恥ずかしがるな

7月25日(月)

来週の月曜日がスピーチコンテストですから、どのクラスも応援練習に熱が入ります。私の午前のクラスも午後のクラスも、授業時間を少し割いて応援練習をしました。

応援の大筋は決まっているのですが、それを実際に体を動かしてやってみるとなると、なかなか当初思い描いたようにはなりません。その原因は明らかであって、みんな恥ずかしがって小さな演技しかしないからです。クラスみんなで思いっきり体を動かしてステージ上であばれれば、大きく立派に見えます。それに対して、縮こまった動きしかしなかったら、何をしているかわからない、かえって恥ずかしいことになってしまいます。しかし、この単純な原理が、学生にはわからないんですねえ。

暗い顔から飛び切りの明るい顔になると、クラスみんなで決めたのに、それができたのはわずかに3名ほど。もう少し基準を甘くしても、せいぜいその倍程度でしょうか。他の学生は、暗い顔をしなければならないところでも照れ笑いしてしまい、暗から明への劇的な変化にならないのです。それをみんなで見て、恥ずかしがりながらする演技は本当に恥ずかしいということをわからせようと思ったのですが、私の思いは通じませんでした。

そのくせ、私が見本の演技をすると、「先生、すごい」とか言いながら、拍手をしやがるのです。私に拍手するんじゃなくて、自分が拍手を取れるようになれって、声を大にして言いたいです。

あと4日間、猛特訓です。

ポケモンGO

7月23日(土)

ポケモンGOが配信され始め、学生の中にも昨日1日でだいぶ集めたつわものがいたそうです。今のところ校内にポケモンが湧き出しているところはないようで、電車の中やら歌舞伎町やらで拾ってきているみたいです。

すでに、ポケモンを集めるために不法侵入したり、危険を冒そうとしたり、宗教的冒涜につながりかねない行為をしようとしたりという例が報じられています。大学の中には、学内でのポケモン狩りを一切禁止するというところもあるようです。KCPも、学生の振る舞いいかんでは、何か考えなければならないかもしれません。

その一方で、これをすると電池の消耗が激しいので、その方面の商品が売れ始めているとも言われています。アベノミクスをもじってポケモノミクスなることばも発見しました。人々が電車やクルマで街に出て、ポケモンを集めながら、買い物したりおいしいものを食べたりちょっと映画でも見たりということをすれば、多少は景気もよくなるでしょう。

でも、同時に、これっていつまでもつんだろうとも思います。飽きられたら終わりですから、次から次へと何かが進化していくのでしょう。あんまり進化しなかったたまごっちが在庫の山になったのは、20年ぐらい前の話でしょうか。下手をすると、年末にはポケモンGOって何だったっけってなことになっているかもしれません。

さて、6月のEJUの結果が届きました。いつもより結果のはがきを取りに来る学生が少なかったです。まさか、ポケモン狩りに熱中して忘れちゃってるんじゃないでしょうね。

義務感

7月22日(金)

選択授業で、中級のドラマの聴解をしました。「ドラマの聴解」という選択科目名を見て、ドラマが「見られる」と思った学生が多かったようですが、この授業では映像は見せません。音声だけのソースのストーリーを追い、内容を把握し、さらにはそこに散りばめられている日本人の発想や習癖や生活など、もう一歩踏み込んで文化的背景までつかみ取ってもらおうという欲張りな授業です。

日本人なら鼻歌交じりで聞いていても十分理解できますが、中級の学生にとっては、1回聞いただけでは表面的な理解にとどまります。登場人物の名前を聞き取るのも一苦労だし、擬音語擬態語はとりあえずなかったことにして、聞き取れた単語をつなぎ合わせて一番太い幹をよじ登っていくので精一杯です。変な単語が耳についてしまったら、いつの間にか小枝の先にぶら下がっていたなんていうこともありえます。

教師は、幹のありかやそれがどちらに向かっているかをしっかり指示することはもちろん、枝についた葉や花や実にも目を向けさせていかなければなりません。JLPTの聴解問題などを解くだけでは得られるのとは違った種類の力をつけさせていくことが最大の仕事です。学生にとって、わざわざ日本へ来て、日本人の教師から教えを受ける意義は、こういうところにこそあるはずです。

