Category Archives: 社会

美を感じる

2月3日(土)

今週の作文の課題は少々高尚で、自分が好きな芸術作品や建築物などに込められた美意識について書くというものでした。読解テキストに関連した内容ですから、授業で意見を出したり話し合ったりしています。そのため、全く1行も書けない学生はいませんでした。いや、それどころか、こちらが思っていたよりもよく書けていました。もっとも、いつもどうしようもない作文を書いてくるメンバーが欠席だったという面もありますが。

Kさんは水墨画について書いてきました。黒と白の世界である水墨画を見ていると雑念が消え去って、心に平和が訪れると言います。授業中のKさんからは想像しがたいのですが、休みの日には水墨画を鑑賞しに美術館などを巡っているのかもしれません。

Lさんは中国の紫禁城を取り上げました。外国人にとっては、紫禁城は単なる観光名所かもしれないが、その裏に秘められた歴史を知ると、見えてくるものが違ってくると言います。建物内の不自然な構造にも、ちゃんと意味があるのだそうです。歴史的建造物を見る時には、こういう解説が聞きたいものです。

Mさんはタージマハルを見た時の感激について述べています。タージマハルは、建設された時の愛の物語と、その後に控える悲劇の結末を抜きに語ることはできません。これを知識として知っているだけではなく、実物を目の当たりにして感動に浸りたいものです。

しかし…。今回もどこかのサイトの丸写しが疑われる文章がありました。Hさん、あなたは芸術作品や建築物などに込められた美意識に心を動かされたことはないのですか。もしそうだとしたら、あなたの今までの人生は、何と中身の薄いものでしょう。同情を禁じえません。

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バリアフリー

1月29日(月)

足を怪我してからというもの、外に出るたびに何かと不自由を感じています。新宿御苑前駅もその1つで、荻窪行きの電車から降りて階段なしのコースで学校まで来ようとすると、かなり遠回りしなければなりません。階段の上り下りに耐えるか、平坦な道を長距離歩くかの2択となっています。私は、夜明け前の寒空を延々と歩くより階段の上り下りがあっても最短距離ですむコースを選んでいます。

そんなことから、超級クラスの授業でバリアフリーを取り上げました。まず、学生に自分が感じているバリアを挙げてもらいました。すると、健康体の学生たちは、階段とかエスカレーターとかというよりも、不動産が借りにくいとか、アルバイト先で日本人客に信用してもらえないとか、日本人は身分証明書を持たなくてもいいのに自分たちは在留カードを常に携帯しなければならないとか、社会的なバリアをたくさん挙げてきました。

学生たちが訴えたバリアは確かに存在し、バリアを乗り越えなければならない立場だったら辛いだろうなと思えるものばかりでした。「日本の留学生活は楽しいです」と、このクラスの学生に限らず、初級から超級まで多くの学生が口にします。でも、その裏側にはこういうバリアに耐えている、もしかすると涙を流しているかもしれない別の一面もあるのです。

学生たちが挙げたバリアの多くは、日本人側に原因があります。「国際化」という言葉がもてはやされてからかなりの年月が経ちますが、日本はいまだに道半ばのようです。経済力が衰えた上に、このようなバリアを放置したままでは、日本は働いたり勉強したりしに行く国として選ばれなくなるでしょう。

授業の最後に「心のバリアフリー」という動画を見せましたが、本当にこの動画を見る必要があるのは、私たち日本人なのです。

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口先と実行

1月23日(火)

超級クラスの短作文の問題です。(   )に適当な語句を入れて文を完成させてください。

口先だけで何もやらないのは信用されない。何事もただ(   )のみです。

…いかがでしょう。これをお読みのみなさんは、どんな言葉を入れましたか。

超級クラスの学生たちは、いろいろな答えを出してくれました。行動する、やる、実行する、行うのような、英語で言えば“do”っぽい答えが多かったですが、「言葉」的な答えも数名いました。

