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はさみで勝つ

11月10日(土)

外部の研修会でNIE(教育に新聞を)を勉強してきたM先生を中心に、授業で新聞を扱う先生が増えました。私は朝日と日経のデジタル版の有料購読者ですから、10日前ぐらいからの新聞記事を紙面の形で印刷することができます。ですから、パソコンでこれはと思う記事を見つけた先生から、その記事をいかにも新聞から切り抜いたかのように印刷してくれと頼まれることがこのごろよくあります。

今朝もA先生から、トランプ大統領とCNNの記者の記事ということで依頼されました。検索するとそれっぽい記事が引っかかってきましたが、それは大きな記事の中の一部でした。大きな記事だと字数も多すぎるし、扱っている範囲も広すぎるし、授業で使ったらもてあましそうです。でも、A先生がほしい記事だけピンポイントで印刷することはできません。しかたがないですから、大きい記事を印刷して、必要な部分だけ切り抜くことにしました。

A先生は、はさみを手にしながら、「なんだかアナログだねえ。Sさん、これ、パソコンの中でどうにかならない?」と、ITに詳しいSさんに聞きました。「できるけど、手でやるほうが早い。何でもコンピューターにやらせようとしちゃだめだよ。手の方が効率的なことだってある」とSさん。「パソコンでこんなことがしたいんだけど」と相談すると何でも解決してくれるSさんの言葉ですから、重みがあります。

いろんなアプリやら小道具やらがあります。それを上手に使いこなせば確かに便利です。楽です。そういうものが使えるように仕事をやり方を変えることも業務の効率化の一つです。しかし、何でもそれを基準に考えるというのは、人が機械に振り回されていて、人間の主体性が奪われているように思えます。人間がAIに負けるというのには、こういう面もあるのかなと、Sさんの言葉に感じました。

合格報告

11月9日(金)

Mさんが入学したのは今年の4月でした。国で日本語を勉強してきたのにプレースメントテストでレベル1に判定されたのが少し不満そうでした。ひらがなの読み書きから始めるクラスで、自分はこんなクラスにいるべき学生じゃないんだとばかりに、難しい文法(と言ってもレベル2で勉強するくらいの文法ですが)を盛んに使っていました。

お昼過ぎ、そのMさんが「先生、これ、見てください」と、スマホを差し出して見せてくれたのが、S大学の大学院の合格通知でした。レベル1の時からずっとそこに行きたいと言っていて、言うだけではなく着実に準備を進め、見事に初志貫徹したのです。やるべきことはきちんとやってきたのですから、当然の結果かもしれません。

T先生は「そうやって前にお世話になった先生のところにきちんと報告に来るような人だから合格したんですよ」とおっしゃっていました。確かにその通りで、必要なことを計画的にしてきたことがうかがわれます。また、そういうMさんなら、大学院進学が決まったからこれから卒業まで遊びまくるというのではなく、残された4か月ほどの間に可能な限り日本語力をつけて、進学先で日本語で困ることがないようにしていくでしょう。

それに比べて、私が受け持っている最上級クラスは、こっそり受かっている学生が続出で、噂を聞きつけて昨日聞き取り調査をしたら、Jさんなど2校も受かっていました。Jさんは、Mさんより日本語はできますが、進学してからそこの社会・コミュニティーに溶け込めるでしょうか。若干不安を覚えます。

お前の目は節穴か

11月7日(水)

自分の間違いを自分で発見し、自分で直せるようになったら、一人前に一歩近づいたと言えるでしょう。学生たちのノートをチェックすると、同じレベルでもこの力の差がけっこう大きいことに気づかされます。

クラスでディクテーションをして、何人かの学生に答えをホワイトボードに書かせ、その正誤をみんなで判定し、間違った部分を赤で直し、全学生がその正答を確認しています。しかし、後日ノートを集めて点検すると、細かいところまできちんと直している人もいれば、明らかな間違いを放置している人もいます。学生の性格によるところもあるでしょうが、概して成績のよくない学生は間違い放置組みにいます。日本語がゼロに近い学生なら直してあげもしますが、そこそこ日本語がわかるはずのレベルの学生だと、「自己責任」を取らせたくなります。でも、そうするとその差がますます広がるばかりなので、あーあと思いながら赤を入れます。