学生が独習できることを教師が仰々しく取り上げても、学生はあまりありがたくないでしょう。多くの学生は、日本人の日本語教師に日本語を習うことに意義があると考えてこの学校に入ってきたのでしょうから、私たちはそれに応える義務があります。安くない授業料を受けとている側としての、サービスの提供義務です。私は、いつもそういうことを考えながら、授業を組み立てています。

低度

7月21日(木)

私のクラスのTさんは、今学期、初級の同じレベルをもう一度勉強することになった学生です。全然できないわけではなく、Tさんの最大の問題は、よく休むことです。よく休むから受けなかったテストもあり、それが足を引っ張って進級できる成績が取れなかったのです。

Tさんも、新入生だった先学期、自分では思ってもみなかった低いレベルに入れられ、勉強がつまらなくなってしまいました。授業中に新しい発見ができなかったのです。じゃあレベル判定が間違っていたのかというと、決してそんなことはありません。Tさんの話し方を聞いていると、今のレベルで勉強する内容の抜け落ちが随所にあります。つまり、授業中に新しい発見はいくらでもできたのに、自分の手で自分の耳目をふさいでしまったため、全く進歩ができなかったのです。

残念ながら、今学期のTさんもその点は変わっていないようです。自分はできると根拠もなく信じているので、正確さが欠けたままです。指摘してもケアレスミスだからと軽く流されてしまいます。でも、Tさんの実力はそのケアができない「低度」なのです。日本語教師なら理解できますが、Tさんの志望校の面接官は、Tさんの日本語でTさんの熱き思いを感じ取ることはできないでしょう。

そして、今日も14分の遅刻。授業中もみんなが口を開いて練習しているのに、やる気のなさそうな視線を下に向けているだけ。この調子が続けば、来学期も同じレベルかもしれません。

Tさんもやっぱり一度痛い目に遭わないと、自分の実力を正面から見つめることはしないのでしょう。

巨泉さんのセミリタイア

7月20日(水)

大橋巨泉さんが12日に亡くなっていたと報じられました。私たちの世代は、巨泉さんの11PMを見て大人になったつもりに浸ったものです。もちろん、その本当の意味を理解していたわけではなく、背伸びしてようやく上っ面だけわかったような気になっていたに過ぎないのですが。11PMという番組の文化的な奥深さを知るのは、それからかなり時間が経ってからです。

その後、クイズダービーや世界まるごとHowマッチでも楽しませてもらいました。これらの番組を毎週のように見ていたおかげで、自分の世界も興味の範囲も広がったと思います。今思えば、私にとっては娯楽番組というよりは教養番組だったと思います。

そういう人気番組を抱えている最中に、巨泉さんはセミリタイアと称して、テレビの世界から引っ込んでしまいました。そして、趣味の世界で生きるようになったのです。世界各地に、それぞれ1年で最も気候のいい時期を過ごすなんていう生活も始めました。就職してまだ数年しか経っていませんでしたが、働くことの意味を強く考えさせられました。また、人生とは誰のため、何のためにあるのかということについても考え込んだ記憶があります。

この、巨泉さんがセミリタイアした年が、ちょうど今の私の年なのです。セミリタイアして好きなことをして暮らしていけるだけの経済的基盤を築いていたこともスゴイの一言ですが、その後の人生を楽しむプランも持てていたことにも注目したいです。私もセミリタイヤしたいのはやまやまですが、巨泉さんのような経済的基盤もなければ、人生を楽しむ趣味もたくさん持っているわけではありません。

日本語について考えることも、自然科学の疑問を深く追究することも、私の趣味の一部分です。だから、今は趣味を仕事にしていると言えないことはありません。でも、私の中では趣味はあくまでも楽しむものであり、それをお金稼ぎの手段に使うというのは、邪道のような気がしてなりません。日がな一日、マッサージチェアに座ってマッサージされながら、文法やことばの意味を考え続けられたら、どんなに幸せだろうと思っています。

