Category Archives: 教師

5分前の注意

4月23日(月)

はい、あと5分です。自動詞他動詞、助詞、小さい「っ」のあるなし、てんてん(゛)のあるなし、自分の答えをもう一度よく見てください。残念な間違え方をしている人がたくさんいます。

中級クラスの文法のテストがありました。本当はもっと具体的に注意したかったのですが、他のクラスとの公平さを考えると、これが精一杯でしょう。

試験監督中は、学生の答えをのぞき込むぐらいしか仕事がありませんから、教室内をうろつきながら学生がどんな間違いを犯しているか観察します。自分が教えたところを間違われると、教え方が悪かったのだろうかと思ってしまうこともあります。学生の顔を見て、こいつは私の話を聞いていなかったよなあと、学生の罪をなすりつけることもあります。学生のほうは、テストに出されて初めてその文法の重要性に気づくこともあるでしょう。

結局、終了5分前に注意を与えても、間違いに気が付くのは優秀な学生です。お前のために注意してるんだよっていう学生に限って、あきらめてしまっているのか、机に伏したままです。殊勝な顔をして見直しても、間違いに気づかぬままということが多いです。今朝も、私がみんなに見直してほしかった問題は、過半数が間違った答えのままでした。

採点してみると、その問題ができた学生は、だいたい成績上位者でした。不合格者はその問題を落としていました。すなわち、その問題は出来不出来の弁別機能がとても高い問題だったということです。決して難しい問題ではないのですが、中級の学生の急所を突く問題だったとも言えます。

テストを返すときに、どのようにフィードバックしましょうか…。

引継ぎ

4月17日(火)

私は先学期卒業生のクラスを持っていましたから、今学期は受け持ったクラスの学生には初顔合わせが多く、誰がどんな性格なのか、何に興味を持っているのか、入学以来今までどんな留学生活を送ってきたのか、これからどうするつもりなのかなど、学生を知るヒントを全然持ち合わせていません。

毎学期、前学期の担任から今学期の短教師へと学生情報の引継ぎが行われます。昼休み、先学期に受け持っていたO先生やA先生からお話を伺いました。もちろん、すでに登録されている情報である程度はわかりますが、細かいことは担当なさった先生の口から直接お聞きするに勝るものはありません。

今、私のクラスで一番問題になっているIさんは、先学期も遅刻や欠席が目立っていたそうです。進路も大学に行くということしか決めておらず、具体的に何を学ぶかは未定です。「そのくせ」なのか「だから」なのかは議論の余地がありますが、6月のEJUに出願していません。想像以上に難敵のようです。

Cさんは友達がみんな進学してしまい、学校内で1人ぼっちだとか。先学期は自分だけ進学に失敗し、モチベーションがかなり下がってしまった時期もあったそうです。確かに、昨日あたりもいまひとつ周囲に溶け込めない様子が見られました。

こういう情報は、例えばIさんやCさんみたいな学生を意識して拾い上げていくという意味では、必要不可欠です。その反面、学生を色眼鏡で見てしまう危険性も蔵しています。学生の悪いところに目が行くようになってしまい、長所に気づかなかったら、学生を正当に評価したことになりません。いただいた情報を鵜呑みにせず、自分自身でよく咀嚼しながら活用していこうと思っています。

3つ3冊

4月11日(水)

始業日の大きなイベントに教科書販売があります。買ったばかりの新しい教科書を手にした学生たちは、いつの学期でもどのレベルでも、みんなぱらぱらとページを繰って、新しい本特有のインクのにおいを味わいます。私も、新しい教科書を受け取ると、後ろのほうのページを見ては難しさに戦きながらも、その難しいことを理解した日の自分を無理に想像してみたりもしたものです。

午後は、その教科書販売の補助をしました。初級レベルの各クラスの学生が、クラスの先生に連れられて、今学期使う教科書や教材を買っていきました。

A先生のクラスは、KCPで勉強して2学期目の学生が主力です。2学期目の学生に必要な教科書教材は、3冊です。A先生は、各学生にそれを全部買うかどうか、確認を取ります。

