Monthly Archives: 12月 2016

おのおの方、討ち入りでござる

12月14日(水)

12月14日といえば、日本人にとっては、赤穂浪士の討ち入りの日です。毎週水曜日は超級クラスで“自由演技”の日ですから、この討ち入りに関する記事をネタに、日本文化を語りました。

学生たちが最も興味を示したのは、切腹の場面です。本当に腹に刀を突っ込むのは、それこそ死ぬほど痛いので、腹に刀を当てた瞬間か、それ以前に刀を手に取るために上体を前方に倒して首を伸ばした瞬間に、介錯人がスパッと首をはねるのだと説明すると、残酷だと言いつつも、それなりに納得していました。

同時に、自分たちの国でかつて行われていた死刑について語り始めました。両手両足と首を馬につないでそれぞれ別の方向に走らせるとか、馬だと苦しみは瞬間的だけど、牛だと歩みが遅いのでたっぷり苦しむとか、妙に盛り上がってしまいました。

大石内蔵助が吉良上野介にとどめを刺し、その首をはねて水で洗い、布で包んだ吉良の首を高く掲げて本所の吉良邸から泉岳寺まで行進し、浅野内匠頭の墓前に供えたと言うと、日本人はふだんは親切だけど実は残酷だとまた大合唱。私の話し方が悪かったのか、忠臣蔵の最も感動的な場面が学生たちには最もおぞましい場面に映ってしまったようです。

学生たちと同じ世代の日本の若者は、どの程度忠臣蔵について知っているのでしょうか。たとえ今は知らなくても、毎年毎年、この時期になると、手を変え品を変え忠臣蔵の映画やドラマが上映されたり放送されたりします。小説やらマンガやらの題材にされることも多いです。ゲームもあるそうです。さらには彼らの上の世代から影響を受けることも大でしょう。それゆえ彼らが“若者”から脱するころには、もう一つ下の世代に忠臣蔵を語る存在となっているに違いありません。

これが、日本の伝統文化なのです。

推理は人なり

12月13日(火)

選択授業の「小説を読む」の時間に、ミステリを読ませ、犯人探しをさせました。犯人がわかる部分を切り取った課題の小説を与えると、学生たちは水を打ったように静かになり、真剣に推理力を働かせている様子でした。推理がまとまった学生は原稿用紙に向かい、自分の推理を書き表し始めました。

時間が来て、学生たちから原稿用紙を受け取り、ざっと見てみると、犯行の方法も含めて犯人をピタリと当てた学生も何名かいました。逆に、完全にギブアップという学生も何名か。

Sさんは、文法や語彙の間違いはありますが、作者が提示した材料をすべて使い切り、犯人を見つけ出しました。そこに至るまでの推理も、作者が考えたとおりでした。授業では抜けているところがありそうな感じなのですが、なかなか緻密な頭脳を持っていることがわかりました。

これに対し、Gさんは、ふだんの授業では論理的な考えを披露することが多いのですが、この犯人探しはからっきしダメでした。かろうじて解読可能な、メモというに等しい内容を書きつけた原稿用紙を提出しました。想像力が欠けているはずはないのですが、この手の文章の読み解きは不得手なのでしょうか。

Oさんは、犯人は当てましたが、推理というよりはカンのたまもののようです。Sさんに比べると、論理の荒さが目立ちました。KさんとLさんは、読むのにも推理するのにも飽きてしまったようでした。出てきた原稿用紙も、やる気が感じられないものでした。

文は人なりといいますが、推理の要素が加わると、さらに複雑な様相を示し始めます。来学期も同じ授業を受け持つとしたら、この点を掘り下げてみたいです。

拍子抜け

12月12日(月)

先週、Rさんは毎日のように面接練習をしていました。答えの内容はもちろんのこと、答えるときの態度や話し方まで、微に入り細を穿つ指導を受けて、昨日のH大学の試験に臨みました。ところが、面接は世間話のような気楽な会話で終わってしまったそうです。最後の最後だったから面接官も疲れていたのかもしれないとRさんは言っていましたが、だから楽でよかったというより、少々肩透かしを食らった感じがあるようでした。

面接は、入学者選抜の方法として、ペーパーテストより優れているとされることが多いです。しかし、面接官が、たとえ複数でも、何時間もかけて多くの学生を面接するとなると、最後にはRさんの面接のように、果たして入試の面接がこれでいいのだろうかという内容になってしまうこともあるでしょう。かといって、志願者をいくつものグループに分けて、それぞれ違う先生が面接を担当するとなると、グループ間で面接評価の公平性を担保するのが難しくなります。