間違いに気づかない学生は、自分の答えは絶対に間違っていないと信じ込んでいるのでしょうか。その面々を思い浮かべるに、そこまで傲慢な人たちだとは思えません。これも、社会心理学などでいう正常性バイアスの一種だと思います。教師が「ここはみんなが間違えやすいから気をつけろ」と言っても、自分は間違えることなどないだろうと勝手に決め付けてしまい、正しい判断をせず、したがってしかるべき処置もとらず、間違いが放置されるのです。教師がチェックして直せば、そして、その教師の指摘を受け入れれば、テストで減点されるなどの最悪の事態は免れます。しかし、そういうバイアスのかかった目で見ると、教師の入れた赤も学生の目には映らないことだってあるかもしれません。

今度の日曜日はEJU、来週の木曜日は中間テスト。今学期も時間がどんどん流れていきます。

飛び交う

10月12日(金)

教室のドアを開けると、入口の近くからも奥の方からも鋭い視線が飛んできました。スマホをいじっていた学生まで、わざわざ手を止めてキッとこちらをにらみます。新学期の初日は、学生も教師も緊張するものです。

教師は、事前に名簿も見られますし、新たに担当することになった学生についての情報を周囲の教師から集めることもできます。しかし、学生のほうは、始業日前日にクラス名と教室の連絡はもらいますが、そのクラスの担当教師については“当日のお楽しみ”です。ですから、教師が教室に足を踏み入れるやガンを飛ばすのです。

学期休み中にさんざん養成講座の授業をしてきましたが、やはりクラス授業は別格です。人数も多いし、手のかかる度合いも格段に違います。少なくとも3か月間、上級だとさらに長い期間、運命共同体ですから、お互いにどんな人間なのだろうと気になって当然です。

さて、今学期の最初のクラスは上級で、1/3ぐらいが以前どこかのレベルで受け持ったり受験講座で教えたりしたことのある学生でした。鋭い視線の後、知った顔が来たと表情が和らぐ学生もいれば、初顔合わせで厳しい顔つきのままの学生もいました。最近学校の内外での学生たちの規律が緩んでいますから、学生の気持ちを和ませるようなことは言わず、そのままオリエンテーションに突き進み、引き締まった空気を持続させました。

やっぱり、期末テストの日まで、教室の中を勉強しようという雰囲気で満たしたいです。楽しいクラスも大切ですが、得る物の多いクラスにしていくことが理想です。

受験が迫る

10月5日(金)

昼ごはんを食べに行こうとしていたら、Cさんが「急いで在学証明書がほしいんですが…」と申し込みに来ました。きのう、出席成績証明書を申し込んだばかりなのに何事かと聞いてみると、募集要項をよく読んだら日本語学区の在学証明書が必要なことがわかったとのことでした。Cさんは超級クラスの学生ですから、募集要項を隅から隅まで読んだ上で必要書類を全部申し込んだとばかり思っていたのですが、読み落としがあったようです。

中級ぐらいまでの学生だったら、一緒に募集要項を読んで何を申し込むべきか確認してから、書類の申し込みをさせます。超級だったら、しかもできるほうの学生のCさんならそんな心配は要らないだろうと思っていましたが、そうじゃなかったんですね。まあ、受験のときに日本語学校の在学証明書を必要とする大学は珍しいですから、いらないと思うほうが普通かもしれません。

昼食から戻ってくると、Lさんが来ていました。T大学には出願したのですが、もう1校受けたいといいます。Lさんが勉強したいことは、どこの大学でも勉強できることではありませんから、手当たり次第に出願するというわけにはいきません。しかも、Lさんはビザの関係上12月で帰国しなければなりませんから、試験日が1月の大学には出願できません。そんなわけで、非常に狭い範囲から受験校を選ばなければなりません。LさんのEJUの成績も考慮して、いくつかの候補校を選びました。その後しばらく、Lさんはその候補校を自分のタブレットで調べていました。

