Category Archives: 日本語

わずかの間に

7月13日(金)

今学期も、週末の最後の授業はレベル1のクラスです。さて、その初回。知っている顔は、先週までしていたアメリカの大学のプログラムで来ている学生向けの授業に出ていた2名のみ。そのクラスで一番よくできたLさんと一番ダメだったJさんがいました。一番よくできたといっても、一番下のクラスの中での話ですから、絶対値は大したことありません。一番ダメだった学生は、一番下の中で最下位だったのですから、そのできなさ加減は想像を絶するものがあります。

私にとっては初回でしたが、このクラスも火曜日から始まっていますから金曜日はすでに4日目です。で、カタカナのテストがありました。昨日はひらがなのテストで、再試になってしまった学生もかなりいましたから、こちらはどうなるだろうと心配していました。ところが、昨日の惨敗で目が覚めたのか、ほとんどの学生が制限時間を大幅に余してカタカナの五十音を書き上げました。

Lさんは順当に満点。一画一画を丁寧に書いた几帳面な字が、程よい大きさでマス目を埋めていました。昨日は不合格だったJさんの答案を採点するのは怖かったのですが、〇がどんどん増えていくではありませんか。“ハヒフヘト”になっちゃうあたりはご愛嬌ですが、合格点にわずかに足りないところまで持って来ました。不合格ですからほめちゃいけないのでしょうが、心の中でよくやったと肩をたたいてやりました。

例文を作る宿題も出ていましたが、Jさんはこちらも的外れではない、〇に値する文を書いてきました。わずか1週間かそこらで、ずいぶん伸びたと思いました。Lさんにしたって、先月下旬に来日した時は日本語がほぼゼロでしたから、うっかりすると上級の学生よりずっときれいなひらがなカタカナが書けるようになり、そのきれいな字で気の利いた例文が作れるようになったのですから、これまた長足の進歩です。

週末に、いいものを見させてもらいました。

特別授業

7月12日(木)

受付のところにある椅子に座って、中国人の学生がアメリカ人の学生に日本語を教えています。「払わなければなりません、have to pay」なんてやっています。“授業”の内容からするとどちらの学生も決してレベルは高くなく、日本語だけでコミュニケーションが取れているかとなると、怪しいものがあります。でも、教える側も添わる側もかなり真剣で、何とか伝えようとする気持ちと、ほんのかけらでもいいからくみ取ろうとする心とが重なり合い、お互いに汗を拭きながらの特別授業が繰り広げられています。

午前中は養成講座の授業で、受講生から今学期はどのレベルのクラスを受け持っているのかと聞かれました。明日は一番下のレベルのクラスだと答えると、「どうやって教えるんですか」。私が養成講座で担当している「文法」は、教師として知っておくべき知識を扱っていますから、助詞の用法を事細かに取り上げていきます。レベル1の学生に教えるのはそのごく一部に過ぎません。教えるというより口で覚えさせると言ったほうが正確かもしれません。でも、教師がそれをするためには、広範な知識が必要です。知識に裏打ちされた練習こそが、学習者の体にしみ込む授業を形作るのです。

受付で繰り広げられたレッスンには、知識もテクニックもありませんでした。でも、友達をわからせよう、異国の友達と日本語でコミュニケーションが取れたらどんなにすばらしいだろうという、情熱や夢が感じられました。この点は、我々教師も謙虚に見習い、自分の授業に取り入れていくべきだと思います。また、養成講座の受講生にも是非見ておいてもらいたい場面でした。

差をつける

7月11日(水)

夕方、3月にKCPを卒業してM大学に進学したLさんが遊びに来ました。大学は楽しく、日本人の友達もできたけど、日本語の授業は簡単すぎると言っていました。Lさんは最上級レベルまで進みましたから、大学の留学生向けの日本語授業では、物足りないに決まっています。留学生の中では自分の日本語が1番だという自信があるとも、誇らしげに語っていました。

それどころか、日本人の学生よりも日本語のテストの成績がいいこともあるそうです。つい先日、敬語のテストがあり、そのテストでは合格点が取れなかったおおぜいの日本人学生を尻目に、Lさんは余裕の合格点だったとか。日本人の大学生は、大学に入ると受験勉強で身に付けた知識を忘れ、敬語は就活の直前に覚え直しますから、KCPでがっちり訓練していたLさんの敵ではなかったようです。

