主体性

7月27日(水)

6月のEJUの結果が届いてから、いろんな進路相談を受けています。「どこに出願したらいいでしょうか」は、学生たちの本心からの相談でしょうが、ちょっと主体性に欠ける質問だと思います。

思惑よりも成績が上がらなかった学生も、うろたえて弱気になって逃げを打つようなことでは、退却先からも再度退却する羽目に陥るでしょう。EJUが悪かった分を大学独自試験で取り戻したいが、そのためにはどうしたらいいかというくらい、前向きになってもらいたいです。二の矢をどこに向けて射るべきか、すぐに頭を切り替えて立て直しを図るべきです。

もちろん、強気ばかりではいけません。引くべきところは引かなければ、卒業式のころになっても無所属新人ということになりかねません。理想や夢は持ち続けなければなりませんが、私たちはおとぎの国に生きているのではありません。現実を冷静に分析する力もまた、最終的に夢を実現するためには必要です。

逆に、高得点で欲が出てきた学生もいます。それはいいことなのですが、自分の持ち点で受かりそうな大学で、一番偏差値の高いところはどこかというのも、いかがなものかと思います。そこには自分は何のために進学するのか、なぜ日本で勉強するのかという、留学の根本をなす発想、自分の人生に対する問題意識が忘れ去られています。こんな学生は面接で落とされるでしょうし、受かったとしても、大学生活は長続きしないでしょう。

微妙な点数の学生は、11月のEJUを受けたほうがいいかと聞いてきます。余裕で志望校に受かる点ではないけど、11月までEJUの勉強を続けるのも気が進まないのです。11月のほうが点が伸びる保証はありませんが、だからと言って受ける権利も確保しておかないのは、得策ではありません。権利はいつでも捨てられるけど、持っていなかったら捨てることすらできません。

迷える子羊の道案内で、バザーの品物を見る暇もありませんでした。

復活

7月26日(火)

Hさんは6月のEJUの結果が思わしくありませんでした。去年の11月よりは上がりましたが、ほんの数点でした。数十点上げて、余裕を持って第一志望のG大学に出願するという目論見は、もろくも崩れ去ってしまいました。第二志望のM大学に対しても、自信を失ってしまったようです。G大学やM大学よりもランクを落としたところには進みたくなく、それだったら国へ帰ると言い始めました。

「帰国したらどうするの?」「前に勤めていたところにまた勤めます」「そもそもHさんは、どうして日本に留学しようと思ったんですか」「前の仕事がおもしろくなかったから…」「それじゃあ、前の職場に戻ったら全然意味がないんじゃない?」「はい、そうですねえ」「何かをつかむために、変えるために日本へ来たんだったら、G大学やM大学じゃなくても、Hさんが勉強したいことができる大学を探すべきなんじゃないかな」

こんな会話を交わした後で、過去のG大学合格者のデータを見てみました。すると、Hさんと同じような成績で受かった人もいることがわかりました。もちろん、Hさんよりずっといい成績でも落ちた例もありました。ということは、G大学はEJUの成績が絶対ではないのです。自分のところでする試験や面接のほうを重視するのでしょう。M大学も、可能性がないわけではありません。Hさんは面接で点が稼げるタイプの学生ですから。

今にも国へ帰りかねない様子のHさんでしたが、どうにか11月のEJUの願書を買うまでに気持ちが前向きになりました。

恥ずかしがるな

7月25日(月)

来週の月曜日がスピーチコンテストですから、どのクラスも応援練習に熱が入ります。私の午前のクラスも午後のクラスも、授業時間を少し割いて応援練習をしました。

応援の大筋は決まっているのですが、それを実際に体を動かしてやってみるとなると、なかなか当初思い描いたようにはなりません。その原因は明らかであって、みんな恥ずかしがって小さな演技しかしないからです。クラスみんなで思いっきり体を動かしてステージ上であばれれば、大きく立派に見えます。それに対して、縮こまった動きしかしなかったら、何をしているかわからない、かえって恥ずかしいことになってしまいます。しかし、この単純な原理が、学生にはわからないんですねえ。

