おとなしく

4月19日(金)

もう、桜の木は周りのほかの木に埋没してしまいました。今年の桜は意外に長持ちしたと思いますが、さすがにこの週末は「花見」ではないでしょう。うちの近くの桜並木も、今はただのどこにでもありそうな木に戻っています。桜前線は、信州から南東北を通過中です。

4月の新入生、特に初級に入った学生たちは、慣れない生活に右往左往しているうちに桜を見逃してしまったようです。生の桜を見ようと思っていたのに、言葉の壁と緊張感でそんなゆとりなどなかったというのが実情でしょう。

午前の授業を終えて、外階段を下りてくるとき、何気なく下を見ると、校庭のテーブルがほぼ満席でした。談笑しながらお弁当を広げているグループがいくつかありました。最高気温23.6度、風も弱く、日差しも強烈ではなく、外でお昼を食べるには絶好のシーズンです。校庭に桜はつきものですが、残念ながらKCPの校庭は木を植えられるほど広くはありません。でも、これから梅雨入りまで、校庭は、雨さえ降らなければ、KCPの中で一番過ごしやすい場所です。私もできることなら校庭のテーブルで仕事をしたいですが、なかなか思うに任せません。

初級の漢字の時間で、「神」という字を扱いました。ちょっと脱線ということで、“八百万の神”という日本人の宗教観にも触れました。教室にもトイレにも電車にも1本1本の木にも神様が宿っているというと、国籍性別年齢を問わず、感心したような顔をします。桜の木の神様は、みんなを喜ばせ楽しませ、また目立たぬ形で、今年は平成から令和への移り変わりを見守ているのでしょう。

落差

4月18日(木)

読解のワークシートを子細に見ていくと、クラスの学生の力が見えてきます。テキストの要点を要領よくまとめたのもあれば、設問にまともに答えていないのもあります。文法がいい加減だったり、誤字脱字があったり、答えの良しあし以前のシートを見ると、頭が痛くなってきます。薄い鉛筆で汚く書かれたシートは、読む気すら失せてきます。そんな時は、丁寧な字で心を込めて書いたと思われるシートを読んで、立ち直るきっかけをつかみます。

本文に基づいて穴埋めをしたり一問一答したりする部分は、ひどいシートでもどうにか許容範囲内に収まっています。しかし、創造的に答えなければならない問いへの答えは、大差がつきます。最低最悪は、そこだけブランクというシートです。Gさんも、そんなシートを提出しました。

新学期が始まって2週間足らずですが、早くも“こいつは危ない”と踏んでいるのがGさんです。自分から積極的に答えようとしないし、指名してもすぐ隣の学生に聞こうとするし、教科書もつっかえつっかえでしか読めないし、いつ脱落してもおかしくない状況です。「アメリカへ去きます」を見た時には驚きましたが、何回指摘しても直らないことにはあきれるばかりです。直されたところを全く見ていないのでしょうね。入学して半年余り、いまだに国の言葉との切り替えができないというのは、コミュニケーション力が欠如していることを意味します。それでも進級してきたということは、テストで点を取ることにだけは長じているのでしょう。

しかし、今度のレベルはそれじゃあ通用しません。創造性も問われるし、発話力も重視されます。1秒でも早く発想を切り替えないと、Gさんはここで成長が止まってしまうでしょう。下手をすると、来年3月の卒業まで同じレベルを繰り返すことにだってなりかねません。ということは、進学だって危ういです。

そんな危機に立たされていることを、Gさんはまだ気付いていないようです。

空を突き刺す

4月17日(水)

パリのノートルダム大聖堂が焼け落ちました。パリ市民の心痛はいかばかりでしょう。1985年の早春、就職する直前にヨーロッパを3週間ほどふらつき、日本へ帰る直前にパリの街を観光しました。ベルサイユ宮殿とルーブル美術館とエッフェル塔と、そして、ノートルダム大聖堂を見ました。真下から、セーヌ川の対岸から、角度を変えて見入ったものです。中に入ると、厳かな、でも冷たさのない空気に包まれて、ずっとたたずんでいたい気持ちになりました。あの大聖堂が消えてしまったのかと思うと、私はクリスチャンではありませんが、大きな喪失感に見舞われました。

このニュースを聞いて、規模はだいぶ違いますが、山口市のサビエル記念聖堂が全焼したニュースに接した時のことを思い出しました。ニュースステーションの終わりに、その他のニュースみたいな中で流された燃え盛るサビエルの映像を見て、叫び声をあげそうになりました。山口に住んでいた時、時々訪れて姿のいい教会だなと思いながら飽かずに眺めていたものです。数年後、サビエル記念聖堂は再建されましたが、焼ける前とは趣が変わってしまい、いまだに訪れていません。