KCPの超級では、普通の社会人が読む文章を教材に使っています。新聞記事や小説や新書やエッセイや対談など、広範なジャンルを扱っています。うっかりすると、読書時間ゼロなどとのたまっている大学生などより、よっぽど日本語の活字に触れています。ですから、LさんがM大学の日本人学生よりもいい点数を取ったとしても、全く驚くには当たりません。このままいけば、卒業生代表も夢じゃないね‥‥なんて、からかってしまいました。

今学期から、上級では授業の進め方をガラッと変えました。考えて議論して発表してと、寝ぼけてぼんやりしている暇など1秒たりともありません。こんな授業をしていたら、日本人学生との間にますます差がついてしまいますね。大学から抗議されてしまうかもしれません。

厳しい目

7月6日(金)

「ここに名前を書いてください」と「ここで名前を書いてください」の意味の違いは、日本人なら全く問題なくわかるでしょう。でも、これを英語に訳したらどうなるでしょう。どちらも、私の英語力では、“Please write your name here”なってしまいます。ですから、「に」の意味にしたかったら申込用紙か何かの名前を書く欄を指差し、「で」なら筆記台の上に用紙を置いて、相手をその前に案内するでしょう。つまり、文字以外の身体動作によって訳し分けることになると思います。

学期休み中ですが、養成講座の授業は行われています。私の担当は文法で、毎回このような屁理屈をこねくり回しています。当たり前すぎて私たちが全く注意を払わないことばの使い方や文構造に目を向け、それをどう説明すればいいかを考えるのは、私にとっては無上の喜びです。まあ、今シーズンは少々力が入りすぎ、講義の進度がいくらか遅れ気味なのですが…。

「観客を沸かす」と「お湯を沸かす」の2つの「を」の違いはどうでしょう。日本語では同じ助詞で表現しますが、学習者の母語では別の形式で表すかもしれません。日本語教師になるには、日々使っている日本語を、幽体離脱したような視点から冷静に見つめて分析しておく必要があります。養成講座の受講生の方々には、私の講義を通してそういう目を養ってもらいたいと思っています。

幽体離脱といえば、オウム真理教の松本死刑囚ほか6名の死刑が執行されました。あぐらをかいた麻原彰晃が空中に浮かんでいる写真を思い出しました。国は、平成の悪夢を平成のうちに決着をつけようとしたのでしょうか。

限界を感じる

6月26日(火)

期末テストの結果が出ました。私が担任をしている中級のクラスでは、欠席が多かった学生や授業に集中していなかった学生が不合格になっています。多くは順当な結果ですが、中にはまじめに授業を受けているにもかかわらず読解が不合格だという、何とか救いの手を差し伸べたくなる学生もいます。

Kさんは欠席が多く、漢字と文法が惨敗。読解は点を取っていますし、グループタスクの発表も堂々とやっていましたから、力がないわけではありません。しかし、さしたる理由もなく休んでしまったため、積み重ね方の勉強ができず、こういう結果となってしまいました。選択授業も不合格ですから、来学期はもう一度同じレベルをしてもらうしかありません。

Sさんは、Kさんとは逆に、読解だけが不合格でした。授業中には教師の話を聞いていたし、指名したらそれなりに答えられてもいたのに、合格点にはるかに及ばない成績でした。中間テストも思わしくありませんでしたから、この辺が限界なのかもしれません。

限界といえば、Hさんもそうかもしれません。授業中は発言が少なく、理解しているのかいないのかよくわかりませんでしたが、期末テストでガクッと成績が落ちたということは、レベルの後半にクリティカルポイントを通過してしまったということでしょう。いつも机を並べていたLさんが普通に合格していますから、2人を比べるとHさんには「限界」という文字が浮かんできてしまいます。

初級の「不合格」は、ほぼ努力不足と断定しても構いませんが、中級後半ともなると、そう断じることがはばかれる例も出てきます。読解のテキストは、もしかすると、母語に翻訳しても内容がよくつかめないかもしれません。話すにしても、ある程度の深みが感じられないと高い評価につながりません。

SさんやHさんを来年3月の卒業まで、どのように伸ばしていけばいいでしょうか。学生を評価するだけではすまない重い課題が目の前に現れました。

生活記録より

6月25日(月)

