速い!

6月28日(水)

サニブラウンという名前を最初の聞いたときは、競馬界に有望な馬が現れたのかと思いました。「速い」ということばとともに語られたので、なお一層そう感じてしまいました。ケンブリッジ飛鳥のときは、芸名で走る陸上競技選手が出てきたのかと思いました。もちろん、今では、サニブラウンもケンブリッジ飛鳥も、世界記録さえ狙える、日本陸上競技界の希望の星であることは十二分に承知しています。

この2人は、母親が日本人で、父親が外国人です。日本の国籍を持っていますから、日本選手としてオリンピックを始めとする国際競技に出場することには全く問題がありません。ケンブリッジ飛鳥は、去年のリオデジャネイロオリンピックで、400メートルリレーのアンカーとして、日本中に感動をもたらしてくれました。18歳のサニブラウンも、東京オリンピックを待つまでもなく、日本国中を沸かしてくれるでしょう。

新大関の高安は、母親が外国人です。確かに日本人にしては立体的な顔つきで、全体的に毛深い感じがしますが、高安を外国人大関と呼ぶ人はいません。稀勢の里に続く日本人横綱を期待する声があがっています。

かつては、日本はかたくななまでに純血主義で、私が子供のころだったら3人ともガイジン扱いだったでしょうね。もしかするとこの3人も学校などでガイジン呼ばわりされたかもしれませんが、今、彼らを純日本人ではないからと言って見下す人はいないでしょう。そもそも、純日本人という概念自体も、渡来人までさかのぼれば怪しいことこの上ありません。

少子化とそれに伴う人口減が進むこれからの日本は、純血主義だけでは社会が成り立たなくなります。外国人が普通に暮らす社会となり、その結果として国際結婚も進み、サニブラウンやケンブリッジ飛鳥や高安がどんどん生まれてくることになるでしょう。

情報源

6月27日(火)

4月に進学した学生の多くが、ビザの変更の時期を迎えています。その手続きに必要な書類を申請しに来校する学生も多いです。当然、近況報告を聞くことにもなりますが、それは私たちにとっては貴重な情報源となります。大学のホームページや担当者の話などからは見えてこない大学の真の姿が見えてくることが多いからです。

Vさんは、ウチの大学は偏差値はそれほどでもないけれども授業は厳しくて、非常に鍛えられている感じがすると言っていました。他の大学に落ちて、そこに入るしかないと決まった時はあまりうれしそうではありませんでしたが、先日来てくれた時は大学らしい学問をしているという自信に満ちた顔つきをしていました。

Hさんは国では勉強できない勉強ができると張り切って進学しました。しかしHさんが進学した学部学科は留学生しかいませんでした。しかも、Hさんと同国人は誰もいません。大学で日本人の友だちを作るという夢も破れ、母語でのおしゃべりで息抜きをすることもできず、期待はずれの大学生活のようです。それでも日々の生活に楽しみを見つけ、留学を続けていこうとしています。

有名大学に進んだYさんは、日本人学生のだらしなさを嘆いていました。せっかくに憧れの大学に進んだのに、勉強しようという気持ちがそがれてしまったとも言っていました。講義そのものには満足しているようですから、今すぐやめてしまうということにはならないでしょう。

まだまだ今までの学生から手に入れた得がたい情報がたくさんありますが、こういう情報は在校生が進路に迷ったときに活かしていきます。オープンキャンパスに行っても見えてこない大学の真の姿、聞こえてこない学生の声、そういうものを伝えて学生が進路を誤らないようにするのが、私たちの役割ですから。

要注意人物

6月23日(金)

昨日の期末テストの作文の採点をしました。将来の自分について書いてもらいましたが、読み応えのある文章とそうでないのとの差がかなりありました。ある先生は、学生の夢のあるなしが如実に現れたとおっしゃっていましたが、確かにそうだと思いました。

私のような年寄りはともかく、学生たちの年代なら誰でも将来の夢を持っているはずです。夢があるからこそ、わざわざ日本という外国で勉強しようとしているのだと思います。しかし、その夢がどれだけ具体的か、夢に向かっての道のりがどれだけ明確かは、それぞれの学生によって違っています。具体的な夢の実現のためには何をすればいいか見えている学生にとっては、昨日の作文は難しい課題ではなかったと思います。それに対して、漠然とした夢しか描けていない学生にとっては、非常に書きにくかったでしょう。