さらにもっと昔、私が住んでいた町には高い無線塔がありました。使われなくなって久しかったのですが、町のどこからでも見える、住民にとっては心のよりどころのようなものでした。しかし、老朽化が進み、私がその町を離れてからしばらくのち、解体されました。友人の婚礼でその町を訪れた時、見上げる存在のない空間を見つめ、町のアイデンティティーが失われたことを痛感しました。

高い建物や塔は、町のシンボルです。それが忽然と姿を消すことは、住民の心に深い傷を負わせます。9.11後のニューヨーク市民もそうでした。ノートルダム大聖堂再建のために、1000億円近い募金が寄せられたと報じられています。それが再建に十分な金額かどうかはわかりませんが、パリに大聖堂の尖塔が再び君臨する日が1日も早く訪れることを祈ってやみません。

選挙と学生

4月16日(火)

日曜日から統一地方選挙の後半戦が始まり、私が住んでいる区でも新宿区でも区議会議員選挙が行われています。私の区は狭い区ですから、日曜日など、私の家の周りに何人もの候補者がうようよしていて、大混戦でした。ですから、ある候補者が政見を語っていても、別の候補者がすぐそばで演説をしていますから、どの話にもじっくり耳を傾けるなんて無理でした。

A候補は、前回の選挙からずっと毎週、区議会の報告を印刷して、地域の住民に配っていました。他の候補者は、選挙が近づいてからにわかに同様のチラシを配ったり4年間の活動をまとめてビラにして各戸のポストに入れたりしていました。当然、A候補の方が信頼できますし、選挙期間中の運動では出くわさなくても応援したくなります。

私は根っからの地元民ではありませんから、地縁とか血縁とかはありません。A候補に対したって、恩義を感じているわけではありません。でも、いや、だからこそ、毎週報告を配ってくれるA候補に親しみを感じるのです。話したことはもちろん、会ったことすらありませんが、他の候補はさらにもっと遠い存在ですから、私の1票はA候補へという気持ちです。

選挙じゃありませんが、進路指導も同じようなところがあります。受験講座などを通して日ごろから付き合いがあると、受験本番が近づいた時、こちらから力になろうかという気になります。それに対し、普段はろくに顔も見せないくせに、切羽詰まった時だけこちらを頼ってくる学生がいます。頼られたら何らかの形で応えますよ。でも、素性もわからない学生を親身になって世話するまでには、それなりに時間が必要です。自分の都合だけで利用しっぱなしという学生には、必要最小限の対応になってしまいます。

心が狭いと言われればそれまでですが、誰でも多かれ少なかれこうなんじゃないでしょうか。より良質な人間関係が作れるかどうかは、進学してから留学を成功に導けるかどうかにも直結していると思います。その練習を、今のうちにしておいてもらいたいです。

活躍

4月15日(月)

4月も半ばになると、進学した学生の噂もちらほら聞こえてきます。Aさんは新入生の中で目立っているとか、Bさんは日本語がよくできるから褒められたとか、そんな話が舞い込んできて、思わずニヤッとすることもあります。

しかし、いい噂だけではありません。Cさんは早くも出席率が50%ぐらいに低迷しているとか、Dさんは授業についていけずに頭を抱えているとか、心配な話も飛び込んできて、ドキッとしたりヒヤッとしたりさせられます。

出席率50%のCさんは、KCPにいたときから遅刻欠席が多くて問題を抱えていました。KCPは出席にはうるさいとされていますが、先生方にあれこれ注意されたにもかかわらず、出席状況が改善されませんでした。進学したら頑張るという本人の言葉を信じて送り出しましたが、頑張るには程遠い現状のようです。

だいたい、KCPの教師からあれだけうるさく言われても出席の悪かった学生が、進学したからといって急に朝早く起きられるようになって遅刻もせずに学校に通うようになるなんて、めったにあるわけがありません。KCP卒業時点で出席率が80%を切るような学生は、日本で勉強する資格がないとさえ思っています。ただ、まれに進学先で大化けする学生がいますから、“夢よ再び”と思ってしまい、進学先に送り出すのです。