暗い顔から飛び切りの明るい顔になると、クラスみんなで決めたのに、それができたのはわずかに3名ほど。もう少し基準を甘くしても、せいぜいその倍程度でしょうか。他の学生は、暗い顔をしなければならないところでも照れ笑いしてしまい、暗から明への劇的な変化にならないのです。それをみんなで見て、恥ずかしがりながらする演技は本当に恥ずかしいということをわからせようと思ったのですが、私の思いは通じませんでした。

そのくせ、私が見本の演技をすると、「先生、すごい」とか言いながら、拍手をしやがるのです。私に拍手するんじゃなくて、自分が拍手を取れるようになれって、声を大にして言いたいです。

あと4日間、猛特訓です。

ポケモンGO

7月23日(土)

ポケモンGOが配信され始め、学生の中にも昨日1日でだいぶ集めたつわものがいたそうです。今のところ校内にポケモンが湧き出しているところはないようで、電車の中やら歌舞伎町やらで拾ってきているみたいです。

すでに、ポケモンを集めるために不法侵入したり、危険を冒そうとしたり、宗教的冒涜につながりかねない行為をしようとしたりという例が報じられています。大学の中には、学内でのポケモン狩りを一切禁止するというところもあるようです。KCPも、学生の振る舞いいかんでは、何か考えなければならないかもしれません。

その一方で、これをすると電池の消耗が激しいので、その方面の商品が売れ始めているとも言われています。アベノミクスをもじってポケモノミクスなることばも発見しました。人々が電車やクルマで街に出て、ポケモンを集めながら、買い物したりおいしいものを食べたりちょっと映画でも見たりということをすれば、多少は景気もよくなるでしょう。

でも、同時に、これっていつまでもつんだろうとも思います。飽きられたら終わりですから、次から次へと何かが進化していくのでしょう。あんまり進化しなかったたまごっちが在庫の山になったのは、20年ぐらい前の話でしょうか。下手をすると、年末にはポケモンGOって何だったっけってなことになっているかもしれません。

さて、6月のEJUの結果が届きました。いつもより結果のはがきを取りに来る学生が少なかったです。まさか、ポケモン狩りに熱中して忘れちゃってるんじゃないでしょうね。

義務感

7月22日(金)

選択授業で、中級のドラマの聴解をしました。「ドラマの聴解」という選択科目名を見て、ドラマが「見られる」と思った学生が多かったようですが、この授業では映像は見せません。音声だけのソースのストーリーを追い、内容を把握し、さらにはそこに散りばめられている日本人の発想や習癖や生活など、もう一歩踏み込んで文化的背景までつかみ取ってもらおうという欲張りな授業です。

日本人なら鼻歌交じりで聞いていても十分理解できますが、中級の学生にとっては、1回聞いただけでは表面的な理解にとどまります。登場人物の名前を聞き取るのも一苦労だし、擬音語擬態語はとりあえずなかったことにして、聞き取れた単語をつなぎ合わせて一番太い幹をよじ登っていくので精一杯です。変な単語が耳についてしまったら、いつの間にか小枝の先にぶら下がっていたなんていうこともありえます。

教師は、幹のありかやそれがどちらに向かっているかをしっかり指示することはもちろん、枝についた葉や花や実にも目を向けさせていかなければなりません。JLPTの聴解問題などを解くだけでは得られるのとは違った種類の力をつけさせていくことが最大の仕事です。学生にとって、わざわざ日本へ来て、日本人の教師から教えを受ける意義は、こういうところにこそあるはずです。

学生が独習できることを教師が仰々しく取り上げても、学生はあまりありがたくないでしょう。多くの学生は、日本人の日本語教師に日本語を習うことに意義があると考えてこの学校に入ってきたのでしょうから、私たちはそれに応える義務があります。安くない授業料を受けとている側としての、サービスの提供義務です。私は、いつもそういうことを考えながら、授業を組み立てています。

低度

7月21日(木)