私は留学生入試に面接試験があることに反対はしません。勉学の意志やペーパーテストでは測れないその学生の実力を是非見てもらいたいと思っています。単に面接のテクニックではなく、真にその大学に入りたいという気持ちを高めること、落ちた時に心の底から悔しいと思えるくらいにその大学にあこがれること、そういったことに関しては、KCPは十二分に指導してきています。だから、そういう気持ちを受け止めてもらえないような面接には、失望を禁じえません。

もしかすると、大学側はそれまでのテストでRさんの合格を決めており、面接は形だけだったのかもしれません。だとしても、RさんにH大学に対する思いを語らせてほしかったです。語るべきことをすべて語った末に合格するのと、どうでもいい話をしていつの間にか受かってしまうのとでは、入学後にその学校に対して抱く気持ちに違いがあるように思いますが、どんなものなんでしょう。受かってしまえばすべてよしなのかな…。

立ち直れ

12月9日(金)

Hさんは去年4月の入学以来、無遅刻無欠席を続けていました。しかし、おととい、遅刻をして出席率100%の記録が途切れてしまいました。いろいろと悩み事が多く、夜遅くまで考えていたら、寝過ごしてしまったそうです。一度100%を割った出席率は、二度と100%に戻ることはありません。Hさん自身もそれがわかっているだけに「何とかなりませんか」と聞いてきましたが、こればかりはどうにかできるものではありません。

私が注目したのは、記録が途切れた翌日、すなわち昨日のHさんです。Hさんは今までと変わることなく登校し、平常心そのもので授業を受けていました。本人には言いませんでしたが、内心、「よく来た。偉い」と叫んでしました。今日も9時には教室に入り、熱心に授業を受けていたようです。もし、おとといの遅刻をきっかけにしてばらばらと休み始めたら、その程度の人間だったのです。1回の遅刻や病欠をきっかけに、ごく普通の学生どころか、出席状況に関して札付きのお尋ね者へと転落していった学生を、山ほど見てきました。

“人間は失敗する葦である”とも言われるくらいですから、おとといのHさんの遅刻を厳しく責め立てるのは間違っています。しかし、失敗に負けてしまってはいけません。失敗したからといって、それまでの高い志や目標を捨ててしまうようでは、成長は望めません。失敗を乗り越えてこそ、人物が一回り大きくなるのです。

Hさんにしてみれば、3月の卒業が近づき、皆勤賞が見えてきたところだったでしょうから、無念さもひとしおだったでしょう。でも、ここで再び立ち上がり、欠席1回だけで踏みとどまったら、皆勤賞を取るよりも、むしろ大きなものを手にすることになるのではないかと思います。Hさんならこれを糧にさらに伸びていけると信じています。

自分を見極める

12月8日(金)

受験講座のあと、Dさんが思いつめたような表情で私のところへ来ました。物理の基礎的な問題集を紹介してくれとのことでした。手ごろな問題集を紹介してあげると、「先生、私の頭は理科系ですか」と更なる質問。要するに、始まったばかりの物理の受験講座が難しく感じられ、自分の進路はこのままでいいのだろうかと、不安に駆られているのです。

Dさんは11月のEJUを受けました。結果はまだ出ていませんが、手応えはあまりよくなかったようです。たとえ本当に結果がよくなくても、今回は中級で受けていますから、上級で受けることになる来年6月のEJUは、伸びが期待できます。しかし、その次の来年11月は、6月よりよくなる保証はありません。今までの学生たちの実績から考えて、大きな上積みは望めないでしょう。つまり、6月までにどこまで実力が伸ばせるかが勝負です。

そう考えた時、Dさんが理系の頭脳を持っているかどうかは非常に大きな問題です。理系的なカンが働かない学生は、いくら勉強しても平均点ちょっと上くらいで頭打ちになります。残酷な話ですが、今まで理系に挑んだ学生たちの成績が、それを雄弁に物語っています。

Dさんは謙虚な人だと思います。Tさん、Sさん、Kさん、…自分の実力を過大評価して沈んでいった学生たちは、こちらがどんなに口を酸っぱくして注意しようが、基礎から勉強しなおそうとせず、やたら難しい問題ばかりやって、答を見ただけでわかったつもりになっていました。基礎部分を補強してから前進しようとしているDさんは、Tさんたちの成績は上回るでしょう。でも、理系の頭を持っていなかったら、その上は厳しいかもしれません。

Dさんは自分に足りないものを見極める目を持っています。そしてそれを補うために自分で動こうとする行動力も持ち合わせています。この2つがあれば、どんな道に進もうとも、きっと生き抜いていけると信じています。

