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式と文

11月28日(月)

理系の学生の大学独自試験対策として、理科の筆記問題のクラスを始めました。EJUの選択肢の問題とは違った力が必要になりますから、短期間ではありますが、国立大学などを目指す学生のために始めました。

物理は、答案の書き方の指導が中心です。単に式の羅列に終始するのではなく、どういう発想でその式を導き出したのか、どういう理論・法則に基づいて式を立てたのかを明示しなければなりません。学生たちはここができません。先学期の受験講座でも扱ったのですが、指導が不徹底だったので、今回は厳しく指導していくつもりです。学生たちからは、ここまで書かないとだめなのかという声が挙がりましたが、式を並べただけでは減点されても文句は言えないと答えると、おとなしく私の板書を写していました。

私が大学受験するころは、式を立てるときにはどういう文字をどういう意味で使うのかきちんと断らなければならないとか、公式の名前は必ず書けとか、うるさく指導されました。でも、そのおかげで自分の考えを答案の形に表現することができるようになりましたし、それは、今、学生たちに問題の解き方を説明する時に非常に役立っています。物理を語る言語は数学であるとはよく言われますが、コミュニケーションツールは答案だとも言えるのではないでしょうか。

生物は文章で答える問題を中心に扱いました。EJUの問題と一番大きく違うのが、こういう問題です。グラフや実験結果の解釈を言葉で表現させる問題は、どこで出されるかわかりません。留学生には完璧な日本語は要求されないでしょうが、キーワードが含まれていなかったら、筆記問題の答えとしては致命的です。

EJUの理科は、問題自体は優れたものが多いと思いますが、それが選択肢問題になっているために「?」月になってしまっているきらいがあります。大学独自試験における筆答方式の問題は、その欠点を補うものであるのと同時に、学生に大学に入ってから必要な発想を求めるものだとも思います。ですから、EJUが終わったら、学生にはこちらに力を入れてもらいたいと思っています。

ざる

11月10日(木)

今朝、新聞を取りにマンションの玄関にある郵便受けまで行ったら、思わずブルッと来ました。外は風が強そうでした。東京は昨日木枯らし1号が吹きましたから、そろそろコートとマフラーを出さなきゃと思っていました。新聞を取って部屋に戻ると、すぐにクローゼットからコートを引っ張り出し、衣装ケースからマフラーを取り出しました。

コートにマフラーといういでたちで駅まで早足で歩いても、全く暑苦しさはありませんでした。ただ、マフラーに残っていた防虫剤がどんどん首に突き刺さり、ちくちくしてたまりませんでした。ですから、マフラーは駅に着いたらすぐ取ってしまいました。ゆうべのうちに出しておけばよかったと思いました。でも、天気予報によると、明日は寒いそうですが、週末は小春日和のようです。

日曜日はEJUです。お天気はいいみたいです。学生たちは追い込みに余念がありませんが、あと3日という段階に及んだら、あれこれお店を広げるよりも、今までやった問題で間違えたところをきっちり復習して、同じタイプの問題で再び間違いを犯さないようにすることのほうが重要です。

受験生はとかく新しいことを覚えて点数を増やそうとします。でも、そうしてもいいのは試験の半月前まででしょう。その後は、引っかかった問題をきちんと分析して、次に同系統の問題が出たら確実に点が取れるようにしておくことのほうが、いい結果につながると思います。失点を減らすこともまた、好成績への道です。80点を90点にするには、20点の失点を半分の10点にしなければならないのです。

しかし、留学生は日本人の高校生に比べて、失点を減らすという考えが薄いように感じます。アドベンチャー精神に富んでいるからこそ留学したのでしょうから、失点を減らすよりも新たな分野を開拓して点数を増やそうと考えるのかもしれません。それでも、失点を防がないと、ざるで水を汲むようなものだと思うのですが…。

暗記で終わらせずに

11月7日(月)

EJUまで1週間を切り、学生たちは追い込みにかかっています。理系志望のCさんも、この1年間の集大成とばかりに、問題を解いたりそれに必要な知識を確認したりしています。ところが、気になることが1つあります。Cさんは公式を覚えることに力を注ぎすぎている点です。どうしてその公式が出てきたかよりも、その公式を丸覚えすることに命をかけているきらいがあります。

確かに、公式を覚えれば、そして正しく使えれば、物理などは問題が早く解けます。しかし、その公式がどういう背景でどういう道筋で導き出されたかを知らなければ、物理を真に理解したことになりません。また、テストでは点が取れて進学もできるかもしれませんが、進学後に大いに苦労することでしょう。苦労するくらいならまだしも、考えることを強く要求される大学の授業についていけなくなるおそれもあります。