根くらべ

7月19日(火)

今週から受験講座が始まりました。今までは毎学期学生に時間割や教室を通知するのに苦労していたのですが、今学期は新システムの時間割通知メール機能のおかげで、大きなトラブルもなく通知が済みました。先学期も同じ機能を使ったのですが、使う側もメールを受け取る学生の側も準備が不十分で、その機能を遺憾なく発揮するところには至りませんでした。

1学期間新システムを使ってみて、学生側に、学校からの連絡は学校からもらったメールアドレスに届くんだという意識が定着しました。そのメールを見ないと不利な扱いを受けることもある、見ると有用な情報が得られるから毎日必ずチェックしようという方向に動きました。それゆえ、今回もしかるべき時刻にしかるべき教室にしかるべき学生が集まりました。

しかし、スタートがよくても竜頭蛇尾ではいけません。最後まで続けさせることが大切です。そのためには、受講する学生の力に合わせた授業をすることも大切ですが、それだけでは学生の力は伸びません。難しいことを承知で、背伸びもさせなければいけません。

また、時には、引導を渡すこともしなければなりません。好きこそ物の上手なれと言いますが、受験に関しては好きなだけでは済みません。もう大人なのですから、単なる憧れで将来像を描くことは許されません。自分の能力と冷静に向き合って将来を決めることが求められます。受験講座の教師は、こういう役目も負うことがあるのです。

さて、今学期の学生はどこまでついてきてくれるでしょうか。彼らとも力くらべ、根くらべが始まります。

光栄

7月15日(金)

各クラスともスピーチコンテストのクラス内予選が終わり、クラス代表が決定し、クラス全員に伝えられました。私のクラスはXさんです。予選の段階でみんながXさんだろうなと思っていたらしく、「クラスの代表は…」と言いかけた時点で、Xさんに向かって拍手が起きました。私に名前を呼び上げられたXさんは、ちょっとはにかむように下を向きながらも、光栄そうな表情をしていました。

クラス代表となった学生は、だいたいXさんと同じような反応を示します。何だかんだと言いながらも、やっぱり誇らしい気持ちは隠せません。クラス代表になるくらいの学生は選ばれる喜びを知っており、みんなの期待に応えることで自分自身を伸ばしていけるタイプの人たちなのです。

クラス代表になった学生は、これからスピーチコンテスト本番までの間、発表のしかたをがっちり訓練されます。授業が終わってから、毎日のようにスピーチの練習をします。原稿を全部覚え、規定の時間内に発表できるように、そして、聞き手の印象に残るような話し方やパフォーマンスも身に付けていきます。

それ以外の学生は、応援に命をかけます。1人の代表をクラスみんなで盛り上げるにはどうすればいいか、全員で知恵を絞ります。音楽や映像プロデュースなどを勉強してきたまたは勉強しようと思っている学生たちは、この応援が自分の作品だともいえます。本番のステージ上で恥ずかしがらずに堂々と演技ができるようになるまで、これまた日々練習を重ねていきます。

これからスピーチコンテストまでの半月ほどの間、学校中に普段とは違った努力があふれます。

不安です

7月14日(木)

初級クラスでスピーチコンテストの原稿を書かせました。上級に比べ使える語彙が少ないからなのか、似たような文章が多かったです。やはり、自分の身の回りのことが中心になり、「日本の生活は大変ですがおもしろいです」とか、「頑張って日本語を勉強します」とかという結論が続出でした。せいぜい、自国と日本の文化を比べてあれが違いとかここが違うとかいう程度です。

学生たちは一番若くても18歳ぐらいですから、もっともっと深い思索があってしかるべきです。しかし、学び始めたばかりの外国語である日本語でその深さを読み手に感じさせることは不可能です。だから、自分の手が届く範囲で妥協しようというのでしょう。

それはやむをえないことではありますが、クラスのすべての学生に妥協されちゃったら、教師としては立つ瀬がありません。2人ぐらいは無理を承知で分不相応の難しいテーマに取り組んでもらいたい気持ちもあります。みんながみんな、書ける範囲でとなってしまうと、チェックは楽でいいのですが、拍子抜けの感は免れません。

書ける範囲といっても、学生にしたら精一杯背伸びしているのかもしれません。現に、Cさんなどは途中まで書いた文章を何度も私に見せて、これで合っているかと聞いてきました。習ってはいるけれども、自分の考えを表す文章で使うのは、おそらく、初めてだったのでしょうから、不安でたまらなかったのだと思います。

私のクラスに限らず、どこも同じような話だったみたいです。スピーチコンテスト本番までの間に、スピーカーをどこまで鍛え上げるかが、勝負の分かれ目です。

何のために進学?