寿司屋

12月7日(水)

初級レベルでは、何月何日に授業をどこまで進めるという進度表がかなりがっちり作られています。クラスによって進み方に差があっては、そのレベル全体でテストをすることすらままなりません。学期が終わった時点でクラスごとに習ったことが違っていたら、次の学期のクラス編成ができません。そもそも、授業の品質ということを考えたら、どのクラスも同じように進んでしかるべきです。

中級から上級でも同じような傾向が見られます。進度表どおりに進むのが大原則ですから、いろいろと紆余曲折はあっても、毎学期ゴールは同じです。また、教材が決まっていますから、学期によってクラスによって着地点がばらばらということはありません。

しかし、上級を突き抜けて超級になると、進度表はありますが、担当教師の自由裁量に任されている内容もあります。超級の場合、クラスごとにレベルが違い、また、進路に合わせてクラスを作ることもあり、毎学期判で押したような進度表というわけにはいきません。時事ネタや日本事情的な内容となると、いつ何を取り上げるかは教師が決めることが多いです。

今学期の私は、水曜日の超級クラスが自由演技の日です。教材が決まっていると楽なことは楽ですが、忙しさにかまけて通り一遍の授業に陥ってしまうこともあります。教材も授業内容もすべて自分で決めなければならないとなると、確かに大変ですが、その分頭を使うので、達成感みたいなものが味わえます。

今日は安倍首相の真珠湾訪問についての社説2編を取り上げました。訪問の意義やその背景などはもちろんのこと、新聞社による真珠湾訪問の捕らえ方の違いについてもディスカッションしました。「新聞によって記事の内容に違いがあってもいいんですか」という質問も出ました。事実は正確に伝えなければならないけれども、その事実の解釈は新聞社によって違っていてもかまわないと答えると、とても不思議そうな顔をしていました。

今日はいいネタが得られましたが、来週はどうなっていることでしょう。いいネタの心配をするなんて、寿司屋さんみたいですね。

むなしい青春

12月6日(火)

Cさんは面接試験を控え、気になることがあります。志望理由や将来の計画は話せるのですが、自己アピールのネタがないのです。先輩から「高校時代にどんなことをしてきたかという質問があった」と聞かされ、急に心配になったようです。

高校時代の話を聞くと、Cさんは勉強以外のことは、全くと言っていいほど何もしていないとのことです。クラブ活動もしなければクラス委員を務めたこともなく、ましていわんやボランティア活動など夢のまた夢です。家の中でも手伝いをしたことなどなく、最近よく言われる“小皇帝”だったようです。

Cさんは、確かに勉強はできます。国籍を問わず周りの友だちと仲良くしていけます。しかし、面接で語れるほどの華々しい経歴や経験はありません。いろいろな国の友達ができたのはKCPに入ってからだから、国の高校時代の“空白”は埋められないのです。

思い切って、ひたすら勉強に励んだ高校時代だったと答えたらどうかと言ってみましたが、Cさんはそれでは満足できないようでした。でも、逆さに振っても華々しい過去は出てこないのですから、過去を変えることはできない以上、どうしてもそういうことを語りたかったら、ウソをつくほかありません。しかし、それはCさんにとって不本意なことですし、良心が大いにとがめます。

国にいたころのCさんをつぶさに探れば、きっと面接のネタになることが出てくると思います。心を真っ白にして今までの人生の棚卸しをすれば、何か語れることがあるはずです。勉強以外の思い出がない青春なんて、むなしいじゃありませんか。あるいは、Cさんの青春は、日本へ来てKCPに入学してから始まったのかもしれません。そういうことを語るのも、面接の質問に対する立派な答えになると思うのですが、Cさん、いかがでしょう。

書くのはちょっと‥‥

12月5日(月)

Hさんは、面接のように話して答える問題や、EJUのように記号で答える問題は強いのですが、文で答える問題となると、さっぱり振るいません。読解の筆答問題は言うに及ばず、語彙や文法の書き換え問題や短文作成ですら、四苦八苦したあげく、ほとんど何も書けずに終わってしまうのが常です。

Hさんの話は内容も伴っているし、論理的だし、日本語を使いこなしている感じがします。その話をそのまま文字化すればいいじゃないかと思ってしまうのですが、本人にとってはそれが至難の業なのです。Hさんの場合、話し言葉と書き言葉の間には、容易に越え難い高い壁がそびえ立っているようです。