授業はなくても、受験は進んでいきます。

出番なし

9月20日(木)

受験講座の時間が終わってもLさんはなかなか帰ろうとしません。私が帰り支度を進めていると、「先生、今からT大学に電話をかけます。ちょっと一緒にいてください」と声をかけてきました。Lさんは、今、ビザ更新中のため、手元に在留カードがありません。ですが、T大学の出願に在留カードのコピーが必要なのです。この場合、どうすればいいかということを聞こうとしているのです。

Lさんは上級の学生ですから、日本語で電話をかけたこともあるでしょうし、たとえかけたことがなくても教師が手伝ってやる必要などありません。でも、大学出願という一生がかかってくる手続きに関する問い合わせですから、いざというときの保険として教師を1人確保しておこうという気持ちもわかります。というわけで、しばらくそばで話を聞いていることにしました。

Lさんは少しびくつきながらも、話し方に多少強引なところもありましたが、在留カードがない場合はどうしたらいいかという一番肝心な質問の主旨は、きちんとT大学の担当者に伝えられていました。向こうからの返答を聞き取って理解するのに多少苦労していたようですが、住民票の写しで代替可能だということがわかり、ホッとしていました。すると今度は住民票の写しをもらうにはどうしたらいいかという疑問が湧いていましたが、これは私にでもどうにか答えられます。

最後まで私の出番はありませんでした。結構なことです。Lさんは初級から見てきており、会話がなかなかうまくならないと思っていましたが、この件に関しては当初の目的を立派に果たしました。成長を感じさせられました。

朝の電話

9月19日(水)

「はい、KCPです」「Jと申しますが、熱があるので学校を休んでいただけませんか」

電話の主は、上級の私のクラスのJさんです。自ら名乗ったところはさすが上級ですが、“休んでいただけませんか”はいただけません。ボケをかましてやることにします。

「休んでいただけませんかと言われても、休みにするわけにはいきませんねえ」「でも、体の調子が悪いです」「はい、そういうときは何と言えばいいんですか」「熱があるので学校を休んで……大丈夫ですか」

出た! どんな場面でも通用するオールマイティーワード・ダイジョウブ。初級の学生ならともかく、上級の学生には使ってほしくありません。困らせてやることにします。

「何がどう大丈夫なんですか」「熱があるので学校を休みたいです」「休みたいです? はい、レベル1」「ええっ? …休んでくださいませんか」「私が休むんですか。いやです」「いいえ、休むのは私です」「じゃあ、何と言って断ればいいんですか。もう一度きちんと言ってください」「休みたいんですがいいでしょうか」「私の後について一緒に言ってください。『熱があるので休ませていただけませんか』」「熱があるので休ませていただけませんか」

病人相手にちょっとかわいそうだったかもしれませんが、声の張りからすると微熱で念のため休む程度でしょうから、ちょっと訓練してやりました。上級には上級らしい話し方をしてもらいたいですから。Jさんにしてみれば、電話を取ったのが私だったというのが、運の尽きだったというところでしょう。

さて、Jさん、今度休む時はちゃんと言えるかな…。

電話をかけなければなりません

9月8日(土)

昨日レベル1のクラスで回収した文法の宿題をチェックしました。レベル1の最初のころは「~です」とか「~ます」とか言っていればいいのですが、期末テストが近づいてくると、反射神経だけではすまないような、頭を使わなければならない問題も出てきます。

例えば、“(駅で)危ないですから後ろから『押します』”とあって、この『押します』を適当な形に変換するというものです。直前の問題の答えが“~なければなりません”だからといって、惰性で“押さなければなりません”などと書いたら、教師の逆鱗に触れてしまいます。“いい天気ですから傘を持って行かないでください”というのも、何も考えずに答えているなと思われてしまいます。

そんな中に、“夜遅いですから、電話を『かけます』”という問題がありました。私の感覚では、「かけないでください」か「かけてはいけません」ですが、「かけなければなりません」という答えが少なからずありました。できる学生でもそう答えていました。もしかすると、学生たちの感覚では、夜遅いからこそ、友達や家族と思い切り話ができる、宿題や受験勉強が終わってからの貴重な気晴らしタイムだという意識があるのかもしれません。

