Monthly Archives: 4月 2019

黒山の中の珠玉

4月12日(金)

文部科学省から学習奨励費の案内が来たので、受給希望者を募っています。政府の財政状況を反映してか、年々支給額が減っていますが、やはり、学生には奨学金は魅力的に映るようです。申し込み受付をしていた1階カウンターは、休み時間のたびに黒山の人だかりでした。

しかし、その“黒山”の大部分は、1次スクリーニングで落とされます。出席率の基準を厳しくしていますから、ちょっと体調が悪い程度で休んだり、しょっちゅう寝坊したりしているような学生は、そこでアウトになります。絶対休むななどとは言いませんが、気安く休む癖は持ってほしくないです。病気になったら休むのはしかたありませんが、病気にならないように健康管理することも、留学生の義務だと思います。

成績面で引っかかる学生もたくさんいるでしょう。学期を通し絵の各科目の成績は、せめて80点は取ってもらいたいです。学校を代表して学習奨励費をもらうのですから、それぐらいのすばらしい成績は取って当然です。かろうじて合格とか、ましてや赤点など、学習奨励費受給者として、絶対に許されるものではありません。でも、漢字が苦手だとか、作文は嫌だとか言って、努力を怠る学生がそこかしこにいます。そんな学生が名前を書いていたら、真っ先に消さなければなりません。

そして何より、この1年間、学校全体を引っ張ってくれそうな学生を選びたいです。卒業まで模範生であり続けるのは苦しいことだと思いますが、周りからの期待やプレッシャーをはねのけられた学生は、進学でも自分の思いを成し遂げています。

申し込みは、来週初めまで受け付けています。ぐっと絞って珠玉の数名になったら、最終面接に取り掛かります。

下手

4月11日(木)

私は速く走るのが下手です。(1)  私は単語を覚えるのが下手です。(2)

この2つの文、いかがでしょう。違和感があるのではないでしょうか。(1)は、“私は速く走れません”“私は走るのが遅いです”あたりが妥当だと思います。(2)は、“私はなかなか単語が覚えられません”“単語を覚えるのは大変です”などというほうが自然な言い方ではないかと思います。

(1)も(2)も、学生が宿題の答えとして書いてきた文です。言いたいことはなんとなくわかるけど、日本人はこうは言わないでしょう。上に示したように直すのは簡単ですが、じゃあ「下手」とはどんなときに使うのでしょう。

サッカーが下手です。シュートが下手です。パスが下手です。サッカーをするのが下手です。シュートを打つのが下手です。パスを出すのが下手です。絵をかくのが下手です。字を書くのが下手です。絵が下手です。字が下手です。いかがでしょう。「下手」を「上手」に替えたらどうでしょう。

「英語が下手です」といったら、どんな人を思い浮かべますか。英語の成績が悪い人? 英語が話せない人? 英語が読めない人? 英語の発音が悪い人?

「数学が下手です」「文法が下手です」なども、学生がよく言ったり書いたりするのですが、何が言いたいのでしょう。「料理を食べるのが下手です」と言った学生に真意をただしたところ、「おいしいと評判の料理を食べてもあまりおいしいと感じないから、自分の味覚は変だ」と言いたかったとのことでした。

「下手」に限らず、私たちが何気なく使っている言葉を深く追求していくと、際限のない深みにはまっていきます。私はその深みにはまるのが好きです。

哀れな末路

4月10日(水)

前の学期に習った文法の復習問題を宿題に出しています。もちろん個人差もありますが、文法項目による定着度の差の方が大きいように感じます。「とばたらなら」はやはり難関らしく、使い分けや使用制限などがあやふやな学生が多いです。それに対して、「かもしれません」や「(した)ほうがいいです」などは、間違える学生があまりいません。

正直言って、「とばたらなら」は上級でも怪しげな使い方をしている輩が多数います。読んだり聞いたりしたときはわかるけれども、自分が使うとなると勘に頼ってしまうのが実情なのでしょう。最初に習った時にきちんと覚えられれば理想的なのですが、そういう流れに乗れなかったときに挽回する機会がなかなかありません。OJT的に使いながら身に付ける、“習うより慣れろ”方式になってしまいます。でも、自信がないから使うのを避ける、だからいつまでたっても使えるようにならない、だから自信が持てないという悪循環に陥っている面も否めません。

“とばたらなら”に限らず、私はそういう末路を知っていますから、授業中に学生の言葉尻をとらえては既習の文法で言い直させたり、作文で思い切り書き直しを命じたりしています。逆に、みんなが使えない文法をきちんと使った発話があったら、「この文法はこういう時にこんなふうに使うんだよ」とクラス全体に紹介します。