私のクラスのTさんは、今学期、初級の同じレベルをもう一度勉強することになった学生です。全然できないわけではなく、Tさんの最大の問題は、よく休むことです。よく休むから受けなかったテストもあり、それが足を引っ張って進級できる成績が取れなかったのです。

Tさんも、新入生だった先学期、自分では思ってもみなかった低いレベルに入れられ、勉強がつまらなくなってしまいました。授業中に新しい発見ができなかったのです。じゃあレベル判定が間違っていたのかというと、決してそんなことはありません。Tさんの話し方を聞いていると、今のレベルで勉強する内容の抜け落ちが随所にあります。つまり、授業中に新しい発見はいくらでもできたのに、自分の手で自分の耳目をふさいでしまったため、全く進歩ができなかったのです。

残念ながら、今学期のTさんもその点は変わっていないようです。自分はできると根拠もなく信じているので、正確さが欠けたままです。指摘してもケアレスミスだからと軽く流されてしまいます。でも、Tさんの実力はそのケアができない「低度」なのです。日本語教師なら理解できますが、Tさんの志望校の面接官は、Tさんの日本語でTさんの熱き思いを感じ取ることはできないでしょう。

そして、今日も14分の遅刻。授業中もみんなが口を開いて練習しているのに、やる気のなさそうな視線を下に向けているだけ。この調子が続けば、来学期も同じレベルかもしれません。

Tさんもやっぱり一度痛い目に遭わないと、自分の実力を正面から見つめることはしないのでしょう。

巨泉さんのセミリタイア

7月20日(水)

大橋巨泉さんが12日に亡くなっていたと報じられました。私たちの世代は、巨泉さんの11PMを見て大人になったつもりに浸ったものです。もちろん、その本当の意味を理解していたわけではなく、背伸びしてようやく上っ面だけわかったような気になっていたに過ぎないのですが。11PMという番組の文化的な奥深さを知るのは、それからかなり時間が経ってからです。

その後、クイズダービーや世界まるごとHowマッチでも楽しませてもらいました。これらの番組を毎週のように見ていたおかげで、自分の世界も興味の範囲も広がったと思います。今思えば、私にとっては娯楽番組というよりは教養番組だったと思います。

そういう人気番組を抱えている最中に、巨泉さんはセミリタイアと称して、テレビの世界から引っ込んでしまいました。そして、趣味の世界で生きるようになったのです。世界各地に、それぞれ1年で最も気候のいい時期を過ごすなんていう生活も始めました。就職してまだ数年しか経っていませんでしたが、働くことの意味を強く考えさせられました。また、人生とは誰のため、何のためにあるのかということについても考え込んだ記憶があります。

この、巨泉さんがセミリタイアした年が、ちょうど今の私の年なのです。セミリタイアして好きなことをして暮らしていけるだけの経済的基盤を築いていたこともスゴイの一言ですが、その後の人生を楽しむプランも持てていたことにも注目したいです。私もセミリタイヤしたいのはやまやまですが、巨泉さんのような経済的基盤もなければ、人生を楽しむ趣味もたくさん持っているわけではありません。

日本語について考えることも、自然科学の疑問を深く追究することも、私の趣味の一部分です。だから、今は趣味を仕事にしていると言えないことはありません。でも、私の中では趣味はあくまでも楽しむものであり、それをお金稼ぎの手段に使うというのは、邪道のような気がしてなりません。日がな一日、マッサージチェアに座ってマッサージされながら、文法やことばの意味を考え続けられたら、どんなに幸せだろうと思っています。

根くらべ

7月19日(火)

今週から受験講座が始まりました。今までは毎学期学生に時間割や教室を通知するのに苦労していたのですが、今学期は新システムの時間割通知メール機能のおかげで、大きなトラブルもなく通知が済みました。先学期も同じ機能を使ったのですが、使う側もメールを受け取る学生の側も準備が不十分で、その機能を遺憾なく発揮するところには至りませんでした。

1学期間新システムを使ってみて、学生側に、学校からの連絡は学校からもらったメールアドレスに届くんだという意識が定着しました。そのメールを見ないと不利な扱いを受けることもある、見ると有用な情報が得られるから毎日必ずチェックしようという方向に動きました。それゆえ、今回もしかるべき時刻にしかるべき教室にしかるべき学生が集まりました。