誰しも、多かれ少なかれ、話し言葉と書き言葉とにはギャップがあるものです。弁が立つ人と筆が立つ人とがいます。口下手だけど達意の文章を書く人もいれば、Hさんのように鋭い舌鋒と鈍い筆鋒をあわせ持つ人もいます。私が見るに、Hさんは文を書くことに対する苦手意識が強すぎるか、自分の文章が評価されることに恐れを抱きすぎているところが感じられます。

志望校は独自試験に筆記試験がないところを選び、面接では好感触を得ているようです。でも、このままでは、たとえ受かって入学したとしても、大学ではレポートをさんざん書かせられるので、進級も覚束ないでしょう。ですから、卒業までわずかな期間ですが、KCPにいるうちに文章を書くことに対する苦手意識を少しでもなくしてもらいたいです。多少手荒なことをしてでも、Hさんに文章を書かせるようにして鍛えることが、Hさんへの真のはなむけになるのではと考えています。

実るほど

12月3日(土)

この夏に天皇陛下がご自身の退位について語られて以来、天皇の生前退位をめぐる議論が活発に行われています。生前退位を認めるか否かは、有識者会議でも両論が拮抗し、どちらとも決めかねる状況が続いています。

今朝の新聞に、憲法第2条が皇位継承は皇室典範が定める通りにせよと規定しており、その皇室典範は生前退位を認めていないのだから、特例法による退位は憲法違反だという意見が載っていました。天皇陛下のお気持ちに沿うには、皇室典範改正以外の方法はないというのが結論でした。とてもすっきりしたわかりやすい意見で、これを読んで私もそうすべきだと思いました。

正直に言うと、平成の世になっても、私の中では「天皇」といえば昭和天皇でした。今上天皇にはどことなく頼りなさげな印象を抱いていました。それが変わったのが、東日本大震災後に被災地を訪れ、津波に襲われて瓦礫の山となってしまった町の跡に頭を下げて犠牲者の冥福をお祈りになっている今上天皇の写真を見たときです。曲げた腰の角度、頭を垂れた視線、指先までピシッと伸びた体側の腕、そういった姿勢から、心の底から国民を思っておいでなのだなということがひしひしと伝わってきました。国民の悲しみや苦しみを少しでも引き受け、国民の幸せと国の平和を願い続けようとなさっているお姿に、私は心を打たれました。

その今上天皇の願いをかなえて差し上げるのが、われわれ国民の責務だと思っていました。その道筋を明確に示してくれたのが、今朝の記事でした。たとえ退位されても、陛下の国民に対するお気持ちは変わらないでしょう。そのお気持ちに応えるべく努力していくことが、この国の発展につながるのです。

日本にカジノを作ることが、被災地に頭を下げられた陛下のお心に報いることになるとは、到底思えないのですが…。

楽しいですか

12月2日(金)

金曜日に受け持っている上級クラスは、中間テストの各科目の点数が惜しいところで不合格というように、勉強面ではやや物足りないところがあります。合格点ぐらいは軽く取れるだろうと思っていた学生が、ふたを開けてみると、あと1問正解だったら合格点だったのになんていう成績になってしまったケースが多かったです。詰めが甘いのかもしれません。

だから(と言えるほどの因果関係があるかどうかわかりませんが)、授業で普通に文法や読解などをやっていると、学生たちはおとなしくなってしまいます。ところが、脱線するととたんに元気になります。先日も、読解のテキストに出てきた「お受験」と「受験」の違いに触れると、それまで静かだった教室が、とたんににぎやかになりました。文法の例文でも、本筋でないところで盛り上がることがしばしばです。

そういう学生たちがさらに元気になるのが会話練習の時間です。今学期はいろいろなテーマについて1分程度でスピーチをすることが中心課題です。流暢に話す学生もいれば、ぎこちない語り口の学生もいます。でも、このクラスの学生たちが偉いのは、クラスメートのスピーチを真剣に聴いているところです。教師が聞くと、文法やら語彙やら発音やら、何かといちゃもんを付けたくなる話し方なのですが、学生たちは、友だちの気持ちや考えやしたことや、少しでも深く友だちを知ろうとする姿勢が見て取れます。読解や文法の時のような、生きてるのか死んでるのかわからないような顔色とは全然違います。

こういう聴衆を前にすると、話し手も興が乗るのでしょう。みんな指名されると喜々としてスピーチを始めます。学生たちが「自分の話が通じた」という実感を持つに至れば、この授業は成功だと言えます。たとえ、期末も読解や文法や漢字などが不合格でも、学生たちは何かを得たんじゃないでしょうか。

ちょっと楽天的過ぎる見方かな…。