昨シーズンの受験結果は、もはや「読めばわかる」では通用しないことが明らかになっています。コミュニケーション能力が求めらるのです。それを勝ち抜くには、みんなの日本語の文法ぐらいは使いこなせるようになっていなければなりません。でも、みんなの日本語の文法が自在に使えたなら、入試の面接は心配不要でしょう。

明日、宿題を返す時に、そんな注意をしましょう。

半年差

4月9日(火)

今学期はEJUが控えているため、始業2日目から受験講座が始まりました。私の火曜日は、生物。2クラスあり、1つは今学期の新入生、もう1つは去年の10月期から勉強している学生のクラスです。今学期の新入生といっても上級に入っていますから、去年の10月期からの学生より日本語レベルは上です。

新入生クラスの学生たちは、国で生物を勉強してきたと言います。ある程度自信を持っているようでもありました。しかし、国の言葉ではなく日本語で生物を勉強するとなると、動植物の名前をはじめ、見慣れぬ言葉だらけです。細胞の構造という生物の基本の基本についての話でしたが、大変な重荷だったようです。日本へ来て半月もたたないうちから、自分たちにとっては外国語である日本語でかなり高度な話を聞いて理解しなければならなかったのですから、授業後にいかにも疲れたという表情になったのもやむを得ないところでしょう。同時に、「とても勉強になりました」と言ってくれたので、相当な刺激にもなったのでしょう。

10月期からの学生たちは、先月までにEJUの生物の範囲を一通り勉強したので、今学期は過去問に挑み続けます。40分時間を与えて解かせたら、みんな35分ほどでできてしまいました。答え合わせをしても、こちらは余裕が感じられました。正解以外の選択肢の解説にも強い関心を示していました。学生たちの生物をとらえる目が広がってきていることを感じました。

半年前、この学生たちが初級で生物の勉強を始めた時は、日本語の問題文が全然理解できず、困り顔しかできませんでした。それを思うと、長足の進歩です。新入生クラスの学生たちも、早くここまで到達してもらいたいです。

結論変わらず

4月8日(月)

Sさんは先学期私のクラスにいた学生です。文法の成績が悪く、今学期、もう一度同じレベルをすることになっています。このことをSさんに連絡したのが先月末。何の反応もないので、Sさんはもう一度同じレベルということを受け入れたのだろうと思っていました。

ところが、新学期が始まってから、同じレベルは嫌だと言い出しました。というか、メールでそう訴えてきました。その文面がどんなに素晴らしくても、新学期が動き出していますからレベルを変えるわけにはいきません。ですが、Sさんの文章は、もう一度同じレベルをしてもやむを得ないなと思わせられる内容でした。今まで習った文法や語彙も使いこなせていないし、こちらが進級を考えるに値する新たな事情が含まれているわけでもないし、言ってしまえば情に訴えようとするものでしかありませんでした。

たとえ私が周りの先生方に頭を下げまくってSさんを進級させてたとしても、そこの授業についていけるとは到底思えません。結局、7月の学期にもう一度同じレベルをすることになります。だったら、基礎をしっかり固めてから進級した方が、将来の伸びが見込まれます。

…というのは教師の論理で、学生は同じレベルをもう一度というのを極端に嫌がります。でも、無理やり上がった学生、お情けで進級させた学生が、その後順調に日本語力を伸ばしたためしがありません。学生は目の前の進級にこだわりますが、教師は長期的に見てどうなのかということを判断基準にします。Sさんは大学院進学希望ですが、少なくとも先学期のSさんの話し方や文章や、もっと幅広くコミュニケーション能力は、大学院入試にたえられるものではなく、穴だらけの基礎で研究計画書を書いても口頭試問を受けても、不合格は疑いないところです。昨今の厳しい入試事情なら、なおさらのことです。

先ほどもSさんからメールが来ましたが、昼間のメールと変わるところがありません。Sさんは納得しないでしょうが、同じレベルをもう一度するという結論を変えるつもりはありません。

入学式挨拶

皆さん、ご入学おめでとうございます。このように多くの若者が、世界中からこのKCPに入学してくださったことをとてもうれしく思います。

さて、KCPに入学なさった皆さんに課せられた義務は何だと思いますか。それは、毎日学校に出席することです。皆さんのビザは、一部の方を除いて、留学のビザです。そのビザは、KCPで勉強するために皆さんが日本に長期滞在することを許可するという効力を有しています。KCPで勉強しなかったら、KCPの授業に出席しなかったら、皆さんの長期滞在の大前提が崩れてしまい、ただちに帰国しなければなりません。これが、日本の入管法の精神です。そのほか、学校を欠席したことによって生ずるいかなる不利益も、皆さん自身の責任において処理しなければならないのです。学校は、皆さんに出席を促すことまではします。しかし、それ以上のことは、しませんしできません。