公式を覚え、それを使って問題を解くことは、極端なことを言えば反射神経の世界です。しかし、科学の研究は実験と考察の積み重ね、それを論理的にまとめ上げる作業です。新たな公式を生み出す仕事かもしれません。これは、反射神経とは対極にある世界です。ひらめきは必要ですが、それは暗記した公式からは得られません。

そうはいっても、この期に及んで「この公式の裏側にはこんな理論があって…」などと悠長なことはやっていられません。Cさんに公式の暗記をさせてしまった一因は、これまで理科を見てきた私にあります。忸怩たる思いでCさんの公式暗記を黙認するほかありません。

公式とは先人の研究がもたらした珠玉の一滴です。それを暗記という短期記憶にとどめるのではなく、それにまつわる諸々のことどもを知り、長期記憶として頭に刻み込み、それを土台に新しい科学を切り開いていってもらいたいです。これこそが、科学の発展に貢献することなのです。

整理整頓

10月26日(水)

「先生、ちょっとお時間、いいですか」「うん」「この問題、教えてほしいんですけど…」と、GさんがEJUの理科の問題を持って来ました。Gさんが持ってきた問題用紙には、Gさんの字で計算式が書き散らされていました。Gさんが問題文に引っ張ったアンダーラインやキーワードを囲んだ〇や□も入り乱れていますから、問題文を読むだけでも一苦労です。

私が問題文を読むそばで、Gさんが自分の考えを披瀝します。自分なりの考えを伝えようとする点は評価できますが、そのときに、すでに字やら記号やらがあふれている問題用紙に、さらに何か書こうとするのです。こうなると問題用紙は混沌そのもので、Gさんでさえ何がなにやらわからなくなっています。

私もGさんがどこでつまずいているのかわかりませんから、新しい白い紙を渡して、そこに式や図を描くように言いました。すると、「あ、そうか。ここで2倍するのを忘れたんだ」と、Gさんは自分の間違いに気がつきました。

だから、式をきちんとわかりやすく書き直せばいいのに、次の問題に取り掛かるや否や、Gさんは私が渡した新しい紙もあっという間に混沌の渦の中に巻き込んでしまいました。そして、考えの筋道が本人にもわからなくなり、自滅へと突き進んでいきました。

「こんなことしていたんじゃダメだ。ノートにきちんと式を丁寧に書いて、それでもわからなかったら、私のところへ聞きに来い。こんな問題の解き方をしてたんじゃ、EJUで絶対いい点数は取れない」と言って、Gさんの質問を打ち切りました。「でも、先生、EJUのときは式を書く場所がありません」「ある。なかったら自分で作れ」というやり取りの末、Gさんを追い返しました。

自分の間違いに気付くことができるのですから、Gさんは理科系のセンスがない学生ではありません。でも、問題用紙に無計画に式を書き殴って、読解不能に陥っているようじゃ、そのすばらしいセンスも宝の持ち腐れです。式をわかりやすく書くだけで、間違いは半分どころかそのまた半分ぐらいになるでしょう。それができなかったら、いや、そんなことすらできなかったら、理系の勉強をする資格がないと思います。実験記録もまともに残せないでしょうし、データ整理も満足にできないでしょう。

Gさんは、いつ再質問に来るでしょうか…。

ずるいですか

10月25日(火)

私がこの学校で教えている理科は、「受験」講座ですから、純粋な理科だけではなく、時には受験のテクニックも教えます。EJU対策として、マークシート方式の特性を利用したずるい解き方を教えることもあります。

このずるい解き方の説明となると俄然目を輝かせるのがCさんです。ずるい解き方を覚えて、お手軽に点数を稼ごうという魂胆なのですが、なかなかそういうわけにはいきません。

確かに、ずるい解き方を使えば、まじめに考えて計算するより早く答えにたどり着きます。しかし、ずるい解き方は万能ではなく、その問題に使えるかどうかの見極めが必要です。つまり、しっかりした基礎があって、問題の本質をつかむだけの実力を持っている人だけが、ずるい解き方を使うことができるのです。

学問に王道なしというとおり、EJUの本番で楽をしようと思ったら、その前に血のにじむような努力が必要なのです。Cさんのように、おいしい果実だけ盗み取ろうとしても、そうは問屋が卸しません。