ある学生について調べるため、コンピューターに入っている面接記録を読んでいたら、“ビニ弁”なることばに出くわしました。前後の文脈からコンビニ弁当の略であることは想像がつきましたが、私は今までそれを“ビニ弁”と略すとは知りませんでした。

紙の辞書には載っていないでしょうから、インターネットの辞書を見てみました。すると、国語辞典系には載っていませんでしたが、俗語辞典や新しい言葉を集めているサイトにはちゃんと見出しがありました。もちろん、意味はコンビニ弁当。この面接記録を書いたのは私の年齢の半分も行っていないくらいの先生ですから、若い人たちは普通に使っているのかもしれません。

…と思ってさらに調べてみると、使われ始めたのは今から10年以上も前でした。しかし、使用者はあまり広がらなかったようで、ネットの調査でも「使わない」という意見が多数派でした。それどころか、死語と断じる意見もあるほどです。

コンビニベントウは8音ですから、略語が作られてもおかしくはありません。8音を4音に略す場合、イバラキダイガクがイバダイになるように、漢字の読み方を無視してでも、前半の最初の2音と後半の最初の2音となるケースが多いです。ビニ弁のように真ん中だけ抜き出す例は、あまり多くありません。航空母艦が空母、焼酎ハイボールがチューハイ(以上、8音ではありませんが)、訓読みが音読みになりますが大阪大学が阪大、非常にマイナーですが相武台前が武台になる例くらいしか思いつきません。このやり方だと、新宿御苑は“ジュクギョ”となりますが、こんな略語は聞いたことがありません。つまり、このような略し方は略す前の言葉と結びつきにくく、略語として定着しなかったのだと思います。

美に弁――“びにべん”+変換で、私のコンピューターではこう出てきます。ビニ弁と入力した先生は、“びに”+カタカナ変換+“べん”+変換と入力したのでしょう。それに対し、コンビに弁当は“こんびにべんとう”+変換で一発で出ます。その先生にとっては、この面倒くささを乗り越えてでも“ビニ弁”と入力したくなるほど、ビニ弁が日常語なのでしょう。おかげで、いい勉強をさせてもらえました。

発見?

6月19日(火)

ゆうべ、帰宅間際にM先生から中級の読解の教材に使えそうな文章はないかと聞かれました。今学期私が担当しているレベルでもあり、常々読解教材の古さは気になってもいましたから、「探してみます」と引き受けました。

毎年度後半になると、私は超級クラスを担当し、そのクラスの読解教材は自前でそろえています。市販の留学生向け教材では易しすぎるのです。今年になってからも、候補となりそうな文章を少しずつ貯めてきましたし、去年以前に採集はしたけれども使うには至らなかったストックもあります。その中から手ごろなものを見つけようと、今朝出勤してから、まず、コンピューターの中を漁り始めました。

すると、わりと最近拾ってきた文章で、超級の読解にはちょっと歯ごたえがないかなというのと、おととしのストックで短めのと、2本よさそうなのがありましたから、それをM先生に紹介しました。

読解のテクニックを学ぶのなら、内容は多少古くても構わないじゃないかという意見もありますが、私は与しません。「吾輩」ぐらい古くなっちゃえばそれはそれで価値がありますが、「もうすぐ香港が返還されます」なんていうのはいかがなものかと思います。また、理系人間として古い技術を最新技術であるかのように扱っているような教材には一言物申したいです。

そういう観点から、鮮度の落ちにくいテキストを選んだつもりです。また、中級の教材ですから妙に韜晦した文章はいけません。論旨の明確なものが適しています。もちろん長さも考慮します。私が推薦した文章が来学期以降の中級読解教材になるかどうかは、まだわかりません。でも、超級の教材探しにもそろそろ本腰を入れなければと思いました。

しばらくのお別れ

6月15日(金)

私が受け持っている初級クラスは、みんなの日本語20課の普通体での会話でした。まず、毎度おなじみですが、「うん」と「ううん」がうまく言えず、疑問文の尻上がりイントネーションが不自然極まりなく、お互いにずっこけ合って大混乱。しばらく練習して、ようやくイントネーションがまともになり、リズムが取れるようになってきました。積極的に口を開いていたIさんやLさんは自然な話し方になりましたが、口頭練習をごまかしていたSさんやZさんは、いかにもガイジンというたどたどしさのままでした。

