Category Archives: 教師

印刷、片づけ、挨拶

6月23日(木)

おとといが期末テストでしたが、もう新学期の準備が始まっています。職員室内では教材の印刷が進められています。期末テストの結果を見て、進級できる人、できない人の数がだいたいわかり、すでにプレースメントテストが終わった新入生も、どこのレベルに入るか決まりましたから、印刷数が決定できるのです。

来日できない学生にオンライン授業をするようになってから、プレースメントテストもオンラインで実施するようになりました。今は、3年前よりちょっと手続きが複雑なくらいで、普通に来日できますが、新入生がまだ国にいるうちに実力を判定するようになりました。こうすると、早い時点で各レベルの学生数が確定できますから、新学期の準備が進めやすいのです。この2年余り、感染がどうのこうのとか、だから衛生管理をしっかりしろとか、オンライン授業での学生管理とか、頭の痛くなる話ばかりでしたが、オンラインのプレースメントテストは、大ヒットです。きっとこれからも続けられるでしょう。

私は、入学式のあいさつを考えました。今学期は新入生や1月までオンラインで授業を受けていた学生たちの入国がまちまちでしたから、入学式という形はとりませんでした。入国者の数がまとった時点で、歓迎イベントとして入学式もどきを何回か行いました。調べてみると、20年1月期がまともな入学式の最後でした。21年4月期は、オンラインの入学式を行いました。6階の講堂がさらっと埋まるくらいの人数に向かって話すというのは、2年半ぶりということになりそうです。

教室の片付けもしました。3か月間の掲示物をはがしたり、ハイフレックス授業の機材を回収したり、教室が空っぽになりました。新しいクラスのメンバーを迎える態勢を、少しずつ整えていきます。

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まな板は何をするのに使いますか

5月13日(金)

まな板は肉や野菜を切るのに使います。この例文は○ですか、×ですか。

みんなの日本語42課に、「のし袋はお祝いのお金を入れるのに使います」という練習があって、O先生がその応用で学生に作らせたら出てきた例文です。

肉や野菜を切るのは、やはり包丁ではないでしょうか。「まな板は肉や野菜を切る『とき』に使います」だったらいいでしょうが、『のに』だったら包丁の代わりにまな板を使うイメージがあります。

「『この』まな板は肉や野菜を切るのに使います」「『あの』まな板は魚を切るのに使います」というように、ある特定のまな板で、何かとの対比があれば、「のに」でもいいような気がします。また、まな板に調理以外の斬新な、意外な、みんなに知らせたい、注目してもらいたい用途があって、それを述べる際には、「のに」が適しています。

「のし袋はお祝いのお金を入れるのに使います」というのは、のし袋を初めて見る外国人には意味がある情報であり、ですから伝えるだけの価値があります。しかし、日本人に向かってそんなことを言っても、何をいまさらと思われるのが関の山でしょう。

まな板も同様で、まな板の上で肉や野菜を切ることを伝えても、新しい価値は生みません。だから、私はここをやる時には、身の回りの物の意外な用法、自分はこんなことに使っているというのの紹介をさせます。「AはBするのにも使えます」とか、「私はAをBするのに使っています」とかという文にしています。まあ、なかなかこれはっていう文は出てきませんけどね。

みんなの日本語も終わりが近づくと、単なる文型のまねごとではなく、意味のある情報を伝えることに重きが置かれるようになります。そう考えると、まな板は何をするのに使うのがいいのでしょう。

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数字の陰に

4月28日(木)

この3月に卒業した学生たちの進学データをまとめました。卒業生の絶対数が大きく減っていますから、前年度やその前の年度と数量的な比較をしてもあまり意味がありません。むしろ、各卒業生の戦績と戦跡を見た方が今後のためになるデータが得られそうです。

Cさんは、3月になってからやっとの思いでF大学の大学院に合格し、そこに進学しました。KCP入学当初は、志望校として超一流大学ばかりを挙げていました。しかし、そのためにきちんと準備を始めたかというと、大学名を唱えるだけで何もしませんでした。教師の忠告も無視し、面倒くさいことや嫌なことは後回しにし続けてきました。出願し、入試が近づくと急に不安になってきて、押っ取り刀で面接練習などの準備を始めました。しかし、オンライン授業なのをいいことにろくに日本語を使ってこなかったので急に上達するはずがなく、O大学やJ大学など、志望校としていたところに次々と落ちました。慌てて出願先を探し、また落ちて、を繰り返しているうちに年が明けました。それでも行き先が決まらず、藁をもつかむ思いでF大学にすがったのです。Cさんの受験校を並べると、大学院のランキングそのものになります。