この問題を作った先生も、私も、前者の系統の答えを求めていましたが、決して成績の悪くない学生たちが後者を書き入れていました。口先だけで何もやらないのは信用されない。何事もただ言葉のみです――うーん、理解できません。どういう発想でこの答えが出てきたのか、わかりません。

そこで、学生たちの話をよく聞いてみると、「“口先だけで何もやらない”のは、すなわち、言葉のみで実行が伴わないということだ」と言いたかったようでした。確かにそういう解釈も成り立ちます。多少強引な気がするのは、私がこういう解釈に不慣れだからでしょうか。

もちろんこれでは日本社会において通用しませんから、「口先だけで何もやらないのは信用されない。それではいけないので、言葉にした事柄は必ず実行しなければならない」という解釈を伝えました。学生たちはこの考えを理解しましたが、心からは納得していない顔つきでした。

最近は、「犬も歩けば棒に当たる」にも2通りの解釈があると言います。だとすると、この問題にも2通りの答えがあってもいいのかもしれません。上述の解釈は、私のような年寄りの発想に基づきます。若い人の考えは、学生たちと同じかもしれません。なんといっても、言葉は生ものですから。

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魔法の杖

1月22日(月)

土曜日にK先生からお借りした杖を持って銀座線に乗ると、席を譲ってもらえました。新宿御苑前から赤坂見附までの丸ノ内線は、高々数分ですから、どっしり腰を落ち着けてしまうと立ち上がる時にかえってしんどそうなので、ドアの際に立っていました。

赤坂見附から上野までは20分ぐらいありますから、実質片足で立ち続けるのは避けたいと思っていました。しかし、入ってきた銀座線はいつもより混んでいるくらいでした。ですからドア際の手すりを確保して姿勢を整えたところ、すぐそばに座っていた若い女性が「どうぞ」と声をかけてくださいました。

私もこういう場面で席を譲ろうとして断られてなんとなく気まずい空気を感じたことがありましたから、ありがたく席に着きました。席を譲ってくださった女性は、新橋か銀座で降りたようです。彼女が降りる時にもう一度お礼を言おうと思っていましたが、見逃してしまいました。

金曜日は杖を持っていませんでしたから、優先席のそばに立ったものの、席を譲ってもらえませんでした。杖の威力は偉大です。逆に考えると、杖を持っていないけれども席を必要としている人が、今まで私の周りにも結構いたということになります。席を譲ることはやぶさかではありませんが、私は席に着くと本を読むことに熱中しますから、譲って差し上げるべき人がそばにいても見逃していたことは多々あるに違いありません。

当分はステッキパワーで席を譲ってもらうとして、足が元に戻ったらちょくちょくあたりを見回して恩返しをしていきたいものです。

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やさしい気持ち

1月20日(土)

けがをした足を引きずって交通機関を利用すると、東京はまだまだバリアだらけだと気付かされます。新宿御苑前駅は、私が生まれる前にできた駅ですから、バリアフリーの発想はありません。地下の浅いところにホームがありますが、そこに至るまではすべて階段。朝、荻窪行きから降りると、私がいつも使う改札口に出るには、階段通路で線路の下を潜り抜けなければなりません。これを避けるためには、新宿三丁目まで乗り越して、ホームの反対側の池袋行きで1駅戻るという手を使うほかありません。また、後付けでエレベーターなどが設置されましたが、KCPとの間の往復の場合、それを使おうとすると、かなり遠回りになります。

乗り換えの赤坂見附はホームの反対側へ移動するだけですが、上野駅はまたしても手すりにしがみつかなければなりません。とどめは自宅最寄りの南千住で、後付けのエレベーターは途中で乗り換えが必要です。

どの駅もそうですが、下りのエスカレーターがありません。しかし、足が悪い者にとっては、上りよりも下りの階段に負担を感じます。こういう話は以前から聞いていましたが、今回身をもって痛感させられました。また、エスカレーターがあっても、エスカレーターから降りる時にバランスを崩しそうになります。もうほんの50センチばかり、エスカレーターの平坦部を伸ばしてもらえると、降りるのが楽になるはずです。