私が学生たちと同じ年代のころは携帯電話がありませんでした(あっても非常に高かった)から、自宅から通っている友人に夜遅く電話をかけるのは気が引けました。でも今は、電話は個々人が所有するものですから、その人が夜型人間だったら、むしろ夜遅くかけるべきなのです。

言葉は生ものですから、その使われ方は世の中の動きにつれて変わっていくものです。「かけなければなりません」に×をつけながら、10年後にこの問題はどうなっているのだろうと思いました。まあ、そのころまでには、宿題の採点は教師するのではなく、AIの仕事になっていて、私の悩みなど雲散霧消するような気の利いた直し方をしているかもしれません…。

整理整頓

8月14日(火)

中間テスト。定期テストの日は、いつもとは違うクラスの試験監督をしますから、いつもとは違う教室のパソコンを使います。こういうときに私がすることは、デスクトップの整理です。私は、デスクトップ上にいろいろなアイコンが散らばっていると、気持ち悪くてなりません。自分が入るクラスの教室のパソコンは、週に1~2回チェックしますからデスクトップが満天の星状態になることはありません。しかし、中間テストや期末テストで入るクラスは、そうはいきません。好き勝手なところにショートカットやパワーポイントや動画や音声やワードなどが置かれ、このクラスの先生方はこれで平気なのだろうかと思わずにはいられません。

デスクトップにアイコンがたくさんあると、どれが本当に必要なものかわからなくなると思います。職員室の私のパソコンは、一目で把握できる程度の数のものしかデスクトップに置いてありません。画面左端から3行以内と自己規制しています。それよりも多くなったら、あまり使わないのをどこかにしまいます。たまに早々としまいすぎて、引っ張り出すのに時間を食ったり、またデスクトップに戻したりということもありますが、長期間の平均を取れば、片付けてしまったほうが効率的だと信じています。

じゃあ、ほかは何でも片付いているのかというと、決してそんなことはありません。パソコンの中の仮想的な机の上ではなく、リアルな机の上は書類が積み上がり、パソコンのモニターの横にはファイルが立ち並んでいます。こういうものを思い切って処分できたら気分がいいのでしょうが、なかなかそうもいかないところが辛いところです。

中間テストが終わり、採点すべき答案用紙や原稿用紙が、積み上がってしまいました。

病人を作る

7月18日(水)

これをお読みの皆さんは、「~しませんか」と「~しましょうか」の違いがわかりますか。「ます」の応用ですから、日本語学校では初級のうちでも比較的最初のころに勉強します。では、「~んです」はどんな時に使いますか。

これらは、一般の日本人にとってはあまりに日常的過ぎて、意味や用法を意識することなどありません。しかし、日本語学者にとってはこれらをいつどんな状況で使うかは大問題です。こういった文末表現は、使い方を一歩間違えると、相手に違和感どころか不快感を与えかねません。ですから、日本語教師としては、使い方をきっちり把握し、それを学習者に伝え、たっぷり練習させ、正しい用法を定着させなければなりません。

ということは、日本語教師養成講座では受講生に文末表現の明確な方たちを与えなければならないということです。感覚的に理解しているだけでは不十分で、日本語を習い始めてさほど時間の経っていない学習者に「ようです」と「らしいです」の違いが伝えられるくらいに、文末表現に精通していることが求められます。

「よ」「ね」のような終助詞も含めて、話し手が文全体をどういう気持ちで言ったかを表す表現をモダリティといいます。このモダリティを今期の養成講座受講生に講義したのですが、受講生の皆さんは今まで気にも留めなかった言葉遣いに目を向けさせられて、それこそ目を白黒させていました。

他人の話し言葉が気になってしょうがなくなりそうだなどと言っていましたが、それぐらい自分の身の回りの日本語に注意を行き届かせないと、日本語教師としてやっていけないと思います。まあ、気になってしょうがないというのは、日本語教師病でもあるんですが…。