私がある程度の実力を持ったが学生にずるい解き方を教えるのは、ずるい解き方の根底に物理や化学や生物の真髄が隠されているからです。正攻法とは違った角度から問題となっている現象を見ることで、今まで気づかなかったその現象の一面が浮かび上がってくることがあります。それを学生たちに感じ取ってもらいたいのです。そして、それを感じ取ることで、勉強した項目の意外なつながりを発見することもあります。

実力がある臨界点を超えると、このずるい解き方を自在に活用できるようになり、さらに点数が伸びていきます。強い人がより強くなるのです。お金持ちのところにお金がさらに集まるのと似ていなくもありません。Cさんは臨界点まであと一歩のところまで来ています。3週間を切った本番までに、超えられるでしょうか。

メタンを乗り越えて

10月18日(火)

世界中には数千かそれ以上の言語があると言われています。しかし、その中で、その言語だけで高等教育までできるのは、ほんの一握りにも満たないとも言われています。日本語はその稀有な言語の一つだとされており、日本人は、それを意識することなく、その恩恵をこうむっています。

だから、留学生も日本語を勉強しさえすれば日本で高等養育が受けられるかといえば、残念ながらそうでもありません。入試科目に英語を課するところが増えてきていることもそうですが、留学生にとってはカタカナ言葉は日本語でも英語でも他の言語でもない、何とも扱いにくい存在のようです。

私が受験講座で扱っている理科の場合、まず、化学に出てくる物質名が厄介の元です。メタン、トルエン、マレイン酸などなど、わけても有機化学は英語の発音とも全然違う、不思議な名前のオンパレードです。化学は理系志望の学生のほぼ全員が受けるだけに、被害は広範に及びます。生物もカルビン・ベンソン回路、ランゲルハンス島など、随所にカタカナの用語があふれていますが、受験生が少ないことと、その受験生が生物に強い学生が多いので、化学ほど甚大な被害はありません。物理は図や式で勝負できますから、被害は比較的軽微です。

有機化学の授業を受けたCさんは、冗談めかして死にたいと言っていました。理科のカンが鋭いだけに、カタカナ語のおかげでそのカンを働かせられないもどかしさを人一倍感じているのでしょう。同情はしてあげられますが、私にできるのはそこまでです。メタンがCH4であることは、自分で覚えるしかないのです。死にたいではなく、死ぬ気で頑張らなければ、日本留学の道は開けてきません。

わかる、わからない

10月17日(月)

Wさんは理科系の学生です。午後、物理の問題がわからないと、私のところへ聞きに来ました。問題を見ただけでどこでつまずいたか見当がつきましたが、一応本人にわからないところを説明させました。ところが、この日本語がさっぱりわからないんですねえ。最終的には、私が見当をつけたところがわからないとわかったのですが、そこに至るまでに、Wさんも私もずいぶん苦労しました。

わからないところがわかってから、そのわからないところがわかるように説明しましたが、わかるように説明したつもりでも、なかなかわかってくれませんでした。Wさんはそんなに物分りの悪い学生ではありません。では、なぜなかなかわからなかったのかといえば、私が思うに、わからないことに焦りを感じて、1秒でも早くわかろうとして、かえってわからなくなってしまったのです。私がちょっと説明すると、わかったということを示したいのか、すぐ式を書いたり図を描いたりしました。でもその式は私の言わんとしたことと違っていましたし、図は的を射ていませんでした。

Wさんがわかったという顔をすると、ホッとするのと同時に、じっくり話を聞いてくれれば半分か三分の一の時間で済んだのにという気持ちが交錯していました。EJUまで4週間を切り、焦るなと言うほうが無理かもしれませんが、こんな調子じゃ実力の伸ばしようがないじゃないかと思いました。急いてはことを仕損じるという言葉通り、こういうときこそじっくり腰を据えて、落ち着いて問題文を読む、考える、人の話を聞くということが、何より重要なのです。

どの面下げて

10月14日(金)

Iさんは学期が始まったばかりなのに、家族が来日するからということで、来週いっぱい欠席するとメールで連絡してきました。無断欠席よりはましですが、1週間以上も授業に出ないと、せっかく進級したレベルの勉強についていけなくなるおそれがあります。この間に平常テストが3つありますから、今学期全体の成績にも影響が出かねません。こういうことを書いて返信メールを送ったのですが、これに対する返事はなく、Iさんは粛々と休み始めました。

