Monthly Archives: 11月 2016

注意する

11月16日(水)

試験監督をしていて、学生の答案用紙を見るともなく見ていると、間違った答えが目に飛び込んでくることがよくあります。授業中にやる練習問題ならここが間違っていると教えてあげられますけれども、中間・期末テストともなると、そういうことはできません。でも、間違っているのを知っていながら指摘しないのは、非人情なような気がしてなりません。また、教師は間違いを指摘したがる本能を持っていますから、それを押さえ込まれるとなると、精神衛生上もよくないような気がします。

「はい、あと5分です。もう一度、自分の答えをよーく見てください。残念な答えの学生が、たくさんいます」という形で、教室全体に注意するのが、試験監督としてできる精一杯のことです。こういう注意をすると、最初から答えを見直す学生は半分ぐらいでしょうか。残りの学生は、見直してもわからない問題はわからないと開き直っているのかもしれません。机を枕に熟睡の学生すらいます。

テストの公平性を保つためには、テスト中に間違いを指摘するなどもってのほかです。見直しを促すセリフだって、ボーダーラインのあっち側かもしれません。全然理解できていなさそうな答えならどうということはないのですが、濁点とか小さい「っ」とかの有無となると、これで何点減点されるんだろうと、思わず考えてしまいます。題意を明らかに取り違えているのなんかを見ると、問題文の該当箇所を指さしたくなります。そういう間違いを犯すのも実力のうちだと割り切ることも必要です。

さて、中間テストが終わりました。私が作った問題に、学生たちはどんな答えを書いてきたでしょうか…。

6年計画

11月15日(火)

11月のEJUが終わり、来年6月のEJUを目指す受験講座が始まっています。私が担当している理科は、今日が初日。今日は具体的な勉強ではなく、理科系の進学とはどういう意味かというところからオリエンテーションをしました。学生たちは一応こういう勉強がしたいという目標を持っていますが、大学に入って終わりではなく、その後、大学院進学、就職というところまでのスコープで、自分の目標を再点検してもらいたいのです。

私が大学に進学したのは、もう40年近くも昔のことです。大学で4年勉強したら就職するものだと漠然と考えていましたが、入学してみると、大学院2年も含めた、実質的に6年制大学でした。今ではこの傾向がさらに進んでいると思います。特に、学生たちが狙っている上位校ではこの傾向が強いでしょう。それゆえ、志望校を選ぶ時点から6年計画のつもりで将来を見通してもらいたいと思っています。

これから先の日本経済や世界経済の予測は私の手に余りますが、理系の採用がより一層修士中心になっていくことは間違いありません。修士レベルの知識と科学的思考力と研究推進力が、就職の段階での標準装備になっていることでしょう。極端なことをいえば、かつての高卒が大卒に、大卒が修士修了になりつつあるのです。これは留学生だから基準が緩くなるとか厳しくなるとかという問題ではありません。留学生も日本人も、同じ土俵、同じスタートラインで勝負です。

要は、大学や大学院でどんな勉強・研究にどれだけ真剣に取り組んだかです。胸を張ってそれを語ることができれば、おのずと未来は開けてきます。これから始まるEJUの勉強に、そういう覚悟で取り組んでもらいたいというメッセージを送りました。

会話テスト

11月14日(月)

初級クラスの会話テストを担当しました。数人のグループに分かれて、与えられたシチュエーションに合った会話を作り、みんなでそれをするというものです。会話は今までに習った文法で作りますから、翻訳ソフトかなんかで調べた妙に難しい文法を使うと、かえって減点になってしまいます。会話テストですから、発音やイントネーションには、採点の際にかなりのウェートが置かれます。

授業が始まる数分前に教室に入ると、すでにほとんどの学生が来ていて、グループに分かれて自分たちが作った会話の練習をしていました。セリフは全部暗記することになっていますから、学生たちは何回も何回も練習していました。

本番になると、練習の甲斐があり、どのグループも実にきれいな発音・イントネーションで会話を進めました。外国人特有のアクセントなどがすっかり消えていたわけではありませんが、学生たちが演じた場面において実際に同じことを話しても十分に通じると思いました。「んです」が未習のレベルですから、発話そのものに若干の不自然さがあるのは否めませんでしたが、日本語教師ではない普通の日本人にも理解してもらえる話し方でした。