Wさんは一流大学に合格しなかったら帰国すると言っていました。こちらは教師の目が届かないところでも努力を続けました。もともと口数が多くなかったのですが、受験の直前になって日本語力も大きく伸びて、ノーベル賞受賞者を輩出している、どこから見ても超一流校に合格しました。

Qさんは、最初はパッとしませんでした。滑り止めのつもりで受けた大学に落ちて、自信を失いかけたこともあります。同じクラスのYさんが合格を連発するのと対照的でした。しかし、努力を重ねているうちに、年末が近づくにつれて調子が上がってきて、合格できるようになりました。そして、CさんがF大学大学院に、最初に言っていたのとはまるっきり違う研究分野で合格したころ、Qさんは一番入りたいと思っていた最難関の国立大学に合格しました。

進路指導をする側にも反省事項は多々あります。それを踏まえて、Cさんみたいな学生にも喜びを味わわせてあげたいです。

進学して東京を離れたQさんから、ビザ更新についての問い合わせの電話がありました。

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ま゛行

4月22日(金)

中級のH先生が頭を抱えていました。よくできるYさんが、「む」に「゛」を付けるといいます。確かに、テストの答案の文字に「む゛」がありました。どんな発音をするのでしょう。唇を引き結んで、のどに力を入れて振るわせて、母音を発するのでしょうか。Yさんに音を出してもらいたいです。

Yさん1人ならまだしも、数名の学生が「ま行」を濁らせて「ま゛」行を創出していました。この学生たちの受けてきた教育に何かあったのでしょうか。オンライン授業でも、手書きで例文を提出させてきましたし、テストだって手書きだったはずです。

考えられるのは、教師のチェックの甘さです。手書きとはいえ、例文などを書いたノートを写真に撮って、それを送らせていますから、提出物のチェックも画面上です。このチェックをすると、私が老眼だからかもしれませんが、目が非常に疲れます。酷使すると言ってもいいでしょう。ですから、細かいミスを見落としているおそれはあります。その見落とされたミスに「ま゛」行が含まれていて、いつの間にか学生に「ま゛」行が定着してしまったのかもしれません。

もう1つは、学生側のチェックの甘さです。上述のように、オンラインで提出されたものに対する添削はオンラインで行います。したがって、提出物が返却された時点で、学生の手元には、オンラインで添削された提出物と、その元となった、教師の朱が入っていないノートなどがあります。学生が添削された返却物に気が付かなかったら、間違ったままの例文などしか残らないのと同じです。でも、Yさんほどの学生が、返却物に目を通さないなんて、あるかなあ。

真の原因はよくわかりませんが、せっかく対面になったのですから、提出物は厳しくチェックして、禍根は断ちたいところです。今なら、まだ間に合います。

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進歩は退歩?

4月5日(火)

私が学生たちと同じ年齢のころに流行っていた曲の歌詞には、「ダイヤルを回す」とか「電話が来るのを待っている」とかという文句があふれていました。それによって恋のもどかしさやら相手を想う気持ちやらを表現していました。そういう曲を、映像のないカラオケで歌ったものです。

その後、携帯電話が普及すると、個人と個人がダイレクトにつながるようになりました。ダイヤルは回さなくなり、電話が来なかったらこちらからこちらから押し掛けることもまれではなくなりました。ちょうど、私がKCPにお世話になり始めたことのことです。なかなか携帯電話を持とうとしなかった私は、まわりにずいぶん迷惑をかけました。

更に時代が下ると、携帯電話はケータイになり、電話ではなくなりました。メールをやり取りする道具となり、通話をすることは少なくなりました。学生たちは私たちのはるか前を進んでおり、欠席者に電話をかけても無反応というのが当たり前になってきました。

今では、そのメールも、連絡手段としては風前の灯です。電話をかけても声が聞けないからとメールを送っても、メールをチェックしない学生が多いのです。学校からの連絡はメールでするので、1日に何回か必ずチェックするようにと言っても、反応が鈍いのです。そういう学生は、スマホを使い始めた時からお気に入りのSNSばかりで、メールを使う習慣がありません。自分のメールアドレスも電話番号も知らないんじゃないかな。