A先生:Bさん、教科書は3つですか。

学生B:はい、3つください。

私:はい、3冊ですね。どうぞ(と言って、教科書3冊を手渡す)。

A先生:次の人も3つですか。

学生C:はい。

私:こちら3冊です(と言って、教科書3冊を手渡す)。

A先生:(次の学生と目を合わせて)3つですね。

学生D:3つ、必要ですか。

A先生:はい、3つ全部使いますよ。

学生D:じゃあ、3つください。

私:はい、3冊、こちらです。

…。

学生たちは、本を数える時には「冊」という助数詞を使うことは、前の学期に勉強しています。ですから、教師が本を「3つ」などと言ってはいけません。学生の前でA先生に注意したら面目丸つぶれですから、くどいほど「3冊」と言い続けて気づいてくれるのを待ったのですが、A先生はずっと「3つ」でした。

もう一つ下のレベルなら、指を3本立てながら“教科書3つ”もありでしょう。でも、「冊」が既習の学生にとって、教科書販売は“「冊」はなるほどこういうときに使うんだ“という実例を見せる絶好機でした。それをみすみす見逃してしまったのはいただけません。

日本語教師にとって語彙のコントロールは頭の痛い問題です。難しすぎる言葉を使わないようにという出力抑制型のコントロールが普通ですが、平たい表現に傾き過ぎないという意味の語彙コントロールも同じぐらい重要です。

思い出

4月4日(水)

3月に卒業した学生たちの進路をまとめました。進学した人が一番多いですが、就職した人もいれば帰国した人もいます。夢を叶えた人もいれば、夢が破れた人もいます。計画どおりに歩んでいる人もいれば、入学した時とは全然違う方向に進んだ人もいます。努力が報われた人も、報われなかった人もいます。

概して言えることは、自分自身ときちんと向き合った人は、たとえ来日時の思いとは違っていても、将来に向けて着実に進んでいるのに対して、行き当たりばったりだったり自分を正しく評価できなかったりしていた学生は、いったいどうしちゃったんだろうっていう進路になっています。CさんやGさんやLさんは、残念ながら、どうしちゃったんだろう組です。

この3人は、入学の学期に私のクラスでした。Cさんはしっかり者のZさんと友達になりました。でもZさんのいいところを見習うことなく、1年で大学進学したZさんと離れてからは、がたがたと崩れていきました。Gさんの辞書には「完璧」という言葉はないようで、何もかもが中途半端でした。何度叱られても蛙の面に水で、卒業後の進路も中途半端なままでした。Lさんはどこか斜に構えたところがありました。自分では冷静なつもりだったのかもしれませんが、自分の将来に対しても熱くなれず、流されるままに進学したように思えてなりません。

鉄を熱いうちに打たなかった私が悪かったのかなあと思いながら、3人のデータを入力しました。3人はKCPでの留学生活をどう思っているでしょう。新しい世界では、同じ轍を踏まないようにしてもらいたいです。

もちろん、そのクラスはそんな学生ばかりではありません。Lさんと仲のよかったDさんは、山あり谷ありの留学生活でしたが、大きく成長したと思います。最後の学期も私が受け持ち、大人になったと感じさせられました。最上級クラスに上り詰めて進学もきちんと決めての卒業ですから、立派なものです。

今週末は、新入生のプレースメントテストです。どこかのクラスで新入生を受け持つことでしょうが、卒業までに学生自身が成長を実感できるように育てていきたいです。

先生こそ例文作り

3月24日(土)

養成講座の初級文法の最終回は、例文の作り方を取り上げます。日本語教師を目指す人たちは、とかく文法を言葉で説明しようとします。しかし、特に初級クラスでは、言葉による説明はあまり効果がありません。だって初級ですよ。言葉がわからないから初級にいるのであり、その人たちに言葉で文法や単語の意味を説明しようったって、土台無理な話です。言葉によらずに説明するには、例文が最も有効なのです。

でも、漫然と作っていては、説明力のある例文は生まれません。寸鉄人を刺すような例文を作るにはどうしたらいいかということになるのです。はっきり言って、私の話を聞いたからといってすぐにそういう例文が作れるようにはなりません。文法や単語の意味の構成要素を抽出し、それを際立たせるような例文を考え出します。これができるようになるには、残念ながら訓練を積むしかありません。作り慣れてくれば、文法や単語の意味の特徴が見えてきて、それを組み合わせた例文も、「う~ん」とかうなっているうちに作れるようになります。

