Category Archives: 生活

心が狭い?

4月9日(火)

昔はよく車を運転しました。住んでいたのが山口県で、道路状況が著しくよかったのもその一因です。会社から帰って来てから軽く100キロドライブとか、休みの日に山口県一周とか、意味もなく車で出かけたものです。高速道路を使わずとも、渋滞にはまることなく運転そのものが楽しめました。

東京に住むようになってからは、車の運転は縁遠いものになりました。それどころか、バスも含めて車そのものに乗らなくなりました。長い休みに旅行した時ぐらいでしょうかね。

先週入院した時、病室の窓から病院の駐車場が見下ろせました。次から次へと車が来て駐車スペースに止められていくのですが、その止め方にツッコミを入れていました。「アホ! ハンドルの切り方が逆だ」「そんなところからバックしたら隣の車にぶつかっちゃうだろう」「何トロくさいことやっとるんじゃ。車2台待ちくたびれとるぞ」…。中にはほれぼれするような止め方もありましたが、一言物申し上げたくなる動き方をする車がほとんどでした。

私は支配欲が強いんでしょうかね。バスなんかに乗っていても、「こら、黄色で突っ込む気か。渡り切る前に赤になるぞ」「小型車1台ぐらい、前に入れてやれよ」「ここは追い越し車線に逃げるのが常道だろう」「何で右折するんだ。まっすぐ行った方が近いじゃないか」などと、心の中でわめき続けています。バスの運転手さんの方が、運転がうまいに決まってるのにね。

東京でライドシェアが解禁されました。でも、私なんかライドシェアを使ったら、目的地に着くまでにへとへとになってしまうに違いありません。運転のしかただけでなく、道の選び方にも文句をつけかねません。この性格を直さない限り、ライドシェアを使いこなすことはできないでしょう。

自動運転の車に乗ったら、どうなっちゃうのかな。

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入院記

4月6日(土)

先週のこの稿でお知らせしたとおり、月曜日から木曜日まで入院していました。病魔に侵されよれよれになって入院したわけではなく、放っておくとまずいことになるかもしれない、いわば病気の元を予防的に取り除くためでしたから、病棟の他の患者さんたちには申し訳ないくらいぴんぴんしていました。

入院した1日は、簡単な検査をいくつかしただけでした。ベッドを起こしたり倒したり機能を確かめた後はすることがなく、200ページ余りの本を読み終えてしまいました。そして、ブリの煮つけの夕食をいただいて、就寝時刻の夜9時を迎えました。病棟は暖房がよくきいていて、布団の中に入ると暑いくらいでした。

手術日の2日は、朝6時半から飲食禁止でした。熱と血圧を測って手術衣に着替えるとほかにすることがなく、2冊目の本を読み始めました。9時過ぎに看護師が迎えに来て、手術室まで歩いて移動。手術開始直前までメガネをかけていてもいいとのことでしたから、手術室をじっくり観察させてもらいました。ドラマなどで見たのと同じように、無影灯に取り囲まれ、帽子とマスクで表情がわからない手術スタッフに見つめられ、麻酔薬が腕から注入されました。ああ、こうやって気を失うんだなあと思いながら、鼻からガスも吸わされ、意識がなくなりました。

その次の記憶は、「金原さん」と起こされた時でした。入院前の手術オリエンテーションみたいなときに、麻酔から覚めると吐き気を催したり体の自由が利かなくなったりすることがあるかもしれないと言われましたが、そんなことは全くなく、手術はうまくいったんだと、手術室を出る前に勝手に確信してしまいました。