その後、E専門学校の留学生担当の方がいらっしゃいました。「今年もよろしくお願いします」というお決まりのあいさつの後、E専門学校では、3名が合格しても日本語学校の出席率が悪すぎてビザがもらえなかったとおっしゃっていました。KCPから進学した学生は、みんな95%ぐらいの出席率でしたから問題ありませんでしたが、80%ぐらいで理由書を書かされた例もあったそうです。だから、E専門学校は、応募者に90%以上の出席率を求めることにしたそうです。

今年は、昨年以上に出席率が進学の可否を左右しそうです。

黒山の中の珠玉

4月12日(金)

文部科学省から学習奨励費の案内が来たので、受給希望者を募っています。政府の財政状況を反映してか、年々支給額が減っていますが、やはり、学生には奨学金は魅力的に映るようです。申し込み受付をしていた1階カウンターは、休み時間のたびに黒山の人だかりでした。

しかし、その“黒山”の大部分は、1次スクリーニングで落とされます。出席率の基準を厳しくしていますから、ちょっと体調が悪い程度で休んだり、しょっちゅう寝坊したりしているような学生は、そこでアウトになります。絶対休むななどとは言いませんが、気安く休む癖は持ってほしくないです。病気になったら休むのはしかたありませんが、病気にならないように健康管理することも、留学生の義務だと思います。

成績面で引っかかる学生もたくさんいるでしょう。学期を通し絵の各科目の成績は、せめて80点は取ってもらいたいです。学校を代表して学習奨励費をもらうのですから、それぐらいのすばらしい成績は取って当然です。かろうじて合格とか、ましてや赤点など、学習奨励費受給者として、絶対に許されるものではありません。でも、漢字が苦手だとか、作文は嫌だとか言って、努力を怠る学生がそこかしこにいます。そんな学生が名前を書いていたら、真っ先に消さなければなりません。

そして何より、この1年間、学校全体を引っ張ってくれそうな学生を選びたいです。卒業まで模範生であり続けるのは苦しいことだと思いますが、周りからの期待やプレッシャーをはねのけられた学生は、進学でも自分の思いを成し遂げています。

申し込みは、来週初めまで受け付けています。ぐっと絞って珠玉の数名になったら、最終面接に取り掛かります。

下手

4月11日(木)

私は速く走るのが下手です。(1)  私は単語を覚えるのが下手です。(2)

この2つの文、いかがでしょう。違和感があるのではないでしょうか。(1)は、“私は速く走れません”“私は走るのが遅いです”あたりが妥当だと思います。(2)は、“私はなかなか単語が覚えられません”“単語を覚えるのは大変です”などというほうが自然な言い方ではないかと思います。

(1)も(2)も、学生が宿題の答えとして書いてきた文です。言いたいことはなんとなくわかるけど、日本人はこうは言わないでしょう。上に示したように直すのは簡単ですが、じゃあ「下手」とはどんなときに使うのでしょう。

サッカーが下手です。シュートが下手です。パスが下手です。サッカーをするのが下手です。シュートを打つのが下手です。パスを出すのが下手です。絵をかくのが下手です。字を書くのが下手です。絵が下手です。字が下手です。いかがでしょう。「下手」を「上手」に替えたらどうでしょう。

「英語が下手です」といったら、どんな人を思い浮かべますか。英語の成績が悪い人? 英語が話せない人? 英語が読めない人? 英語の発音が悪い人?

「数学が下手です」「文法が下手です」なども、学生がよく言ったり書いたりするのですが、何が言いたいのでしょう。「料理を食べるのが下手です」と言った学生に真意をただしたところ、「おいしいと評判の料理を食べてもあまりおいしいと感じないから、自分の味覚は変だ」と言いたかったとのことでした。

「下手」に限らず、私たちが何気なく使っている言葉を深く追求していくと、際限のない深みにはまっていきます。私はその深みにはまるのが好きです。

哀れな末路

4月10日(水)

前の学期に習った文法の復習問題を宿題に出しています。もちろん個人差もありますが、文法項目による定着度の差の方が大きいように感じます。「とばたらなら」はやはり難関らしく、使い分けや使用制限などがあやふやな学生が多いです。それに対して、「かもしれません」や「(した)ほうがいいです」などは、間違える学生があまりいません。

正直言って、「とばたらなら」は上級でも怪しげな使い方をしている輩が多数います。読んだり聞いたりしたときはわかるけれども、自分が使うとなると勘に頼ってしまうのが実情なのでしょう。最初に習った時にきちんと覚えられれば理想的なのですが、そういう流れに乗れなかったときに挽回する機会がなかなかありません。OJT的に使いながら身に付ける、“習うより慣れろ”方式になってしまいます。でも、自信がないから使うのを避ける、だからいつまでたっても使えるようにならない、だから自信が持てないという悪循環に陥っている面も否めません。