また、例文はドリルの基本材料にもなります。単に機械的に言葉を入れ換えていくだけでは、練習する側も流れ作業になってしまい、覚えてほしいことが定着しません。学生の印象に残るドリルのキューは、例文作りから得られるものです。私は授業で遅刻した学生や前日欠席した学生をよくいじります。そういう学生をネタに文法導入するのにも、例文作りの訓練が生きてきます。

受講生の皆さんはどう感じてくれたでしょう。これからも講義やら実習やらが続きますが、例文作りの練習も忘れないでもらいたいです。将来確実に役に立ちますから。

日本語教師の文法

2月24日(土)

今学期は、土曜日は日本語教師養成講座の文法の講義をしています。3月までは初級文法のお話で、みんなの日本語初級版に出てくる文法を中心に解説しています。しかし、初級の範囲だけを抽出して教えていくというのは非効率的ですから、共通の土台に立つ中級上級の文法もいくらか触れていきます。

例えば、使役なら「先生は生徒を立たせました」みたいな典型的な用法はもちろん、「肉を腐らせてしまいました」みたいなちょっとひねった表現についても考えてもらいます。日本人はこの2つをわざわざ「使役」などと意識して使うことはありません。また、日本語学習者の母語ではこれらを同じ形で表現していないかもしれません。でも、日本語教師は2つの文では同じ文法項目が使われているけれども、その意味は違うことを明確に認識していなければなりません。

受身だと、「あべのハルカスが建てられました」と「あべのハルカスを建てられました」の違いなんていうことも取り上げます。この違いは、学習者に教えることはまずないでしょうが、受身の根本にかかわることですから、日本語教師を目指す方々には是非理解しておいてもらいたいです。授業を支える文法力を裏打ちする知識や発想もまた、日本語協視力の一端だと信じています。

一のことを教えるには十知っておかなければならないと、20年以上前の養成講座時代に教えられました。その後日本語教師を経験してきて、確かにその通りだと思いますから、私も自分の講座の受講生に対してその精神で向かっています。

山場

2月1日(木)

2月は、受験シーズン最後の山場です。私のクラスでは、2名が入試のため欠席でした。明日は3名だったかな。どの学生もまだ行き先が決まっていませんから、何とか合格をつかみ取ってもらわねばなりません。面接練習やポートフォリオの説明文のチェックなど、試験に向けての最終チェックを頼みに職員室まで来る学生も、毎日何名もいます。不安や緊張を押し殺して教師の発する想定質問に答える姿には、鬼気迫るものすら感じられます。

中には、ぐうたらしていたあげく、切羽詰って進退窮まって、教師を頼ろうとする学生もいます。そんな学生は、だいたい教師に怒鳴られています。書類がいい加減だったり、約束した時間に来なかったり、質問に対する答えがどうしようもなかったり、早い話が受験の基礎知識すら身に付けていないのです。神妙に教師の指示に従えばいいのに、突っ込みどころだらけの学生に限って自己主張したがります。

「先生、B大学やC大学だけでは危ないですからA大学を受けます。この理由は大丈夫ですか」「本当はB大学かC大学に入りたいけど、そこがダメだったらしかたなくA大学に入るって聞こえますが」「はい、そうです。だめですか」「それは志望理由になりませんね」「でも、A大学を受験する留学生は、みんなそう思っています」「あなたがA大学の面接官だったら、そういう答えを聞いてどう思いますか」「A大学の先生も知っていると思います」

どうやら、世間の荒波様にもんでいただくほかないようです。この頑固さを違う場面で発揮すると、この学生の人生も明るくなるかもしれません。しかし、発揮するのは今じゃないこともまた、確かです。

修羅場を迎える

12月26日(火)

期末テストの成績が出揃うと、各学生の進級をどうするかを決めなければなりません。各科目の学期を通じた成績で合格点を取った学生は「進級」で問題ありません。しかし、1科目でも不合格点があると、こちらが頭を悩まさなければならなくなります。全科目不合格なら、胸を張って「もう一度同じレベル」と言えますから考えるまでもないのですが、中途半端に不合格の科目があると、情けをかけるべきかどうか多面的に考えていくことになります。

初級で文法の点が基準に達していないというのなら、情けをかけて進級させても次のレベルでつまずくだけで、情けが仇となるだけです。本人にとっては厳しい宣告でしょうが、「もう一度」が最善の指導です。学生はいろいろと抵抗を試みますが、教師はそれに負けてはいけません。鬼に徹しなければなりません。いかに学生自身に納得させるかが、教師としての責務だとも言えます。