Iさんのご家族も、何でわざわざ学期が始まって3日目なんていう日に来日したのでしょう。KCPの学期休みに合わせることはできなかったのでしょうか。自分の子どもの勉強を邪魔しているという意識がないのでしょうか。極端なことをいうと、通訳代わりとして家族と一緒に観光地を歩いていたIさんが、在留カードの提示を求められ、そこに記された「留学」という文字から、ビザの発給目的に反する行為をしているとして捕まっても、文句は言えません。授業時間中にアルバイトしているのと、本質的には変わるところがありませんから。

Iさんの例に限らず、歯医者の予約を入れたとか、インターネットの工事があるとか、そんなの授業時間外にまわせるだろうという理由で欠席する学生が後を絶ちません。人間は楽なほうへと流されていくものですから、そうやって気安く休むと、休み癖がつきます。無為に過ごすことへの罪悪感も薄れてきます。負のスパイラルにはまり込んで、有意義な留学からどんどん遠ざかっていきます。

Iさんは、私が何を言っても予定通り休み続けるでしょう。再来週の月曜日に久しぶりに学校へ出てきたとき、どんな顔をするでしょうか。

期待と夢と

10月12日(水)

新学期の初日は、教科書販売があります。私が担当した超級クラスでも、高いとか何とか言いながら、結局全員買いました。そして、ふだんより少々神妙な顔つきで、名前を書き込んでいました。新しい教科書を手にすると、未知の世界に飛び込むわくわく感が沸いてくるのでしょう。

私も小学校から大学まで、新しい教科書のインクの匂いをかぐと、気持ちが高揚したものです。時にはその教科書は苦難の道への案内書だったりもしたのですが、初めて教科書を開くときは、その教科書をマスターすれば万能の力を手に入れられるような、今思うと実に前向きな勘違いをしていました。

学生たちも新しい教科書にそんな期待をかけているのでしょう。学生は教科書に夢を映して一生懸命勉強すればいいのですが、教師としては、その教科書を使って、学生たちが寄せた期待や描いた夢を実現させていかなければなりません。教科書の字面を2倍にも3倍にも膨らませて、学生たちが想像も及ばなかった景色を眺めさせることが、私たち教師に課せられた責務です。

ところが、前学期の成績が思わしくなく、今学期も同じ教科書で勉強しなければならない学生もいます。その中には、やる気を失ってしまう学生も少なくありません。一度勉強して書き込みのある教科書には、確かに新鮮味はありません。でも、その教科書に見えていなかったところがたくさんあるから、合格点が取れなかったのです。「また同じ勉強だ」ではなく、一回目には見落としたり聞き落としたりしていた点をしっかり自分のものにするんだという気持ちで教科書に接すれば、きっと新たな発見があり、それが高揚感をもたらしてくれます。

幸い、私のクラスは、全員新しい教科書でした。早速、その教科書を使って授業をしました。今までにない刺激を感じたのか、活発な授業になりました。この勢いを期末テストの日まで持続していきたいです。

問題集

10月11日(火)

明日から新学期が始まりますが、毎年10月期ともなると頭を痛めるのが、超級クラスの教材です。留学生向けの教材では歯ごたえがなさ過ぎ、かといって毎日生教材を用意するのでは、教師のほうが身が持ちません。今学期は、日本人の高校生向けの市販問題集を読解の教科書にすることにしました。

独自試験を課する大学の試験問題は、日本人の高校生向けの問題よりはいくらか易しいものの、留学生向けに書かれた文章はもちろんのこと、EJUクラスの文章よりも読むのに骨が折れます。どこで骨が折れるかというと、まず、十数年日本で暮らしていれば知っていて当然だけれども、日本語に触れ始めてから数年にも満たない外国人にとっては理解が難しい内容が取り上げられることがある点です。

例えば、今の高校生は、渥美清が亡くなってから生まれていますから、フーテンの寅さんは生では知りません。しかし、彼らが持っている寅さんに関する情報量は、一般の留学生に比べればはるかに多いはずです。「日本文化が好きです」と言っても、日本文化のいいとこ取りをしてきた留学生と、それにどっぷり漬かってきた日本人とは、おのずと受け取り方が違います。外国人から見た日本観が日本人にとって新鮮なように、日本人がごく当たり前に書いた文章も、留学生にとっては不思議というか時には意味不明なことさえあります。

そういうギャップを埋めるためにも、高校生向けの易しめの問題集は超級の学生にもってこいなのです。単に読解のテクニックを磨くだけではどうしようもない谷間に橋をかけ、学生たちを向こう岸に渡そうと考えています。思惑通りにうまく事が運ぶか、私たちの腕の見せ所です。