文法の期末テストは筆答式ですから、「休みに国へ帰る?」「ううん、帰らない」などと書ければ点がもらえます。しかし、オーラルコミュニケーションをおろそかにしてはいけません。話せないことを放置しているということは、自分の周りに自ら垣根を築いているようなものです。それでいて日本人の友達がほしいなんて、虫が良すぎます。

こういう学生は上級にも山ほどいます。普通体の会話だけが身について、いくら注意してもフォーマルな話し方をしようとしない学生もいます。自分の頭の中の文法や語彙を組み合わせて、日本語教師ですらすぐには理解できない難解な日本語を駆使する学生も後を絶ちません。その難解な日本語を生産するように思考回路が固まってしまっていますから、初級の学生よりもたちが悪いです。しかも、上級の学生たちには、入試の面接が迫りつつあります。修正するにしても、時間との戦いになります。

来週の金曜日は期末テストですから、金曜日の初級クラスの授業は今週で最後です。次にこのクラスの学生たちに会うのは、中級か上級の教室ででしょう。そのときまでに、どんなふうに成長しているでしょうか。滑らかに久闊を叙することができるでしょうか。

背伸びの前に

6月12日(火)

期末タスクの時期です。私のクラスの学生たちが書いた発表原稿を見ました。まったく意味不明な原稿はありませんでしたが、細かく見ていくと、突っ込みどころが満載でした。

ネットで調べて原稿を作ってもいいということにしていますが、中にはネットの書かれていたことをそっくりそのままコピペしていると思われるものもありました。コイツがこんな難しい単語を知っているわけがないっていうのが散見されます。“難しいことを易しく”というタスクの目標を掲げましたが、“難しいことをさらに難しく”という原稿になっていました。検索で引っかかったそれっぽいページを書き写したら、もう安心しているのです。そんなの、「〇〇はどういう意味ですか」と質問されたら、しどろもどろになって、発表が瓦解してしまうに違いありません。

発表に使っているのは易しい言葉だけれども、内容は深めてもらいたいのです。いや、易しい言葉で説明しようと努力することによって、内容が深まると言ったほうが正確でしょう。ですから、直すにも学生の言わんとしていることを噛み砕いて、このぐらい誰でもわかりそうな言葉で書くんだよと例示するようにしました。私たち日本語教師はそういうのを日々やっていますから、鍛えられています。学生たちは、小論文なんかではむしろ背伸びするくらいの気持ちで書いているでしょうから、急に「易しく」と言われても戸惑ってしまうかもしれません。

でも、プレゼンテーションで求められるのは、背伸びよりも明確さであり、それは平易な表現によって裏付けられることがほとんどではないでしょうか。明日もタスクの作業がありますが、この点を学生たちに訴えていきます。

ある100点

6月11日(月)

今週の最初の仕事は、金曜日に入ったレベル1のクラスにディクテーションテストの採点でした。本来は金曜日中に済ませておくべき仕事だったのですが、ドライアイがあまりにひどかったので、今朝に回したのです。

来週の金曜日が期末テストですから、レベル1も終盤戦です。順調に力を伸ばし、このディクテーションテストでも満点かそれに近い点数を取った学生もいる一方で、表記も満足に身についておらず、点が取れたのは促音も長音も拗音もない短い単語1つという学生もいました。後者は明らかに遊んでばかりいましたから当然の結果ではありますが、他人事ながら授業料がもったいないなあと思います。

私が密かに喜んでいるのは、今まで詰めが甘いと思っていたSさんが100点を取ったことです。今学期、今までに私が採点したテストや宿題では、頭では理解しているものの、どこかで何かが抜けたり余計だったりして、満点を取るには至りませんでした。中間テストでも、ケアレスミスと言っていい間違いがどの科目にも1つずつぐらいあり、それを指摘するとSさんは実に悔しそうな顔をしていました。

話し方も、文の最後まできちんと「です・ます」で話すのではなく、文末を省略したりむにゃむにゃとなってしまったりしていました。Sさんの志望校はレベルが高いですから、そんないい加減なことではいけないと注意しました。その注意が効いたのかどうかわかりませんが、金曜日のテストは濁点の有無も動詞や形容詞の活用形も、すべてが完璧でした。

日本語の正しさを追求するあまり学生が窮屈に感じてしまうのもよくないと思いますが、きれいな日本語は正しい日本語がもとになっているように思います。