ところが、会話テストを始める時点で欠席者が2名いました。1名は来ませんでしたから、その学生のセリフを別のグループの学生に読んでもらいました。もう1名は大幅遅刻でテストにはかろうじて間に合いましたが、練習が全然できていませんでした。この代読と大幅遅刻の2名は、全然ダメでしたね。代読した学生は、自分のグループのセリフは完璧に近い形で話せたのですが、ピンチヒッターでは空振りの三球三振といったところでした。こういう落差が、初級の力の限界なのだなと思いました。

私の超級クラスの学生がこのクラスで会話テストを受けたら、果たして満点が取れるでしょうか。あんまりしゃべらない学生は、初級の学生に負けるような気がしました。

暴走相次ぐ

11月12日(土)

立川市の病院で、80代の女性が運転する車が暴走し、2人が意識不明の重体になったそうです。昨日は80代の男性が運転する車がコンビニに突っ込み、おとといはやはり80代男性が病院で車を暴走させています。先月は横浜で80代男性の軽トラが登校中の小学生の列に突っ込み、男の子が亡くなりました。

90代になるとさすがに運転にはたえなくなり、免許を返納したり失効するに任せたりしているのでしょう。70代はまだ頭も体もしっかりしていますから、こうした事故は少ないのでしょう。80代前半は、体の自由が利き、一人で何でもできる健康寿命が尽きるころです。そこから先、平均寿命までは、介護が必要になったり寝たきりになったりするわけです。事故を起こした80代の方々は、もしかすると、健康寿命が尽きていたのかもしれません。

だから80代から免許を取り上げろというのでは、問題は解決しません。問題の本質は、日本がクルマ社会になってしまったところにあります。クルマがあれば便利に暮らせても、なければ不便なことこの上ない地域が日本中いたるところに生まれているのです。駅前の商店街が廃れ、ロードサイドのショッピングモールが人を集めています。一部の都市ではコンパクトシティーと称して、郊外に広がってしまった街を再び中心部に集めようとしています。しかし、この試みがうまくいったという話は寡聞にして知りません。

現在の街の構造は、団塊の世代やそのもう少し上の世代が若くて元気な頃に形作られました。その世代が年老いてきた今、自分たち自身が築き上げた街をもてあまし始めている構図が浮かび上がってきています。これをどうにかしない限り、“老人暴走族”は現れ続けるでしょう。

学生たちの故国も、遠からずこんな社会になることでしょう。日本に留学するのなら、こんなことにも是非関心を示してもらいたいものです。

プレゼン

11月11日(金)

K先生がお休みだったため、いつもの金曜日と違うクラスに入りました。そのクラスでは毎週金曜日に、決められた学生がプレゼンテーションをします。自分が訴えたいこと、よく知っていること、考えてもらいたいこと、時事問題など、なんでもありです。パワーポイントを使って、クラスメートの前で発表します。

今日はLさんの番でした。美大志望だけあって、資格による認識についての話で、パワポのスライドも、私なんかが作るのよりもずっと見栄えがするものでした。聞いている学生たちはみんな引き付けられ、Lさんの話にしきりにうなずいていました。普段気付かないものの見方を教えられ、私も感心させられました。

今は、大学でも大学院でも、先生の話を一方的に聞くばかりの授業ではなく、自分で調べて発表するという形の授業が多くなっています。KCPは、学生を志望校に入れればそれで終わりとは思っていません。進学してから困らないだけの日本語力を付けさせて送り出すというのが私たちの考え方ですから、パワポを使ってのプレゼントいう授業もはずせません。少なくとも、超級まで上り詰めたら、これぐらいできて当然だと思っています。

プレゼンテーションは、単に話すだけではなく、聞き手に何がしかの影響を与えることが求められます。そのためには論理性も必要ですし、聞き手の心に届くように訴え方も工夫しなければなりません。話の核をいかに聞き手に伝えるか、それがポイントです。パワポの文字を大きくしたり赤くしたり、アニメーションを使ったりすればいいという問題ではありません。友達の発表を見て、聞いて、自分でも発表のしかたに知恵を絞り、実地に試してみることで、こうしたことを身に付けていきます。

来週以降もこの授業は続きます。他の学生のも聞いてみたいですが、来週はいつものクラスです…。

ざる

11月10日(木)

今朝、新聞を取りにマンションの玄関にある郵便受けまで行ったら、思わずブルッと来ました。外は風が強そうでした。東京は昨日木枯らし1号が吹きましたから、そろそろコートとマフラーを出さなきゃと思っていました。新聞を取って部屋に戻ると、すぐにクローゼットからコートを引っ張り出し、衣装ケースからマフラーを取り出しました。