10月期の上級となると、大学も大学院も入学試験たけなわで、それへの対応のために学校の勉強がおろそかになったと言い訳する学生が出てきます。確かにそういう事情もありますが、同じ状況にもかかわらずちゃんと合格点を取っている学生がいるのですから、教師としてすんなりと受け取れる言い訳ではありません。また、それだけ入試の勉強に力を注いで、それなりの結果を残してくれたら情状酌量の余地も出てきますが、そういう学生に限ってどうにもなっていないものです。

午前中、養成講座の修了式がありました。座学も教壇実習もこなして修了しているのですが、学期後の修羅場の実習なんていうのがあってもよかったかな。いや、こんな実習があったら、KCP日本語教師養成講座の最大のウリになるかも…。

去る者

12月22日(金)

選択授業の時間に書かせた小論文を読んでいます。教養とは何かというテーマを与えたのですが、ちょっと重すぎたようです。一生懸命書いてはいるのですが、議論が浅いのです。「教養は人間らしい生活に不可欠なものだ」といった類の、書いた本人もおそらくわけがわかっていないと思われるものが多く、出題を失敗したかなと思いました。しかし、これは何年か前の某大学の留学生入試の問題ですから、受験生たるもの、12月の時点で書けないなどと言っていてはいけないのです。

マークシート的な知識の堆積を狙った授業ばかりをしてきたつもりはありません。しかし、「教養」という、高等教育の目的の1つについてお手上げ状態では、私たちの教育のどこかに至らぬ面があったのでしょう。学校の中に物事を深く考える雰囲気が足りなかったのかもしれません。

その中に、「教養とはコミュニケーションのツールである」という意見がいくつかありました。異文化に触れ世界に目を向けるきっかけを作るなどという話になると、読んでいても夢が広がります。こういう学生の将来がまぶしく見えてきました。

コミュニケーション力をつけてくれというのは、私も去年の1月の入学式で祝辞として述べています。それから2年間勉強した学生たちの卒業式がありました。卒業生全員出席で、会場に空席がないというのは気持ちのいいものです。2年前には講堂いっぱいにいた新入生のうち、卒業式まで残ったのは講堂の真ん中にほんの3列だけ。コミュニケーション力が身についたか怪しい学生もいますが、よくぞ頑張り通したと思います。彼らと激戦を繰り広げた先生方も、式後ににこやかに談笑していました。

よかったね

12月5日(火)

MさんがK大学に受かりました。Mさんは先々学期私のクラスの学生で、少し頭の固いところもありますが、まじめでがんばり屋で、積極的に授業に参加していました。そういう努力が実って、本当によかったと思っています。

先々学期はまだ初級でしたが、私のところへよく進学相談に来ていました。最初は志望校として超有名校ばかり挙げていました。正直に言って、そういう学校には手が届きそうにありませんでした。大学で勉強したいことはとてもはっきりしていましたから、そういう方面ならK大学でもMさんが最初に挙げた大学と遜色のないレベルだと、薦めておきました。それを覚えていて、出願し、受かったようです。

もちろん、しっかり者のMさんのことですから、私の言葉だけで志望校にK大学を加えたわけではないでしょう。自分でも調べてみて、納得した上で出願したに違いありません。だから、合格を知らせに来たときの顔が心の底から喜んでいたのです。

Mさんの勝因は、初級の頃から自分の進路を真剣に考えてきたことです。そして、謙虚な姿勢で教師の言葉に耳を傾けたことです。自分の耳に心地よい返事が聞けるまで身の回りの教師に相談し続ける学生は、ただ単に背中を押してもらいたいだけで、自分の考えを変えるつもりはありません。そういう学生は、玉砕して、地獄に落ちて、こんなはずじゃなかったとショックを受けて、ようやく目が覚めるのです。その時に転進可能なら進学もできますが、クリティカルポイントを過ぎていたら、不本意な結末を甘んじて受けなければなりません。

真に力のある学生やMさんのように聞く耳を持っている学生から吉報が聞こえてきている一方で、まだ夢を追い続けている危険なにおいのする学生もいます。クリティカルポイントが、近づきつつあります。