火消し

12月8日(金)

日本は世界有数の地震国です。しかし、KCPの学生の多くは、地震が少ない国や地域から来ています。「地震が起きたら机の下に入れ」という知識は持っているでしょうが、知識だけでは、実際に地震が発生したとき、ただおろおろするしかできなかったということにもなりかねません。そこで、地震発生という想定で訓練を行いました。

KCPの建物は3.11以降の最新の建築基準で造られていますから、地震でどうにかなることはないでしょう。しかし、学生が住んでいる建物はどうだかわかりません。また、地震には耐えられても、火事が発生したら話は全く別です。煙を吸わないようにハンカチで口を覆いながら外に逃げる訓練もしました。

今回は、それに加えて消火器を使った消火訓練もしました。消防署の方の説明を聞いてから、クラスの代表の学生が消火器で火を消しました。火災を発見したら、大きな声で「火事だ」と叫び、周りの人に知らせるようにという指導を受けた学生たちは、思ったより大きな声でちゃんと「火事だ」と叫んでから、消火器を手にして火元へ前進。近づき過ぎないようにという指示も守り、数メートル離れた所から教わったとおりに消火器を操作して、見事に火を消していました。

教室から非常階段を使って校庭まで避難するときはにやけている学生もいましたが、消防の方の巧みな話術もあり、校庭ではみんな訓練に集中していました。実際に火を消した学生も、それを見ていた学生も、消火器の扱い方は印象に残ったことでしょう。もちろん、机の下に身を隠したり、消火器を使ったりする機会など訪れないに越したことはありません。でも、備えあれば憂いなしです。有意義な留学生活を送るには、自分自身で自分自身を守る術も身に付けておくべきです。

鋭く

12月7日(木)

「〇〇についてどう思いますか」とクラス全体に聞いたとき反応してくれる学生、指名したときに必ず何か答えてくれる学生は、教師にとってありがたいものです。その学生の答えを軸にして、授業を進めていけます。

Yさんはそんな学生の1人です。頭の回転も速く、うがった物の見方もできます。クラスメートもYさんには一目置いていて、Yさんが話す時はみんな耳を澄まして聞いています。

ところが、小論文となると、Yさんはとたんに歯切れが悪くなります。舌鋒鋭く切り込んでいたのが、筆鋒は鈍ってしまい、毎回焦点のぼやけた文章になってしまいます。Yさんの文章には「~とおもう」「~かもしれない」のような、断定を避ける表現が多すぎるのです。誤解が生じないようにというつもりなのでしょうが、1つのことを述べるのに留保条件が多く、文を読んでもYさんの言わんとしていることが頭にスッと入ってきません。

文だと証拠に残ますから、間違ったことを書かないようにと腕が縮こまっているような気がしてなりません。口から発する言葉では言い切ることができても、文だとそこまでの勇気が湧かないのでしょう。でも、これでは小論文の読み手の心には響きません。

それから、抜け落ちがないようにと、たかだか数百字の文章に何でも盛り込もうとするきらいがあります。すると、課題に対して広く浅く全体をなでるような小論文になり、散漫な印象しか残せません。どれか1つに絞って突っ込んで書いてくれたほうが、読み手からすると議論のしがいがあります。

要するに八方美人過ぎるのです。自分の手で自分の角を矯めて、個性を殺しています。向こう傷を覚悟の上で相手に切り込んでいく気概がほしいです。クラスにいるときの尖ったYさんのほうが、らしさがあふれているんですよ。

ちょうど32

12月6日(水)

この前の日曜日にうちの近くのスーパーでみかんを買ってPASMOで支払い、翌月曜日朝に駅の改札を通ると、オ-トチャージされて残高がちょうど4832円になりました。こりゃあ週のはじめから縁起のいいことだと思い、何だか足取りも軽くなりました。その後、PASMOでは支払いをしていませんから、残高は今も4832円のままで、改札口を通るたびに表示される4832円を見てはニンマリしています。

午後、受験講座の準備をしていると、K先生から「先生、ちょうど32歳って言いますか」と質問されました。友人のお子さんの結婚式で、新郎の父親が挨拶でこう言ったそうです。「え、ちょうど32歳?」「ええ。ちょうど30歳じゃなくて、新郎が32歳ならわかるんですが31歳だし、どうしてかっていうと、32は2の5乗だからって言うんですよ。そういうの、ちょうどなんですか」「あーあ、気持ちはわかりますね。整数の5乗っていうと、3の5乗すら243で、日常生活には縁遠い数になっちゃうんですよ。でも32はわれわれの手が届く範囲の5乗の数なんで、ちょっと特別なんです。だから、ちょうどって言いたくなる心理は理解できますよ」