コートにマフラーといういでたちで駅まで早足で歩いても、全く暑苦しさはありませんでした。ただ、マフラーに残っていた防虫剤がどんどん首に突き刺さり、ちくちくしてたまりませんでした。ですから、マフラーは駅に着いたらすぐ取ってしまいました。ゆうべのうちに出しておけばよかったと思いました。でも、天気予報によると、明日は寒いそうですが、週末は小春日和のようです。

日曜日はEJUです。お天気はいいみたいです。学生たちは追い込みに余念がありませんが、あと3日という段階に及んだら、あれこれお店を広げるよりも、今までやった問題で間違えたところをきっちり復習して、同じタイプの問題で再び間違いを犯さないようにすることのほうが重要です。

受験生はとかく新しいことを覚えて点数を増やそうとします。でも、そうしてもいいのは試験の半月前まででしょう。その後は、引っかかった問題をきちんと分析して、次に同系統の問題が出たら確実に点が取れるようにしておくことのほうが、いい結果につながると思います。失点を減らすこともまた、好成績への道です。80点を90点にするには、20点の失点を半分の10点にしなければならないのです。

しかし、留学生は日本人の高校生に比べて、失点を減らすという考えが薄いように感じます。アドベンチャー精神に富んでいるからこそ留学したのでしょうから、失点を減らすよりも新たな分野を開拓して点数を増やそうと考えるのかもしれません。それでも、失点を防がないと、ざるで水を汲むようなものだと思うのですが…。

波紋? 津波?

11月9日(水)

米国次期大統領がトランプさんに決まりました。“もしトラ”などと面白半分に万が一っぽく語られていたことが現実となりました。

午前の超級クラスでは、授業が終わると、学生たちは一斉にスマホを取り出し、開票状況をチェック。同時に為替レートも見るあたり、さすが留学生と思う一方で、この選挙結果が世界に与える影響の大きさを実感しました。

今年は、もしかすると、後世から民主主義のターニングポイントだったと指摘されるとしになるかもしれません。6月の英国のEU離脱は、Bregretなる新語とともに、後悔の文脈で語られることが多くなりました。英国民は真剣に投票したのでしょうが、その選択を英国民自身が後悔しているのだとすれば、民主主義に内在する、あるいは民主主義が本質として抱えている欠陥が露呈したと言えるのではないでしょうか。

トランプさんに投票した人たちが何を期待しているかはわかりませんが、「壁」の実現を求めているのであれば、それは自国の持つ影響力の大きさを忘れ去った身勝手な選択と言わざるを得ません。英国でも同様な考えに基づいた選択がなされたとしたら、これこそが民主主義の抱える本質的な問題点だと思います。

これらは他人事ではありません。日本が憲法を改正するとしたら、世界中から同じ目で見られるでしょう。その選択が、場合によっては、太平洋に大西洋にインド洋に、波紋どころか津波を巻き起こすことだってあり得ます。視野狭窄に陥った状態で自分たちにとってのベストチョイスを考えると、世界の笑いものになるかもしれません。国民みんなが大所高所に立って判断してこそ、世界中から尊敬される国になるのです。

これからしばらくは、超級の教材に事欠かないような気がします。

祝開店‥‥

11月8日(火)

遅いお昼をどこで食べようかと学校の近くを歩いていたら、見慣れぬつけ麺屋さんを見つけました。店の前に花かごが出ていたので近づいてよく見ると、11月7日オープンと書いてあるではありませんか。昨日開店とあれば、ちょっと味見をしてみなければと入ってみました。オープン記念割引とか、割引じゃなくても粗品ぐらいもらえるかなという、少々よこしまな気持ちもありました。期待に反して、割引も粗品もなく、味に特徴があるわけでもなく、がっかりもしませんでしたが、これからひいきにしようという気も起こりませんでした。

この店舗は、夏ごろまでは沖縄そばの店が入っていました。私も2、3回入ったことがあります。ちょっと毛色の違った味で、私の舌には合いました。汗をかきながらではなく、この味で体を温めたくなるくらいの季節にまた入りたいと思っていたら、いつの間にか消えてしまいました。内装をいくらかやり直して、つけ麺屋になったようです。

私はピークの時間帯をはずして食事に出ますから、その沖縄そば屋がどのくらい繁盛していたか、正確にはわかりません。食べたかったセットメニューが売り切れだったことがありますから、まるっきりはやっていなかったわけではないのだろうと思います。私の好みの味ではありましたが、この近辺の人たちの舌と心をつかむには至らず、閉店に追い込まれてしまったのでしょう。