しかし、スタートがよくても竜頭蛇尾ではいけません。最後まで続けさせることが大切です。そのためには、受講する学生の力に合わせた授業をすることも大切ですが、それだけでは学生の力は伸びません。難しいことを承知で、背伸びもさせなければいけません。

また、時には、引導を渡すこともしなければなりません。好きこそ物の上手なれと言いますが、受験に関しては好きなだけでは済みません。もう大人なのですから、単なる憧れで将来像を描くことは許されません。自分の能力と冷静に向き合って将来を決めることが求められます。受験講座の教師は、こういう役目も負うことがあるのです。

さて、今学期の学生はどこまでついてきてくれるでしょうか。彼らとも力くらべ、根くらべが始まります。

光栄

7月15日(金)

各クラスともスピーチコンテストのクラス内予選が終わり、クラス代表が決定し、クラス全員に伝えられました。私のクラスはXさんです。予選の段階でみんながXさんだろうなと思っていたらしく、「クラスの代表は…」と言いかけた時点で、Xさんに向かって拍手が起きました。私に名前を呼び上げられたXさんは、ちょっとはにかむように下を向きながらも、光栄そうな表情をしていました。

クラス代表となった学生は、だいたいXさんと同じような反応を示します。何だかんだと言いながらも、やっぱり誇らしい気持ちは隠せません。クラス代表になるくらいの学生は選ばれる喜びを知っており、みんなの期待に応えることで自分自身を伸ばしていけるタイプの人たちなのです。

クラス代表になった学生は、これからスピーチコンテスト本番までの間、発表のしかたをがっちり訓練されます。授業が終わってから、毎日のようにスピーチの練習をします。原稿を全部覚え、規定の時間内に発表できるように、そして、聞き手の印象に残るような話し方やパフォーマンスも身に付けていきます。

それ以外の学生は、応援に命をかけます。1人の代表をクラスみんなで盛り上げるにはどうすればいいか、全員で知恵を絞ります。音楽や映像プロデュースなどを勉強してきたまたは勉強しようと思っている学生たちは、この応援が自分の作品だともいえます。本番のステージ上で恥ずかしがらずに堂々と演技ができるようになるまで、これまた日々練習を重ねていきます。

これからスピーチコンテストまでの半月ほどの間、学校中に普段とは違った努力があふれます。

不安です

7月14日(木)

初級クラスでスピーチコンテストの原稿を書かせました。上級に比べ使える語彙が少ないからなのか、似たような文章が多かったです。やはり、自分の身の回りのことが中心になり、「日本の生活は大変ですがおもしろいです」とか、「頑張って日本語を勉強します」とかという結論が続出でした。せいぜい、自国と日本の文化を比べてあれが違いとかここが違うとかいう程度です。

学生たちは一番若くても18歳ぐらいですから、もっともっと深い思索があってしかるべきです。しかし、学び始めたばかりの外国語である日本語でその深さを読み手に感じさせることは不可能です。だから、自分の手が届く範囲で妥協しようというのでしょう。

それはやむをえないことではありますが、クラスのすべての学生に妥協されちゃったら、教師としては立つ瀬がありません。2人ぐらいは無理を承知で分不相応の難しいテーマに取り組んでもらいたい気持ちもあります。みんながみんな、書ける範囲でとなってしまうと、チェックは楽でいいのですが、拍子抜けの感は免れません。

書ける範囲といっても、学生にしたら精一杯背伸びしているのかもしれません。現に、Cさんなどは途中まで書いた文章を何度も私に見せて、これで合っているかと聞いてきました。習ってはいるけれども、自分の考えを表す文章で使うのは、おそらく、初めてだったのでしょうから、不安でたまらなかったのだと思います。

私のクラスに限らず、どこも同じような話だったみたいです。スピーチコンテスト本番までの間に、スピーカーをどこまで鍛え上げるかが、勝負の分かれ目です。