その方は、大学院で数学を勉強していたそうです。私も理系人間の端くれとして、「ちょうど32」という高揚感は共感できます。その方も、“3:14”なんていうデジタルの時刻を見ると、ちょっとうれしくなるんじゃないかな。また、1999年11月19日には思うところがあったに違いありません。なんたって、西暦の年月日を構成する数字が全て奇数というのは、この日の次が3111年1月1日と、千年以上も未来なのですから。

こういうことを踏まえて、私はなぜ「ちょうど4832円」と思ったのでしょう。そう、“4×8=32(しはさんじゅうに)”です。小川洋子の「博士の愛した数式」を読むと、この辺の機微がもっともっとよくわかると思います。ついでに言うと、私の誕生日は「2の3乗月3の3乗日」です。プレゼントをお待ちしております。

よかったね

12月5日(火)

MさんがK大学に受かりました。Mさんは先々学期私のクラスの学生で、少し頭の固いところもありますが、まじめでがんばり屋で、積極的に授業に参加していました。そういう努力が実って、本当によかったと思っています。

先々学期はまだ初級でしたが、私のところへよく進学相談に来ていました。最初は志望校として超有名校ばかり挙げていました。正直に言って、そういう学校には手が届きそうにありませんでした。大学で勉強したいことはとてもはっきりしていましたから、そういう方面ならK大学でもMさんが最初に挙げた大学と遜色のないレベルだと、薦めておきました。それを覚えていて、出願し、受かったようです。

もちろん、しっかり者のMさんのことですから、私の言葉だけで志望校にK大学を加えたわけではないでしょう。自分でも調べてみて、納得した上で出願したに違いありません。だから、合格を知らせに来たときの顔が心の底から喜んでいたのです。

Mさんの勝因は、初級の頃から自分の進路を真剣に考えてきたことです。そして、謙虚な姿勢で教師の言葉に耳を傾けたことです。自分の耳に心地よい返事が聞けるまで身の回りの教師に相談し続ける学生は、ただ単に背中を押してもらいたいだけで、自分の考えを変えるつもりはありません。そういう学生は、玉砕して、地獄に落ちて、こんなはずじゃなかったとショックを受けて、ようやく目が覚めるのです。その時に転進可能なら進学もできますが、クリティカルポイントを過ぎていたら、不本意な結末を甘んじて受けなければなりません。

真に力のある学生やMさんのように聞く耳を持っている学生から吉報が聞こえてきている一方で、まだ夢を追い続けている危険なにおいのする学生もいます。クリティカルポイントが、近づきつつあります。

聞く耳持たず

12月4日(月)

「あなたは、今月、1回も遅刻欠席しないで100%来ない限り、来学期の登録はノーチャンスですよ」と言われたらどう受け取りますか。私だったら来学期はもうこの学校で勉強できないものと思い、次の算段を始めるでしょう。しかし、Aさんは違うようです。100%来ればチャンスはあると思って、希望に満ちた顔つきをしています。でも、これまでのAさんの行状を見る限り、期末テストまで遅刻すらせずにというのはどう考えても無理です。それが1度たりともできたためしがなかったから、今こんなことを言われているのです。そんな学生が急に出席率100%になるとは、到底思えません。

この楽天的性格というか、能天気さというか、自分の都合のいいほうに解釈してしまう根性、私なんか少し見習いたいくらいですが、学生が持っているとなると、生活指導も何も効果半減です。もちろん、可能性が低くても果敢に挑む気持ちも必要な時があります。そういう行為が歴史を動かしたことだってあります。桶狭間における信長がその例でしょう。しかし、信長はそれ以降、可能性の低い勝負はしていません。浅井と朝倉に挟み撃ちされた時は一目散に逃げています。ところがAさんのような学生たちは、自分の過去から何も学ばずに、ただ闇雲に自分の理想に近い情報のみを信じて、そちらに進もうとします。そこには冷静な判断などありません。「信ずるものは救われる」という悲壮感もありません。悪い状況を見ようとしない逃げ、その場しのぎの言い訳や行動でどうにかしようという課題の先送りなど、問題の本質に迫ろうという気持ちが全く感じられません。

こういう学生に会うと、こいつは痛い目にあってもらうしかないと思って、指導する気も失せてきます。そして、実際に痛い目にあってこちらへ来ると、「先生がきちんと指導してくれなかったからこんなひどいことになったんじゃないか」と言わんばかりの顔をする学生もいます。そして、やっぱりこちらの指導を受け入れず、事態は悪化の一途をたどるのです。