病室に運ばれてスマホの時計を見ると、12:01でした。正味の手術時間は2時間弱だったでしょう。事前に先生に言われた通りでしたから、安心材料がまた増えました。

ところが、ここから6時間ベッドで安静にしていろと言われ、これが最大の苦痛でした。点滴のチューブがつながっていますから、自由には動けません。麻酔はもう切れていますから眠くもありません。私はスマホで時間つぶしをする人間ではありませんでしたが、スマホに頼らざるを得ませんでした。でも、ここで大問題が発生しました。私は左手でスマホを操作しますが、その左腕に点滴の針が刺さっていますから、動かし続けることはためらわれます。そういえば、入院時に病棟に入るとき、「利き腕ではないほうにタグをつけます」と言われ、左手首にタグをつけてもらいました。こんな目に遭うなら、左腕の自由を確保しておくべきだったと後悔しました。右手1本でページをめくりながら、2冊目も読んでしまいました。

6時になり、ようやく立ち上がってもいいと言われ、足を床に付けました。全くふらふらすることもなく、トイレまで行って、用を足してきました。点滴で水分をたっぷり補給されていましたから、膀胱が破裂しそうでした。この日は、食事は全くなし。口の中の手術でしたから、しかたがありません。

3日朝は、待ちに待った食事がでました。3食全粥でしたが、おかずは普通のものでした。肉や魚の塊も出ましたが、手術したのとは反対側の歯で普通に噛んで食べました。

この日は左手が自由に使えましたから、スマホで5月の連休と夏休みの旅行の計画を練りました。それだけではありません。紅麴事件についても調べました。私はサプリは一切口にしませんが、事件について知ると、それで間違っていなかったと思えてきました。でも、スマホを長時間眺めていると、ドライアイの症状が現れてきました。スマホの画面より本の活字の方が目に優しいのでしょうか。でも、本は最後の1冊となっていましたから、大事に読まなければなりません。病室の窓から桜が見えるかなと思って探しましたが、見つかりませんでした。

4日、退院手続きや支払いを済ませ、せっかく慶應病院に入院したのですから、入院中の穴埋めをしてくださった教職員のみなさんへのお礼として慶應グッズでも手に入れようとしました。しかし、病院の売店には手ごろなものはなく、総合案内の方に聞いたら医学部の生協まで行けば何かあるかもしれないとのことでした。そこまでする気は湧かず、うちに戻りました。

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緑の落ち葉

3月27日(水)

このところ、春雨前線と言ってもいいような前線が太平洋岸に停滞し、パッとしない天気が続いていましたが、久しぶりに抜けるような青空が広がりました。昼間に外に出たら、日の光の強さ、まぶしさに驚かされました。桜の開花は遅れていますが、お天道様はもう春の装いなのです。

だから、私が出勤する時間帯も結構な明るさで、もはや夜明けではなく、完全な朝でした。

毎朝出勤すると、学校の前に落ちているゴミを拾います。吸殻はほぼ毎日、食べ物の包装材や紙くず、缶、ペットボトルなどを拾い集めます。時々、マスクも捨てられています。先週は、強風で道路の白線がはがれて学校の前に散らばっていましたから、1か所に集めておきました。

昨年の秋の終わりごろからでしょうか、きれいな緑の葉っぱが落ちているようになりました。触って確かめるまでもなく人工物です。どこから飛んでくるのだろうとあたりを見回しても、それらしき発生源は見当たりませんでした。どこかの打ちの庭先かベランダにあれば疑似観葉植物でしょうけど、KCPの前まで飛ばされてきてしまっては、もはやゴミです。美観を整えていたものが、ほんのちょっとの旅の末に、美観を損ねると私に拾われ、ゴミ箱に直行です。気の毒な気もしますが、しかたありません。

毎朝拾う緑の葉っぱのルーツが気になっていたある日、6階の外階段からぼんやり外を見ていたら、校庭をはさんだ隣のマンションの屋上近くに、あの葉っぱの茂みがあるではありませんか。そこからだとすると、飛ばされたというより舞い落ちたと言うべき軌跡を描いて学校の前までやってきたことになります。

毎朝2、3枚ずつ、風の強い日はもう少し拾っています。塵も積もればというやつで、すでに相当な枚数がKCPのゴミ箱をにぎわせています。1か月ごとぐらいに散った分を補っているんですかねえ。今朝は、雨で拾えなかった昨日おとといの分もあわせて7枚拾ったんですけど…。