“とばたらなら”に限らず、私はそういう末路を知っていますから、授業中に学生の言葉尻をとらえては既習の文法で言い直させたり、作文で思い切り書き直しを命じたりしています。逆に、みんなが使えない文法をきちんと使った発話があったら、「この文法はこういう時にこんなふうに使うんだよ」とクラス全体に紹介します。

昨シーズンの受験結果は、もはや「読めばわかる」では通用しないことが明らかになっています。コミュニケーション能力が求めらるのです。それを勝ち抜くには、みんなの日本語の文法ぐらいは使いこなせるようになっていなければなりません。でも、みんなの日本語の文法が自在に使えたなら、入試の面接は心配不要でしょう。

明日、宿題を返す時に、そんな注意をしましょう。

半年差

4月9日(火)

今学期はEJUが控えているため、始業2日目から受験講座が始まりました。私の火曜日は、生物。2クラスあり、1つは今学期の新入生、もう1つは去年の10月期から勉強している学生のクラスです。今学期の新入生といっても上級に入っていますから、去年の10月期からの学生より日本語レベルは上です。

新入生クラスの学生たちは、国で生物を勉強してきたと言います。ある程度自信を持っているようでもありました。しかし、国の言葉ではなく日本語で生物を勉強するとなると、動植物の名前をはじめ、見慣れぬ言葉だらけです。細胞の構造という生物の基本の基本についての話でしたが、大変な重荷だったようです。日本へ来て半月もたたないうちから、自分たちにとっては外国語である日本語でかなり高度な話を聞いて理解しなければならなかったのですから、授業後にいかにも疲れたという表情になったのもやむを得ないところでしょう。同時に、「とても勉強になりました」と言ってくれたので、相当な刺激にもなったのでしょう。

10月期からの学生たちは、先月までにEJUの生物の範囲を一通り勉強したので、今学期は過去問に挑み続けます。40分時間を与えて解かせたら、みんな35分ほどでできてしまいました。答え合わせをしても、こちらは余裕が感じられました。正解以外の選択肢の解説にも強い関心を示していました。学生たちの生物をとらえる目が広がってきていることを感じました。

半年前、この学生たちが初級で生物の勉強を始めた時は、日本語の問題文が全然理解できず、困り顔しかできませんでした。それを思うと、長足の進歩です。新入生クラスの学生たちも、早くここまで到達してもらいたいです。

結論変わらず

4月8日(月)

Sさんは先学期私のクラスにいた学生です。文法の成績が悪く、今学期、もう一度同じレベルをすることになっています。このことをSさんに連絡したのが先月末。何の反応もないので、Sさんはもう一度同じレベルということを受け入れたのだろうと思っていました。

ところが、新学期が始まってから、同じレベルは嫌だと言い出しました。というか、メールでそう訴えてきました。その文面がどんなに素晴らしくても、新学期が動き出していますからレベルを変えるわけにはいきません。ですが、Sさんの文章は、もう一度同じレベルをしてもやむを得ないなと思わせられる内容でした。今まで習った文法や語彙も使いこなせていないし、こちらが進級を考えるに値する新たな事情が含まれているわけでもないし、言ってしまえば情に訴えようとするものでしかありませんでした。

たとえ私が周りの先生方に頭を下げまくってSさんを進級させてたとしても、そこの授業についていけるとは到底思えません。結局、7月の学期にもう一度同じレベルをすることになります。だったら、基礎をしっかり固めてから進級した方が、将来の伸びが見込まれます。

…というのは教師の論理で、学生は同じレベルをもう一度というのを極端に嫌がります。でも、無理やり上がった学生、お情けで進級させた学生が、その後順調に日本語力を伸ばしたためしがありません。学生は目の前の進級にこだわりますが、教師は長期的に見てどうなのかということを判断基準にします。Sさんは大学院進学希望ですが、少なくとも先学期のSさんの話し方や文章や、もっと幅広くコミュニケーション能力は、大学院入試にたえられるものではなく、穴だらけの基礎で研究計画書を書いても口頭試問を受けても、不合格は疑いないところです。昨今の厳しい入試事情なら、なおさらのことです。

先ほどもSさんからメールが来ましたが、昼間のメールと変わるところがありません。Sさんは納得しないでしょうが、同じレベルをもう一度するという結論を変えるつもりはありません。