以上が、法律的な面から見た「出席すること」の義務の意味です。これに加えて、学校に出席することは、将来の皆さん自身に対して今の皆さん自身が果たすべき義務でもあります。

非常に残念なことに、今年の3月の卒業生の中に、出席率が悪くて希望の学校に進学できなかった学生が少なからずいました。入試で優秀な成績を挙げても、出席率が悪かったらまじめに勉強する気持ちのない学生だと思われ、また、合格させてもビザが下りないだろうと判断され、不合格にされてしまいます。出席率の数字は、皆さん以外の誰にも変えることはできません。ひとえに皆さんの努力にかかっているのです。

つまり、学校を欠席することは、自分の手で皆さん自身の将来を狭めていることを意味します。自ら進んで暗闇に身を投じるようなものです。若者には無限の可能性があるとよく言われますが、将来の自分に対する義務を果たさない若者には何の可能性もありません。AIの僕に甘んじて細々と暮らすしかないでしょう。その期に及んで、KCPでもっと勉強しておけばよかったと後悔しても、過ぎ去った歳月は取り戻せません。

皆さんは留学生活に夢を抱いてこの場にいることでしょう。でも、何もしなかったら、夢は夢のままです。楽な道ばかり選んでたどり着けるような夢は、それなりの小さな成功しかもたらしません。皆さんの夢を実現するためにまず必要なことは、学校に出席することです。学校は楽しいことばかりとは限りません。プライドがずたずたに引き裂かれることだってあるでしょう。学業面に限らず辛い目にあうことも1度や2度ではないでしょう。しかし、出席し続けた向こう側には、必ずや成長した皆さんの姿があり、夢への道筋がくっきりと浮かび上がっているはずです。

皆さんがそこに至るまでのお手伝いができることは、私たち教職員一同の非常に大きな喜びでもあります。

皆さん、本日はご入学、本当におめでとうございました。

ある帰国

4月5日(金)

新学期の準備をしていると、卒業生のWさんが帰国のあいさつに来ました。専門学校を卒業し、国の会社に就職するのだそうです。その会社とは、日本人なら誰でも知っているM社の海外支社で、職員室にいた先生方全員、すごーいと思わず感嘆の声を上げてしまいました。その声を聞いたWさん、ちょっぴり誇らしげでした。

就職後は、専門学校で勉強した知識や技術を生かして、新商品の開発に取り組むようです。日本の本社にも出張があり、その時にはまたKCPに顔を出すと言ってくれました。Wさんの凱旋を心待ちにしていましょう。M社は人口減で先細り感のある日本市場よりも、海外での事業展開に注力しています。そういう意味で、WさんはM社のエリートコースに第一歩を踏み出したのかもしれません。

KCPの学生たちは、多くが日本で大学や大学院に進学しようと考えています。その先はどうなのかというと、特に大学進学を目指している学生は、まだ若いということもあり、漠然としています。最終的には日本で就職したいとか日本の会社で働きたいとか言っていますが、どこまで強くそう念じているかは疑問です。

日本の会社に入ることが最終目標なら、日本の大学や大学院に入ることはその手段にすぎません。Wさんのような道もあるのです。むしろ、そちらの方が確率が高いかもしれません。KCPとしては、1人でも多くの学生が“いい大学”に入ることが、学校としての実績につながりますから、ありがたいです。でも、学生の人生というスパンで考えた場合、それでいいのかどうかわかりません。

そんなことより、私はWさんの日本語に感心しました。社交辞令ですけどもなどと言いつつ、心配りのある言葉が次々と出てきました。できる学生でしたが、さらに磨きがかかった感じがしました。専門学校の2年間、中身の濃い勉強をしたことが容易にうかがわれました。

明日は、新たな夢を抱いた学生たちが入ってきます。

りょっこう

4月4日(木)

Fさんは、できない学生ではありませんが、発話をさせると早口で言ったり文末まではっきり言わなかったりすることが多いです。そこをしつこく意地悪く何回も言わせてみると、個々の単語の発音が不正確なことが明らかになってきました。怪しいと思われる単語を漢字で書いてフリガナを振らせると、ものの見事に間違っているものばかりでした。漢字を見れば意味がわかるからいいやと思って、読み方を正確に覚えてこなかったのです。