ですから、新学期直前のこの時期は非常に気を使います。連絡の抜け落ちがあっては困るのですが、抜け落ちのない連絡方法がなかなか見つかりません。通信使技術は発達しましたが、音声通話だけだったころのほうが、時間はかかっても連絡は確実だったような気さえします。

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新芽

3月31日(木)

4年前の卒業生Lさんが、進学した大学を卒業し、そのまま大学院に進むことになりました。理科系だったらごく普通の話ですが、Lさんの専門は日本語教育です。大学院で何を研究するかは聞いていませんが、外国人の視点で日本語教育を捕らえ、私たち日本語ネイティブの教師にも有意義な成果を挙げてくれることを期待しています。

Lさんは成績優秀で、大学時代は学科でトップを争い、たいていは勝利していたようです。日本語教育能力検定試験には、昨年一発合格しました。大学から奨学金ももらってましたから、タダとは言わないまでも、実質的にかなり安い学費で勉強できたと思います。そんな学生ですから、大学だって簡単に手放したくはないですよね。

そういえば、昨年のスピーチコンテストで審査員をお願いした時、とても大学生とは思えないほど詳細なコメントを付け加えてくれました。スピーチを聞いてその内容はもちろん、発音、文法、文章構成力など、多角的な解析を加え、スピーカーの日本語学習者としての力量をはじき出していました。それを短時間のうちに文章化しているのですから、驚くばかりでした。

最近、私は養成講座の資料の再編をしており、その一環として「みんなの日本語」を読み返しています。図らずも、初級で教えるべき事柄の復習をしています。本当はそれ以外の教科書にも目を通すべきなのでしょうが、今の私には「みんなの日本語」で手いっぱいです。Lさんなら、私がかつて使っていた初級教科書の最新版も含めて、網羅的に何か言えるんだろうなあと思いながら、仕事を進めています。

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暖かい芝生の上で

3月10日(木)

本当に久しぶりに学生がおおぜい学校へ来たと思ったら、それは卒業式でした。授業は今もオンラインですが、新規患者数も減りつつあるので、卒業式ぐらいは対面でやろうということになりました。今学期が始まった早々ぐらいから準備に取り掛かり、この学校で勉強したんだという思い出を築けるようにと知恵を絞ってきました。

今年の卒業生は、在学期間の半分はオンラインだったと思います。オンラインじゃなくても変則的な授業時間でしたから、校舎内で学生同士が顔を合わせるというチャンスに乏しかったです。ですから、クラスメート以外の友人を作る機会に恵まれませんでした。そうそう、クラブ活動もできなかったしね。

式の後、時間のある卒業生を連れて、御苑へ行きました。もちろん、全卒業生が固まってではなく、1クラスずつぐらいに分かれてです。どうやら、どのクラスも、式に出席した学生はほぼ全員が早めのお花見に行ったようです。

御苑に入ると、同じクラスなのに旧交を温め合う感じの学生たちも結構いました。五分咲きか七分咲きぐらいになっているカンザクラをバックに、記念写真を撮り合っていました。マスク越しの会話も弾んでいたようです。学生たちは、やっぱり群れたかったんですよね。画面ではにこにこしているようでも、孤独だったんだなあと感じさせられました。

クラスごとに動いていたはずが、いつの間にかいくつくかのクラスがまとまってしまいました。ここでも、懐かしがっている顔つきの学生が何人もいました。対面授業に強硬に異論を唱えていたKさんまでが、友達と肩を寄せ合い記念写真に収まっていました。

私たち教師がオンライン授業の腕をどんなに磨いても、ZOOMに勝るシステムが提供されても、学生同士の会いたい、仲間と肩を組みたい、手をつなぎたい、おしゃべりしたい、ライバルを間近で意識したいといった欲求が消えることはないでしょう。どうすればこれに応えることができるか、それが私たちの使命だと、学生たちの楽しそうな様子を見ていて感じました。

御苑の芝生はまだ枯れていましたが、掌を載せてみたらとても暖かでした。

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小さな窓を通して

2月25日(金)

午前中、T先生と話していたら、学生との意思疎通の話になりました。「どこですか」と聞いているのに言葉の意味を答えたり、「それで」と「それに」と「そして」があやふやだったり、上級でも助詞がボロボロだったりなどということをぼやき合いました。