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主が消える

3月26日(火)

Nさんが卒業しました。アメリカのプログラムで1年半日本語を勉強してきました。授業以外のクラブ活動にもどんどん参加し、卒業式の演劇部の公演では、主役を演じました。そんなこんなで、今やKCPの主みたいな感じがします。

非漢字圏から来たNさんは、中国の学生などに対しハンデを背負っていました。そのハンデを、努力によって跳ね返した1年半と言えるでしょう。勉強に疲れた時もあったに違いありませんが、そんなそぶりはみじんも見せず、クラスの友達はもちろん、それ以外の学生たちを元気づけてきました。Nさんのまわりには自然に学生が集まってきました。

夕方、アメリカのプログラムの修了式がありました。修了証書を受け取ったNさんは、感極まった様子で涙をこらえていました。苦しい思い出も楽しい思い出も、いくらでも湧き上がってきたのでしょう。そんなNさんを見送りに、多くの在校生が集まりました。慕われていたんですね。

修了式後も、お世話になった各先生というか、職員室の全教職員ひとりひとりにお礼を述べに回っていました。1年半も、授業以外でも大活躍をしてきたのですから、なんたって主ですから、知らない教職員なんていません。私も温かい御礼の言葉をいただきました。

そんなことをしていたら、6年前の卒業生Jさんが来ました。昨日D大学の大学院の修了式があり、4月から社会人だそうです。修士論文も見せてくれました。入社した会社の様子を聞くと、有名ではなくても有望そうな会社で、Jさんの未来が輝いて見えました。

日本で進学するNさんも、何年か先にJさんのような姿を見せてくれることでしょう。故郷じゃなくて母校に錦を飾ることを期待しています。

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骨を折る

3月23日(土)

日曜日に母が亡くなりました。母がいた老人ホームの方によると苦しんだ様子はなく、医者の診断によると死因は老衰でした。91歳ですから、寿命と言うべきでしょう。

今年のお正月は、歩行器につかまりながらですが、歩くことができました。耳が遠くなり、会話をするのが大変でしたが、意思の疎通はどうにかできました。

その直後、大腿骨を骨折し、手術のために入院しました。手術はうまくいったのですが、ずっとベッドに寝ていたため、生きる意欲みたいなものが衰えていきました。担当医によると、老衰の一環で、のどで肺へ行く通路と胃へ行く通路とをコントロールする弁の働きが鈍くなったため、誤嚥が激しくなりました。口から栄養を取るのが難しくなり、本人の意欲の低下と相まって、体の衰えに拍車がかかりました。

今月上旬、看取りをするという意味で、住み慣れた老人ホームへと戻りました。手術前に病院で見舞ったときは私が手を握ると握り返してくれましたが、退院直後はそういう反応も非常に薄くなりました。そして、まさにろうそくの火が消えるように亡くなりました。

死亡診断書によると、直接の死因は老衰ですが、老衰を促進したのはベッドに寝たきりになったことであり、その原因は骨折です。今まで「高齢者が骨折をすると急に衰える」という話はよく耳にしましたが、母はまさしくその道を歩みました。体が動くということが生きる意欲に直結するんだということを、強く感じさせられました。

この稿をお読みのみなさん、ご高齢の方の骨折は文字通り命とりです。骨を折らないよう、お骨折りください。

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少し復活

2月17日(土)

昨日、4週間ぶりにギプスが取れました。包帯で縛り付けるような感じから、サポーターで軽く足首付近を固める感じになりました。まだ足を全面的に自由に動かせる段階には至っていませんから、歩き方には若干不自然なところが残ります。でも、専用サンダルから普通の靴が履けるように戻ったのですから、大きな改善です。

ギプスの頃は、赤信号にならないうちにと一生懸命歩いて横断歩道を渡っても、小学校に入ったばかりくらいの小さな子供にあっさり抜かされました。しかし、昨日ギプスを外してもらった後、靖国通りの横断歩道を渡ったときは、普通の大人に置いていかれることなく渡り切れました。

