄ではいきません。しかも、Cさんにとっての外国語である日本語でそれをするのです。たやすくできるわけがありません。

Cさんの話を聞き、こういう意味かと私が言ったことがCさんの言わんとしていることに近いと、Cさんはまさに愁眉を開くといった明るい顔つきになります。まだまだ遠いと、唇をかみながら思考をめぐらし、別の角度からの説明を試みます。とても時間のかかる作業ですが、Cさんにとっても、自分の言葉で自分の考えを伝え理解させるいい訓練になったのではないでしょうか。

日本語力が付いてくれば、今の和訳がいかに拙いものかわかってくるでしょう。そのころには日本語での卒論の説明も堂に入ったものになっているに違いありません。そのころには朗報が聞けるかな…。

違和感の根っこ

4月19日(火)

私が担当している初級クラスは、今、「~てもらいます/くれます/あげます」を勉強しています。中級以降の彼らの成長具合を知っている私は、ついつい力を入れすぎてしまいます。先週の名詞修飾もこちらの意欲が上滑り気味だったのに、無反省にまた力んでしまいました。

このレベルは、名詞修飾やあげもらいをはじめとして、日本語の文を理解したり、自分の主張や心情を理解してもらったりという、日本語による情報の送受信を行う上できわめて重要な文法事項が目白押しです。こういう濃密な文法は、教わるほうにも教えるほうにも厳しいものがあります。ここがいい加減だと、中級以降の読解が全く振るわず、発話がいつまで経ってもガイジンっぽいままなのです。ガイジンっぽくても、少しでもこちらが内容をつかめればいいのですが、文字は日本語でも文章は日本語ではないなんていう作文を読まされるのは、こりごりです。

でも、テストで点が取れさえすればいいと考えている学生は、相手を理解したりさせたりというコミュニケーションをとかくおろそかにしがちです。会話タスクの最中に漢字の宿題をやろうとしたDさんに、入試の面接練習の時に及んで真っ青になった諸先輩の顔がダブってきました。

日本人は、「~てもらいます/くれます/あげます」に包まれて生活していますから、あるべきところにそれがないと、違和感を覚えるものです。その違和感こそがガイジンっぽさの根源であり、日本語教師はこれを根絶するべく、授業中に声を張り上げたり宿題を厳しく取り立てたりしているのです。

とんだ災難

4月13日(水)

私は、毎年この学期は初級を担当することが多いのですが、今年は初級のほかに、週1日ですが、最上級クラスも担当しています。水曜日が、その「週1日」です。

最上級クラスといっても、先学期までとはメンバーががらりと変わってしまい、知っている顔はごくわずかです。しかも、今学期は上のレベルに入る新入生も多く、このクラスにも何名かの新入生が在籍しています。そういうわけで、初回の授業は学生の力を瀬踏みしながらどこまで掘り下げるかを決めていきました。

新入生に対しては、KCPの最上級クラスってこんな程度だったのかってなめられてはいけませんから、君たちは確かによくできるかもしれないけれども、まだまだ勉強すべきことはたくさんあるんだよという、KCPの底力を見せなければなりません。普通の日本人ならみんな知っているけど日本語を勉強している人たちは知らない表現を取り上げるとか、短い文を書かせてその文の直すべきところをスパッと指摘するとか、そんなことをして学生が増上慢にならないようにします。

今日は、教材に「災難」という言葉が出てきましたから、「とんだ災難でしたね」という表現を知っているかと聞いてみました。東日本大震災みたいなひどい目にあったときに使うなんていう答えが出てきました。雨の日に道を歩いていたら車に泥を跳ね上げられて服を汚された人に対して言うんだよっていう例を出したら、みんな思いっきりうなずいていました。

瞬間芸みたいなこけおどしだけじゃいけません。進学してから利いてくる日本語「力」を付ける授業をしていかなければなりません。来週は何をネタにしましょうか…。