これからは、足の悪い方に少しは優しくなれるような気がしてきました。

今朝、K先生が杖を貸してくださいました。杖を使うと歩幅がだいぶ広がります。昨日は御苑の駅まで15分ぐらいかかりましたが、杖を使って校内を歩いた感じからすると、半分ほどの時間で行けそうな気がします。気持ちが少し明るくなりました。

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20歳のお祝いの言葉

今日は1月15日です。この1月15日は、昔は小正月と呼ばれていました。小正月には、小豆粥を食べたり豊作祈願をしたりなど、それぞれの土地で、その土地ならではの多種多様な行事が行われてきました。その中で、江戸時代までどの土地でも行われていたのが、元服でした。

元服とは、男子の場合は、名前を幼名から大人の名前とし、髪型や服装も大人のものへと変える儀式でした。女子は、元服の際に初めて大人の服を着て、母親などに教えてもらって大人と同じ化粧をしました。要するに、子どもが大人になったことを周りの大人がお祝いするのが元服でした。

1999年までは、1月15日は成人の日と呼ばれ、全国各地で新たに20歳になった若者を祝福してきました。その後、成人の日は1月の第2月曜日となり、今年はちょうど1週間前の8日でした。また、2022年から成人年齢が18歳に下げられ、成人の日の対象者も18歳の人たちにしたところも多いです。

しかし、伝統的な意味での成人の日は、今日、1月15日です。KCPでは、20歳になった、あるいはもうすぐなるみなさんの大人の仲間入りをお祝いしようと、このような式を開いた次第です。

大人になったということは、自分の意志で自由に動けるということです。自分の意志で自由に動くということは、その結果に対する責任も自分で負うということです。江戸時代のさむらいは、切腹という形で最終責任を取りました。みなさんもそれぐらいの厳しさを持って、自分自身を律していってほしいものです。

ですから、寝坊して遅刻したとか、宿題やテストから逃げ回るとかというような、責任ある大人の行動とは到底思えないような行いは、直ちに改めてください。大人の振る舞いの積み重ねが、みなさんを成功へと導きます。若者らしいみずみずしい頭脳と大人としての自覚があれば、鬼に金棒です。

以上が、43年前に成人を迎えた私からみなさんへのはなむけの言葉です。

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入学式挨拶(2024年1月10日)

みなさん、ご入学おめでとうございます。私たち教職員一同、新たなメンバーを迎えられたことを非常にうれしく思っています。

先学期、上級のクラスで、「なくてもいいもの」というテーマで作文を書いてもらいました。現金、婚姻制度、動物実験、国、暴力など、いろいろな意見が出てきました。その中で、ある学生―仮にAさんとしましょうーは「人間」と答えました。どうしてAさんは人間などなくてもいいと主張したと思いますか。

人間は、地球上の一生物種に過ぎないのに、ほかの動物を殺したり、自然環境を破壊したり、生態系に悪影響を及ぼしたりしています。だから、人間はなくてもいいとAさんは訴えました。他の学生の「なくてもいいもの」は、自分にとって、ないしは人間にとって「なくてもいい」物事や事柄でしたが、Aさんは地球にとって、地球上の生物にとっての「なくてもいいもの」として、人間を取り上げました。他の学生とは着眼点の次元が違う、斬新な発想だと思いました。多少文法の間違いもありましたが、評価はAにしました。

人間が絶滅に追いやった生物種は、産業革命以降でも100種を軽く超えます。日本に限っても、ニホンオオカミ、ニホンカワウソなどは絶滅、コウノトリ、トキなどは野生絶滅となっています。絶滅危惧種に指定されているイリオモテヤマネコやクロマグロなどからすると、自分たちの命を脅かす人間は百害あって一利なしで、一刻も早く地球上から消え去ってもらいたいでしょう。「なくてもいい」どころか、「あってはならなない」ものかもしれません。