とはいえ、骨折以前と同じようには歩けません。ゆうべだって、駅からうちまで歩いた時の疲れ具合が違いました。レントゲン写真を見た医者は、足の筋肉が衰えたため、骨がもう少ししっかりくっついたらリハビリが必要となるかもしれないと言っています。う~ん、結構な大けがだったんですね。昨日の時点で治ったと考えても全治4週間です。全治4週間と言えば、大けがの部類ですよね。

でも、リハビリが必要なら早くはじめて早く元に戻しておかなければなりません。5月の連休は関西遠征をし、飛鳥地方を1日20キロぐらい歩く計画を立てています。航続距離もさることながら、ある程度のスピードも要求されます。山越えのコースの日もありますから、足が動かないのでは話になりません。来週からは、エレベーターを使わずに、階段で教室まで行き来することにしましょう。

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報われた努力

2月1日(木)

昨日の漢字の授業で「長年の努力が報われた」という例文を勉強していますから、今朝の3分会話は「努力が報われた経験」というテーマで話してもらいました。学生の様子を見ていると話したいことがあるみたいでしたから、3分の予定が5分ぐらいになってしまいました。

学生同士の話を止めて、何人かの学生に「努力が報われた経験」を聞きました。すると、勉強を頑張った結果、成績が上がったとか志望校に進学できたとか試験に受かったとかといった系統の話が出てきました。20年前後しかない学生の人生経験なら、やむをえないとことでしょうか。

中にはコンクールで優勝したというのもありましたが、勉強に偏っていたということは、学生たちは国で勉強以外のことはあまりしてこなかったのかもしれません。学生たちの国は、受験競争が日本以上の厳しいですから、そうなってしまうのも当然だとも言えます。

日本の高校生はどうなのでしょう。クラブ活動や趣味の世界での努力が報われた経験を語ってくれるでしょうか。小学校から受験勉強一筋だったら、このクラスの学生たちと同じような話をするのかな。大学生なら、いわゆる“ガクチカ”を語ることになるのでしょう、幾分盛りながら。

努力が報われたとは、やはり成功体験です。若いうちの成功体験は人を成長させますが、KCPの学生たちは成功体験が希薄なようです。昔ならアルバイトで成功体験を積むこともできましたが、最近の学生はアルバイトをしなくてもいい学生が大半です。これが学生たちの弱点にならなければいいのですが…。

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魔法の杖

1月22日(月)

土曜日にK先生からお借りした杖を持って銀座線に乗ると、席を譲ってもらえました。新宿御苑前から赤坂見附までの丸ノ内線は、高々数分ですから、どっしり腰を落ち着けてしまうと立ち上がる時にかえってしんどそうなので、ドアの際に立っていました。

赤坂見附から上野までは20分ぐらいありますから、実質片足で立ち続けるのは避けたいと思っていました。しかし、入ってきた銀座線はいつもより混んでいるくらいでした。ですからドア際の手すりを確保して姿勢を整えたところ、すぐそばに座っていた若い女性が「どうぞ」と声をかけてくださいました。

私もこういう場面で席を譲ろうとして断られてなんとなく気まずい空気を感じたことがありましたから、ありがたく席に着きました。席を譲ってくださった女性は、新橋か銀座で降りたようです。彼女が降りる時にもう一度お礼を言おうと思っていましたが、見逃してしまいました。

金曜日は杖を持っていませんでしたから、優先席のそばに立ったものの、席を譲ってもらえませんでした。杖の威力は偉大です。逆に考えると、杖を持っていないけれども席を必要としている人が、今まで私の周りにも結構いたということになります。席を譲ることはやぶさかではありませんが、私は席に着くと本を読むことに熱中しますから、譲って差し上げるべき人がそばにいても見逃していたことは多々あるに違いありません。