進路指導などでこういう場面が続くのが、毎年の年末です。そういう火種を抱えている学生が、私のクラスに1人、2人…。

万里の波濤

12月2日(土)

毎週火曜日に選択授業の小論文がありますが、火曜日と水曜日は受験講座が目一杯入っており、木金は、今週は面接が入っておりという具合で、読むのが土曜日になってしまいました。

私のクラスは、大学進学希望の学生が主力ですが、大学院進学希望の学生も数名います。この大学院進学組が、結構光る文章を書くんですねえ。4年間長く鍛えられたのは伊達じゃないなと感じさせられます。

どこが違うかというと、大学進学組は自分の視点が課題の中に埋没しがちなのに対して、大学院進学組は課題を俯瞰してもう一回り大きな世界での位置づけを書くことができる点です。読んでみて、採点者の立場を忘れて感心させられたことも、一再ならずあります。大学院進学組は、独自の視点が確立しているのに対して、大学進学組はそこまで至らず、ありきたりの捕らえ方にとどまっていることが多いようです。

大学院進学組が確固たる自分の視座を持つに至ったのは、大学4年間のうちにそういう訓練を受けてきたからではないでしょうか。これは、彼らが国の大学でしっかり勉強してきた証左でもあります。

大学院での研究計画書を作成するには、独自の物の見方が要求されます。同時に、それを日本語で表現できなければ意味がありません。KCP入学以来、もしかすると国にいたときから、この両者を追求してきたのです。また、彼らの年代で年が4つ違うことは、相当大きな成熟度の差をもたらします。それが文章の上に表れていると考えることもできます。

大学進学組も、進学したら日本人の大学1年生に比べると1~2歳、あるいはもっと年上です。しかも、幾多の困難を克服して入学しているのです。今度は、彼らが日本人の同級生に差をつける番です。

400ppm

12月1日(金)

英国で18世紀後半に始まった産業革命は、人類が化石燃料を大量に消費するきっかけともなりました。化石燃料を燃やすと二酸化炭素が大気中に放出されます。それ以前は約280ppmで一定していた大気中の二酸化炭素濃度はじわじわ上がりだし、50年ほど昔の私の子ども時代には300ppmになりました。理科の時間に、地球温暖化とは関係なく(その頃、そんな言葉はありませんでした)純粋に知識として、そう教えられました。今は、どの教科書も400ppmと記し、温暖化効果ガスをどうにかしなければという流れになっています。この大気中の二酸化濃度変化の曲線を外挿すると、学生たちが私の年齢になることには500ppmになっているかもしれません。

このところ、なぜかこんな話を立て続けに数回しました。すると、何だか歴史の生き証人みたいな気分になるんですねえ。100ppmの変化を日々少しずつ実感してきたわけではありませんが、50年分をまとめて振り返ると、霜柱が少なくなったなあとかって感じることもあります。ベルリンの壁のあっち側とこっち側の話をしても、学生たちにとっては歴史の教科書の写真でしか知らない物を見て触って越えてきているんですから、半分英雄みたいなものです。社会人になる直前、無理してヨーロッパ旅行をし、度胸を決めて東ベルリンに踏み出したおかげで、今の私が形作られているのです。

今上天皇退位の日が2019年4月30日と決まりました。翌日から新しい元号となり、私は昭和平成そして新元号の三代を生き抜くことになります。それから10年もすると、私が明治生まれの祖父母を見ていたような目で、新元号時代生まれの子供から見られるようになるのでしょう。それまでに、祖父母たちのように威厳を備えた人物になっていたいなあと思います。

月末の憂鬱

11月30日(木)

月末になると、その月の出席不良者リストが送られてきます。受験のための欠席は除いてありますから、病気で休んだか、単なるサボリだったかということになります。親類が急逝したので一時帰国中という学生もいましたが、親類家族の不幸がこんなにたくさんあったら、KCPはかなり呪われていることになります。

私が以前受け持った学生の名前もそこここにありました。こういう形での再会はしたくありませんでしたね。「また休みやがって」と思わずつぶやいてしまう学生もいれば、「先学期はあんなにいい学生だったのに」と、何が起きたか心配になる学生もいました。

現在の私のクラスの学生も数名リストアップされていました。今月ずっとマスクをしていた学生、受験準備と称して休んでいる学生、大学合格後完全に気が緩んでいる学生、どういう角度から見ても休む理由などなさそうな学生、いろいろです。ビザさえあえば何をしてもかまわないと思っているのでしょうか。