7月13日(水)

Yさんは私立のG大学と国立のM大学を志望校として挙げています。どちらの大学も、就職しやすいと言われている商学部とか経済学部とかではない学部を狙っています。卒業したら日本で就職しようと思っていますが、就職を優先して学部を選ぶのはいやだという気持ちも強いのです。

Yさんが考えている学部は、学問的にはおもしろいと思います。そういう学部で自分の興味の赴くままに勉強し、充実したキャンパスライフを送りたいというのが、Yさんの近未来の構想です。「大学に残るつもりがなかったら、そんな学問より就職後に役に立つ勉強のほうが、結局Yさん自身のためになるよ」ってアドバイスも可能です。でも、Yさんにはそんなアドバイスはしたくなくなりました。

Yさんは、就職のためではなく、学問を通して自分の青春を楽しむために大学に進学しようと考えているのです。それだったら、本気で大学生活を味わい尽くせば、それが就職のときのアピールポイントになるのではないでしょうか。普通の留学生とは一味も二味も違う留学生活を通して得たものを企業の面接官の前に示せれば、きっと面接官の心を動かせるはずです。また、何ごとにも前向きなYさんなら、口先だけではなく、本当にそういう4年間を送ることでしょう。そう考えると、そう考えると、Yさんの計画がなおさら輝いてきました。

確かにG大学やM大学は簡単に入れる大学ではありませんが、入試面接でこういう考えを強く訴えれば、十分に勝ち目があります。Yさんの背中を強く押しました。

紫雲

7月12日(火)

昨日超級クラスの学生に書かせたスピーチコンテストの原稿を読みました。初級だったら日々の暮らしや自分の出身地の紹介で立派なスピーチと言えなくもありません。しかし、超級なら社会的な事象に対する自分の意見や、独自の視点から物事に切り込む姿勢が必要です。「日本人は親切です」でもいいですが、その結論に至るまでの過程において、ステレオタイプではない新鮮な議論を展開してほしいのです。

もちろん、これはたやすいことではなく、これができる人は限られていると思います。数多の在校生の中には、1人ぐらいは天性の鑑識眼が備わっている人もいるでしょう。そういう具眼の士ではなくても、社会を自分の皮膚で感じ取り、感じたことを材料にして考え続ける訓練をしていれば、他人とは一味違う香りを醸し出すことができるのではないでしょうか。

残念ながら、そういう風格の漂ってくる文章はありませんでした。私のクラスの学生は大半が大学進学希望で、高校出たてぐらいの人が多いですから、そこまで求めるのは酷かもしれません。しかし、明らかに何かのパクリだと思われる文章を書いていた学生がいたことには、いささかがっかりさせられました。

いや、オリジナリティがないわけではありません。あるんですが、オリジナルの部分はパクった部分よりも、文章的にも内容的にも数段落ちなので、言ってみれば、マイナスのオリジナリティでしかありません。そういう学生は、日本語の勉強はしているけれども、日本語の勉強しかしていないのでしょう。彼らが進もうとしている「大学」とは、日本語で学問を成すところです。将来に暗雲が立ちこめています。

私たちは、毎年こういう学生を鍛えて、曲がりなりにも大学の授業に耐えられるレベルにまで引き上げて、進学先に送り出しています。「進学先で困らないような日本語力」と言っていますが、その中には日本語でこうした思考ができることも含まれています。卒業式までと考えると、あと8か月ほどで彼らの目の前の雲を紫雲か斗雲にしなければなりません…。