当分はステッキパワーで席を譲ってもらうとして、足が元に戻ったらちょくちょくあたりを見回して恩返しをしていきたいものです。

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骨折

1月19日(金)

昨日の夜、家の近くのスロープを下りていたら、左足をくじいてしまいました。「痛い!」と思いましたが、どうにか歩けましたから、足を引きずりながら家まで帰りました。

風呂に入り、寝て、今朝になると、痛みがひどくなっていました。左足に体重をかけると、痛みが走ります。昨日はまだすたすたと歩けましたが、もう無理でした。でも、午前中、代講が利かない授業を2つ抱えていますから、匍匐前進してでも学校までたどり着かなければなりません。いつもの半分ほどの歩幅で駅に向かいました。駅では、いつもは使わないエスカレーターに乗り、ホームに出ました。

電車は、なんたって早朝ですから、楽勝座れました。しかし、乗換駅では、いつもはダッシュしてきわどいタイミングの電車に乗り込むのですが、もちろんそんなことはできません。そろりそろりと歩いて、いつもより1本遅い電車に乗りました。御苑の駅から学校までも、牛歩戦術でした。いつもは、家から学校まで、スマホの歩数計で1700歩あまりですが、今朝は3300歩を超えました。やはり、歩幅が半分なのです。

教室まで行くのも、いつもは絶対に乗らないエレベーターのお世話になりました。どうにか授業をこなし、午後、学校の近くの整形外科へ行きました。靖国通りを渡る時は、次の青信号まで待ちました。通りの真ん中に取り残されたら寿命が縮まってしまいます。

レントゲンを見た医者は、「足の小指の骨が折れてますね」と一言。痛いわけです。靴を脱がされ、足を固定してもらい、帰ってきました。全治4週間。意外と重かったです。「ほっときゃ治るよ」なんて思わないでよかったです。

さて、これから足を引きずりながら帰ります。固定された足には、整形外科で貸してもらったサンダルが。乗換駅の階段が辛そうだな…。

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声に記憶あり

1月9日(火)

養成講座の授業を終えて1階に戻ると、G先生から「先生、卒業生のHさんが来てます」と声をかけられました。G先生が指し示す方を見ると、2人が私を見てお辞儀をしました。名前を聞いても顔を見ても、その人たちが誰か思い出せませんでした。

「先生、お久しぶりです。Hです」という声を聞いて、「あーあ」と線がつながりました。聞けば、6年前の卒業生というではありませんか。もう1人は、結婚相手でした。こちらは初級でやめてしまった学生で、私が担当していたレベルまで上がる以前にKCPを去ったようです。

若者が6年経てば、ずいぶん変わるものです。顔をよく見れば確かにその当時の面影が感じられますが、名前と顔だけでは記憶は呼び起こせませんでした。また、いい学生は概して記憶に残らず、悪い学生ほど強い印象を残します。Hさんは、クラスで一、二を争ういい学生でした。

それからしばらくして、「先生、卒業生だそうです」と、また呼ばれました。受付から親しげな笑顔がこちらに向けられています。「もしかして、Aさん?」と半信半疑で近づくと、「先生、やだなあ。忘れちゃったんですか。Aですよ」。こちらも、その声を聞いた瞬間、確信できました。声って偉大な力を持っていますね。

Aさんは12年前に卒業したと言いますから、東日本大震災の頃の学生です。あの頃の未成年は、今は立派な中年で、日本で結婚し、会社も始めていて、立派に根付いています。日本語は、臨機応変にぼけたり突っ込んだり、顔さえ見なければ日本人に聞こえます。大学を卒業するまでは、だいぶ苦労したそうですがね。

今、私が教えている学生たちが、数年後かもう少し経った頃、HさんやAさんのようになっているでしょうか。FさんはHさんのタイプかな。BさんはAさんと同じような道を歩むんじゃないかな。あれこれ想像してみました。学生がどうなるかよりも、10年後に私がこの学校にいるかどうかの方が、ずっと大きな問題のような気がします…。

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