このうち、本人が受験準備だと信じて休んでいる学生は、確信犯ですから悪いことをしているとは思っていません。自分の本務は入試に受かることで、日本語学校生というのは世を忍ぶ仮の姿と割り切っているようにも見えます。こういう学生への指導や注意は、のれんに腕押しです。話し合った翌日、何事もなかったかのように休みます。そんな時、コミュニケーションの成り立たない無力感をじわーんと味わわせられます。

学校が楽しくてしょうがない、学校ほど居心地のいい場所はないという声もあちこちで聞きます。そういう学生の期待に応えられるように、楽しくてためになる授業作りに力を注いでいます。そんな授業をもってしても、上述の学生たちの心を動かすには至りません。

そして、確信犯が学校へ来るのは、にっちもさっちも行かなくなったときです。お前みたいに都合のいいときだけ学校を頼ろうとするやつなんかに差し伸べる手はない……と言い切ってやりたいですが、言えないんですよね。

合格後

11月29日(水)

CさんはR大学の大学院に合格しています。来年3月の卒業まで、俗に言う“優雅な老後”を送ることができる身分です。しかし、大学院に進学してからのことを考え、KCP在学中に簿記の試験を受けることにして、インターネットの講義を聞きながら勉強しています。日本語の聴解の訓練にもなるし、一石二鳥というわけです。また、大学院には英語で行われる講義もあるらしく、それに備えて英語の勉強もしています。

Cさんは、専門的な話は専門用語を使いますからほぼ理解できます。しかし、テレビ番組のような日常語をたくさん使う会話は半分ぐらいしか聞き取れません。ですから、日常語を聞いたり話したりする訓練をしたいと、授業にリクエストを出してきました。

というように、Cさんは合格が決まった後も自分の能力を伸ばそうと、帰宅してから何時間も勉強しています。こんな貪欲に勉強していけば、大学院に入ってからも何でも吸収し、Cさん自身の人生の基礎を盤石なものとする有意義な留学となるでしょう。

AさんとKさんはT大学に合格しました。合格が決まってから、欠席が増えました。出席しても、授業中、いまひとつピリッとしません。テストの成績を見る限り、学校以外であまり勉強しているようには思えません。目標を達成してホッとしたと言えば実にその通りですが、こんな生活をあと4か月も続けたら、大学の授業が始まっても勉強モードにならないんじゃないかなあ。去年のWさんみたいに、どこかに受かった後も卒業式直前まで受験しまくる必要はありませんが、たがが緩みすぎると元に戻らなくなってしまいます。

Cさんは自分で動くエンジンを持っているのに対し、AさんとKさんは自分で目標を作れないのかもしれません。大学院進学の学生は学問のコツをつかんでいるのに対し、大学進学の学生は学問の厳しさを知らないとも言えます。そういう意味で、まだこどもなのでしょう。

ラップ

11月28日(火)

上級の学生でも、教科書を読ませるととんでもなく下手くそなのがいます。漢字が読めないだけならまだしも、ひらがなも漢字も一字一字拾い読みする学生には、初級に戻れと言いたくなります。いや、初級の学生だってもう少し文の意味の切れ目を意識して読みますから、初級クラスに入っても平均以下になっちゃうんじゃないかな。

読解の時間にJさんを指名したら、途切れ途切れのラップみたいな読み方をされて、テキストがなかったら文意が全くわからなかったでしょう。あんな読み方では、Jさん自身も文章の意味がつかめているとは思えません。中間テストの成績を調べてみると、案の定不合格。入学以来1年半、順調に進級を重ねてきましたが、“暗記の日本語”でどうにかこうにかテストだけはクリアしてきたに過ぎないのかもしれません。大学院進学が決まっていますが、よくこんなので合格できたものだと感心してしまいます。

最近、発話や音読など、声を出すことを軽視している学生が目立ってきたと感じています。EJU、小論文、英語、理系の数学など、声を出さなくてもすむテストをどうにかこなせば合格できちゃう面があります。また、留学生(の家庭)が豊かになったせいか1人あたりの出願校が増え、どこの大学も受験生が多くなり、面接も決まりきったことを聞くだけで、定番の質問の答えを暗記しておけばぼろを出さずに済むことも多いようです。面接練習でがっちり訓練して臨んだSさんが、肩透かしを食らったようなことを言っていました。だから、声を出す練習よりもペーパーテストをそつなくこなすトレーニングを重ねたほうが効果的だと思ったとしても、不思議はありません。

Lさん、Kさん、Gさんなど、Jさんと同じにおいのする学生はいくらでもいます。1人1人はばかじゃありません。でも、コミュニケーションという観点からは、不安が一杯です。みんな、まだ行き先が決まっていません…。