全国的に見ると、新宿なんて人が多くてどんな店でもやっていけそうな土地に思われるかもしれませんが、実はお店の競争と消長が激しいところです。生き残るには特徴と固定客と経営者の胆力が必要です。沖縄そばの店は何が足りなかったのでしょう。あるいは、ここを足がかりにして、どこかで大きな店を開いているのでしょうか。

今度のつけ麺屋さんには、これといった特徴が感じられなかったのですが、どうなるのでしょう。チャーシューは大きく軟らかくよく味がしみていて、つけ麺でおなかも膨れましたが、ちょっぴり心配になりました。

暗記で終わらせずに

11月7日(月)

EJUまで1週間を切り、学生たちは追い込みにかかっています。理系志望のCさんも、この1年間の集大成とばかりに、問題を解いたりそれに必要な知識を確認したりしています。ところが、気になることが1つあります。Cさんは公式を覚えることに力を注ぎすぎている点です。どうしてその公式が出てきたかよりも、その公式を丸覚えすることに命をかけているきらいがあります。

確かに、公式を覚えれば、そして正しく使えれば、物理などは問題が早く解けます。しかし、その公式がどういう背景でどういう道筋で導き出されたかを知らなければ、物理を真に理解したことになりません。また、テストでは点が取れて進学もできるかもしれませんが、進学後に大いに苦労することでしょう。苦労するくらいならまだしも、考えることを強く要求される大学の授業についていけなくなるおそれもあります。

公式を覚え、それを使って問題を解くことは、極端なことを言えば反射神経の世界です。しかし、科学の研究は実験と考察の積み重ね、それを論理的にまとめ上げる作業です。新たな公式を生み出す仕事かもしれません。これは、反射神経とは対極にある世界です。ひらめきは必要ですが、それは暗記した公式からは得られません。

そうはいっても、この期に及んで「この公式の裏側にはこんな理論があって…」などと悠長なことはやっていられません。Cさんに公式の暗記をさせてしまった一因は、これまで理科を見てきた私にあります。忸怩たる思いでCさんの公式暗記を黙認するほかありません。

公式とは先人の研究がもたらした珠玉の一滴です。それを暗記という短期記憶にとどめるのではなく、それにまつわる諸々のことどもを知り、長期記憶として頭に刻み込み、それを土台に新しい科学を切り開いていってもらいたいです。これこそが、科学の発展に貢献することなのです。

これも日本文化

11月5日(土)

火曜日の選択授業で学生に書かせた作文の採点をしました。作文と言っても、ある小説を読んでその書評を書くというものですから、EJUの記述試験や小論文対策のクラスとはずいぶん毛色が違います。

さて、その書評ですが、つまらないとか平凡だとかという否定的な意見が大半を占めました。そんなどうしようもない小説を読ませたのかと言えば、もちろん違います。ネタバレになるのであまり詳しくは書けませんが、学生たちは“夏の甲子園”という要素に気がついていませんから、教材の小説が表している主人公の心の美しさが見えてこなかったのです。

この授業は超級の学生向けで、日本語や日本文化に通じていると自他共に認める学生たちが集まっています。それでも、日本人だったら絶対に見逃すはずのない、必ず何らかの反応を示す“夏の甲子園”をほとんどスルーしてしまっています。私もこの“夏の甲子園”があるからこそ、この小説は光っていると思い、学生たちに読んでその輝きを感じてもらおうと思ったのです。

彼らと同じ年頃の日本人の高校生や大学生は20回近く夏の甲子園を肌で感じてきています。これに対して、このクラスの学生たちが日本で暮らしてきた期間は、長くて2年弱です。夏の甲子園はせいぜい2回。初級で入学した学生は、去年の夏はわけのわからぬうちに過ぎ去ってしまったことでしょう。2年目の今年の夏にしたって、学生たちにとっては夏の甲子園など他人事であり、注意も感心も払わなかったことでしょう。

夏の甲子園は、もはや日本の伝統文化と言ってもいいでしょう。秋でも冬でも、あの熱狂を思い浮かべることは容易にできます。選手1人1人の一挙手一投足に一喜一憂し、感動を覚えたことは誰にでもあるはずです。しかし、学生たちにはその感覚がなかったということなのです。学生たちが気付いていない日本の文化、日本人のメンタリティーだとも言えます。

来週の火曜日に、この作文を返します。そのときにどんなことを伝えようか、明日と明後日で考えます。