さらに、人間が化石燃料を消費し続けた結果地球温暖化がもたらされ、その影響で生存の危機にさらされている生物も数多くあります。温暖化による気象災害によって命を落とす人も少なくありません。人間は自分自身の生命すら危うくしているのです。まさしく、「なくてもいいもの」の最たるものでしょう。

これに加え、昨今はAIが急に賢くなってきましたから、このままでは人間の頭脳も「なくてもいいもの」になりかねません。みなさんが知識を覚える勉強を続けていく限り、AIに負けることは火を見るより明らかです。知識を覚えることにかけては、AIは人間の手が届く存在ではありません。みなさん自身が「なくてもいいもの」になりたくなかったら、知識を覚える以外の土俵でAIと勝負する必要があります。これから始まるみなさんの留学は、その土俵探しの第一歩です。

日本語を身に付けただけでは、まだAIの土俵です。翻訳通訳こそ、AIの最も得意とするところですから。身に付けた日本語で何をするかが肝心なのです。大学・大学院で勉強や研究をする、専門学校で技術を学ぶ、あるいはすでに持っている自分の知識や技術や経験を生かして就職をする、そういった確固たる目標、将来計画がありますか。言葉を換えると、自分自身をどのように成長させようと思っていますか。KCPに在籍している間は、みなさんにとって、こういったことをじっくり考えられる最後のゆとりの時間になるかもしれません。

将来、「なくてもいいものはAIだ」などと泣きわめきながら、AIに対して敗北宣言をすることなどないようにしてください。そのためには、向き合うべき問題から目をそらさず、真剣に考え抜き、そしてそこで得られた結論を行動に移してください。私たち教職員は、時には厳しい言葉をみなさんに投げつけるでしょう。しかし、そこには、今私が述べたような事情があるのです。最後まで見放さずにみなさんをフォローしていきますから、安心して私たちを頼ってください。

みなさん、本日は、ご入学おめでとうございました。

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ためはだめ?

1月4日(木)

年末年始の休みに、とあるローカル線に乗ったときのことです。ローカル線ですから単線で、上下列車のすれ違いは、走りながらではなく駅に止まってします。そのすれ違い駅に着いた時、車掌さんが「反対列車との待ち合わせのため、しばらく停車いたします」とアナウンスしました。ほどなく反対列車が来ました。すると、「反対列車到着のため、間もなく発車いたします」というアナウンスが聞こえてきました。

最初のアナウンスは全く違和感がありませんでしたが、発車時のアナウンスを聞いた時には、思わず「へっ?」と言っちゃいそうになりました。「反対列車が到着いたしましたので、間もなく発車いたします」だったら何ら問題はありませんでしたが、「ため」はだめですねえ。

「ため」も「ので」も、接続の形は違いますが、理由を表すことには変わりありません。最初のアナウンスも、「反対列車との待ち合わせをいたしますので~」と言っても、意味も変わりませんし、乗客に対して失礼にも当たりません。でも、なぜ、反対列車が到着した後のアナウンスは、「ため」だと違和感たっぷりなのでしょう。

「文法が不合格のため、進級できません」「全科目合格のため、進級できます」

「雨天のため、予定を変更します」「晴天のため、予定は変更しません」

「電車が遅れたため、遅刻しました」「電車が遅れなかったため、授業に間に合いました」

…どうも、「ため」は、予想外の事態が発生したり、いつもとは違う結末を迎えることになったりした場合に有効みたいです。また、どちらかというと、自分にとって不都合な結果になったときのほうが、相性がいいような感じがします。上記3組の文のうち2番目の文は、もしこれらが言えるとしたら、全科目合格するとは思っていなかったとか、雨という予報だったので予定変更を関係者に連絡しておいたとか、遅刻を覚悟していたのにかろうじて間に合ったとか、それぞれ順当な結果ではなかったニュアンスが感じられます。いずれもレアケースでしょう。