一つには、オンライン授業における学生の集中力は、やっぱり、対面授業には及ばないということがあるでしょう。W大学の学生のように、複数の授業を一度に聞く学生はいませんが、別のことをしながら授業を聞いている学生は結構いる感じがします。別のことをするまでに至らなくても、ボーっとしている時間は、対面よりも長いでしょう。私が学生だとしても、90分間パソコンの画面と音声に集中し続けるのは、教室で授業に集中するより難しいと思います。意識が飛んだ瞬間に指名されたら、的外れなことを言ってしまうかもしれません。

教師は、自分がしゃべり続けなくても、授業を仕切るのは自分だという意識が強いですから、90分ぐらいどうにかなってしまいます。画面に現れる小さな顔から学生の様子を推し量らねばと思い続けると、対面授業より緊張度は高まっているかもしれません。指名してから答えが返ってくるまでの微妙な間も、意思疎通の敵です。WiFiの加減によっては、さらに状況が悪化します。

教師も自宅から授業を送信すれば、多少はおおらかな気持ちになれるのでしょうかねえ。でも、3月で卒業する学生の大半が、卒業式ぐらいは対面でしたいと言っているそうです。学生も、間に何も介在しないリアルなコミュニケーションを通して語学をものにしたいと思っていると信じたいです。

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午前と午後の差

2月2日(水)

今学期は、水曜日は朝から夕方まで受験講座数学です。日本語の授業時間の関係上、午前中が中級の学生、午後からが上級の学生を、それぞれ対象にしています。

中級クラス、上級クラスとも、同じ教材を使っています。進度も変えていません。しかし、授業のペースが全然違います。中級クラスは話すスピードを落としたり、指示が通らないので同じ話を繰り返したりなど、遅れる要素が次々と出てきます。それに対して、上級はサクサク進みます。しかし、質問も多く出てくるし、それに合わせて応用的な話もしますから、結局、中級クラスと同じぐらいの進み具合になります。

数学は数式やグラフを追いかけていけば、ある程度は内容が理解できるはずです。中級クラスの受講生が上級クラスに比べて数学的センスが劣るとは思えません。それなのに授業のペースが違う、中級クラスは内容が深まらないとなると、日本語で教わることが学生たちのネックになっていると考えざるを得ません。

美大の先生が、絵を描く技術や素養があっても、日本語力がなかったら指導のしようがないので、日本語のできない学生は合格させないとおっしゃっていました。確かに、中級でも大学などに合格した学生は進学していきます。しかし、進学先でどれだけ有意義な勉強をしているでしょう。私の数学でも、進度は同じでも伝えている情報量には差があります。数学ですらこうなのですから、読解力や表現力などが要求される科目だったら、あっという間に置いていかれてしまうでしょう。

これは、教師の側こそが存分に理解していないと、学生をそういう方向に引っ張れません。学生に日本語「で」勉強させる経験が必要です。

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改めて、留学の意義

12月27日(月)

今年最後の出勤日を迎えましたが、2021年は新入生がまともに入国できない1年となってしまいました。オンライン授業に参加してみたものの、あまりの先行きの不透明さに挫折してしまった学生も少なからずいました。私が学生の立場でも、見切りをつけたでしょうね。

そういう学生にとって、2021年はどんな年だったのでしょう。空白の1年と感じているのでしょうか。日本語を勉強しても、その進歩を感じる機会がなく、また、日本での進学が具体化する方向にもなかなか進まず、精神的につらかったに違いありません。無為徒食とすら感じていた学生もいたようです。

私たちはそういう学生たちに何かしてあげられたかというと、非常に限られた範囲でしか手を差し伸べられなかったと思います。学生の気持ちを燃え立たせ、意欲を長続きさせようとあれこれ手を打ってきました。しかし、結果的に見て、それが有効に作用したとは言い難いのが現状です。

総括すると、「日本での留学生活」が見えてこない状況で学生のモチベーションを維持させるのが大変に困難だったということです。留学とは単なる勉強ではなく、今まで慣れ親しんだ環境とはまるっきり違った世界に身を置くことで見えてくる何物かをつかむ点にこそ意義があるのです。

それぐらい、わかっているつもりでした。でも、こういう、留学の基本認識の重みを、身をもって感じさせられたのが2021年でした。来年、私たち教師が、あるいは学校が成長するか否かは、この原点をどこまで深く追求できるかではないかと思っています。

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