「旅行」に「りょっこう」と振るんですよ。違うと言うと、「りょうこう」になり、「りょうこ」「りょうごう」「りゅうごう」と、近いところを行ったり来たりするばかりで、いかにもあてずっぽうという感じでした。こういうのが積もり積もって、「りょっこにいたよです(旅行に行ったようです)」なんてなってしまうんですね。そりゃあごまかしたくもなりますよ。

このままでは、Fさんは面接官に自分の優秀さを認めてもらうことなく、受験競争の敗者となるでしょう。忸怩たる思いで第4志望ぐらいに入るか、夢破れて帰国するか、明るい1年後を思い描くのは難しいです。最近は、定員厳格化の影響で、東京近郊の大学は買い手市場で、“落とす面接”が常態化しつつあります。Fさんなど、その格好の餌食になりかねません。

新入生のプレースメントテストがあり、ペーパーテストではレベル判定できない学生は面接をしました。残念ながら、Fさんのような話し方をした新入生が何名かいました。1年で進学したいと言っていましたが、かなり厳しく指導を覚悟してもらわないと、その野望は潰えてしまうでしょう。

研究熱心

4月3日(水)

日本語の授業は来週からですが、私の場合、昨日から養成講座の講義が始まっています。4月は文法の授業がしばらく続きます。日本人に日本語文法を教えるのは、わかっているつもりでいる人に全然わかっていないんだよということをわからせることです。全く意識せずに使っている日本語をきっちり意識させ、理詰めに考えていく癖をつけさせる仕事だとも言えます。

日本語教育能力検定試験の合格を考えると、文法体系をたたき込んでいくことが第一でしょう。しかし、私は実際の学習者がどうなのか、どんな間違いを犯しやすく、何が理解しにくいかも話していきます。ここでつまずく学習者が多いとか、こんな誤用が多いとか、そういうことが語れるのが、実際に教えているものが養成講座の教壇に立つ強みだと思っています。そういった、学習者が引っかかるところをいかにして乗り越えていくかは、各レベルの教授法や授業見学や、最終的には教壇実習を通して身に付けていってもらいます。

また、みんなの日本語をはじめとする文法の教科書にきっちり載っている文法と、文法項目として明記されてなく、なんとなく覚えることになっている事柄とがあります。初級文法でもなんだかごまかされちゃったみたいなのもありますが、上級文法と言われているものの中には、読解のテキストなどに出てきたときに見逃さずに捕まえて解説しなければならない項目もあります。そういうことに対する感度を磨くのも、私の授業の役割だと思っています。

期末テストの点数が合格点にちょっとだけ足りなかった学生の相手をしていると、養成講座で語るネタがザクザク出てきます。もちろん、日々の授業の際にも、がっちり取材させてもらっています。もう一歩足りなくて同じレベルを繰り返す学生を1人でも少なくできるような教師を育てるために、学生を見ながら研究しています。

令和に思う

4月2日(火)

新しい元号が「令和」と決まりました。私は菅官房長官の発表を生で見ることができず、後で「ホーレーのレーとなごむで“レーワ”と決まりました」とアナウンスで知らされました。“なごむ”はともかく、“ホーレー”といえば、私のような理系人間にとっては、まず、“放冷”であり、だから、最初、“冷和”という文字が思い浮かびました。さすがにそれはないだろうと思い、“法令”を思い浮かべ、“令和”に至りました。

その後の画面や写真などに映し出されている“令和”の筆文字が、まさにこの稿の印刷字体の“令”でした。KCPではひとやねの下に点を打ってカタカナのマという、手書きの字体を書くように指導しています。あれだけ堂々と世界に向けて手書きの“令”を示されてしまっては、ちょっと商売しにくくなりますね。

“令和”は万葉集を典拠とすると発表されたため、万葉集が急に売れ出したそうです。私は、古文漢文はからっきしですから、万葉集を改めて読もうなどとという気は全く起きません。新聞に出ていた“令和”のもとになった文を読みましたが、よくわかりませんでした。安倍さんは日本の古典から元号を採ったことにご満悦のようですが、私には“平成”のほうがわかりやすかったです。

典拠は国書ですが、私は“令”という字そのものに強い“中国性”を感じます。万葉の時代にこんなにまで“やまと”らしくない言葉づかいがあったのかと、むしろ感心させられました。中国の文化を未消化のまま、現代のカタカナ語のような気分で、万葉集に書き込んだのでしょうか。

私は新天皇と同い年(学年は、あちらの方は早生まれですから、私は1年下)ですから、改元をこの目で見られるのは、おそらくこれが最後でしょう。今上天皇より早くご退位なさるなら話は別ですが…。ですから、改元フィーバーと天皇即位のもろもろなどを、じっくり味わっておきたいと思っています。…と言いつつ、10連休は遊びまくる計画を立ってているんですがね。