反対列車が到着したことで自分の列車が発車できるということは、予定されていたことであり、不都合なことでもありません。私の違和感の根っこは、こんなところにあったのだと思います。

では、車掌さんはなぜ「ため」を使ってしまったのでしょうか。おそらく、「ため」の持っている改まった感じにひかれたからではないかと思います。「反対列車が到着いたしましたので~」よりも「「反対列車到着のため~」の方が硬い言い方で、車内アナウンスにふさわしいと思ったのでしょう。

さて、仕事始め。いきなり、養成講座の文法の授業でした。今年も、文法を考えながら過ごす1年になりそうです。

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今年を振り返ると

12月27日(水)

昨日、所用があって、新宿駅の西口に出ました。ニュースで聞いていましたが、小田急百貨店が跡形もなく消えていて、歩道もバスターミナルのすぐ近くまで迂回していました。あまりの様変わりに、ただただ驚くばかりでした。KCPから西口まで、距離にして1キロちょっとですが、私の守備範囲は紀伊国屋書店までですから、西口の地上を歩くことはめったにありません。調べてみたら、小田急新宿本館の閉店は去年の10月、解体が本格化したのは今年の春ぐらいだったんですね。

考えてみると、この1年、通勤定期の経路の駅で外に出たことがあるのは、上野と日本橋と銀座と新橋ぐらいかもしれません。しかも、そのほとんどが用事を済ませたらまたすぐ地下に潜るという具合で、それぞれの街をゆっくり楽しむということはしていません。新宿だって、駅そのものは利用しましたよ。でも、地上は歩かなかったなあ、この1年。実に狭い世界で生活していたものです。夏休みなどには遠征もしますが、土日の休みに東京都内をもっと見なければいけませんね。いや、そもそも、個人的な用事を通勤定期の範囲内で済まそうというせこい根性からたたき直す必要があります。

というわけで、来年の目標は、「東京23区すべてに足跡を印す」ということにしましょう。数えてみると、今年は12区でした。通過を含めるともう少し増えますが、23区には遠く及びません。また、墨田区、葛飾区、江戸川区、豊島区は学校行事のおかげで足を踏み入れた区です。ですから、倍増ないし3倍増しないと目標は達成できません。容易な目標ではありませんが、挑戦してみます。

よいお年をお迎えください。

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レオナルドダビンチ

12月15日(金)

昔、会社勤めをしていたころ、私の課長が「便利屋をバカにしたらいかん。どんなことを頼まれてもそこそここなさなければならんのだから、それなり以上の能力を持っているってことなんだ」と言っていました。課長の上司である部長は、何かというと課長に仕事を命じていました。他にも課長はいたのに。課長が命じられた仕事の一部は、私のところに流れてきました。その際に、上述のような、愚痴とも余計な仕事を命じる言い訳ともつかぬ、うがった見方をすれば私を便利屋にしようと教育しようとしていたのかもしれない言葉を私に掛けたのでした。

午前中の授業が終わって、明日大阪の大学の面接試験を受けに行く学生に最終の指導をしていたところに、急な代講を頼まれました。面接指導が終わり、レベル担当のF先生から簡単な説明を受け、漢字の教科書を持ってそのまま教室へ向かいました。今日案も何もあったもんじゃありません。

代講の場合、学生の顔も名前も満足に知らないクラスに入るのが普通ですから、本来の先生ほど授業をスムーズに進められません。でも、だからと言って、授業の質を落とすわけにもいきません。特に、今は学期末ですから、次回以降の授業で挽回という手は使えません。

私は、一番下から一番上まで、各レベルで1学期を通して教えたことが何回かあります。ですから、「教科書のこのページ」と言われれば、どうにかできます。ここが、便利屋の面目躍如のところです。日本語授業に加えて、理科や数学までやっているのですから、まぎれもない便利屋です。

「便利屋」という言葉にはネガティブなニュアンスが伴いますが、「万能の巨匠」だと思えば立派なものじゃありませんか。私は、この仕事を楽しんでいます。

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