「お金持ちになりたいです」などという話は初級の入口の学生でも書けます。「将来のためにもっと頑張ります」「一生懸命勉強していい大学に入りたいです」だけじゃ、面白くも何ともありません。こんな程度の学生は、これから数か月後に待ち受けている大学や大学院の面接試験で苦労することでしょう。図らずして、進路指導をしていく上での要注意人物が浮かび上がりました。

Gさんはその要注意人物の1人です。決して頭が悪いわけではありませんが、作文を読む限り、進学までに大きな壁がありそうです。来学期は、おそらく、私のクラスにはならないでしょうから、新しい先生に引き継がねばなりません。そうです。私たちの頭の中では、もう新学期が始まっているのです。

10:23入室

6月22日(木)

Yさんは10:23に教室に入ってきました。期末の聴解テストの最中でしたから、テストが終わるまで教室の外で待つように指示しました。遅刻の理由は要するに寝坊で、クラスの先生から注意され続けてきたのに、ついに学期を通して寝坊による遅刻は治りませんでした。

Yさんは大学進学を目指しています。日本語以外にEJUの科目などの勉強に手を出しました。しかし、どれも長続きしませんでした。クラブ活動も、興味の赴くままにあれこれ始めましたが、どれも中途半端に終わりました。アルバイトもしているようですが、遅刻欠席が目立つということは、勉強との両立がうまくいっていないことは明らかです。

Yさんは今年18歳になったばかりです。自分では大人だと思っているのかもしれませんが、私が見る限り、まだまだ子供です。自分を律していけないうちは、大人だとは言えません。国の親御さんは自分たちの下から離れても一人でやっていけるとお考えになったのかもしれませんが、ここのところの生活状況は、独り立ちしたとは言えません。

最近、Yさんのような例が増えています。子供に試練を与えて鍛えていくことも人生においては必要でしょうが、乗り越えられない試練では、子供は挫折しか味わえないでしょう。ライオンよろしく子供を千尋の谷に突き落としたら、さっぱりはい上がってこなかったというのでは、意味がないどころか逆効果です。

Yさんも、国の親元でもう1年ぐらい苦労の練習をしてから留学したほうがよかったんじゃないかな。でも、まだまだ逆転のチャンスがあります。今学期の自分を反面教師にして、一刻も早く実のある留学生活を始めてほしいものです。

出張ついで

6月21日(水)

職員室で仕事をしていたら、雨の中、傘をさしてこちらに向かってにっこり笑いかけるスーツ姿の男性が目に留まりました。もしかして、Jさん?

ロビーに入ってきたその男性の「お久しぶりです」という声は、紛れもなくJさんのものでした。スーツに包まれていることに何の違和感もなく、堂々としたビジネスマンでした。「お変わりなく」と言ってくれましたが、Jさんの変わりようからすると、私もだいぶ年を取ったように映ったことと思います。

Jさんが言うには、2001年に19歳でKCP入学だそうですから、この学校にいた頃のJさんに幼顔が残っていたとしても不思議ありません。その後Jさんは日本の大学に進学し、卒業後いくつかの会社を渡り歩いて、今は国の会社の日本担当です。月に2回、東京まで出張で来るそうです。スーツが似合っているわけです。

同じころKCPにいたDさんは、やはり月2回ぐらい大阪出張で来日しているとか。日本で勉強した専門を生かして、会社の中では結構な実力者になっていると聞き、立派になったものだと感心しました。Facebookで時々消息が知れるHさんは、世界中を遊び歩いているそうです。おとといはカナダの写真を載せていましたが、まさにそういう生活を送っているようです。うらやましい限りです。

Jさんは自分たちがKCPにいたころと比べて学生の様子が変わったと言っていました。確かに、かつては学生と言えば貧乏、貧乏と言えば学生でしたが、今の学生は私たち教師よりもよっぽどお金を持っています。また、Jさんの頃は日本で進学しない学生が少なからずいましたが、今はそういう学生は少数派です。そんなこんなで、Jさんも世代の差、時代の流れを感じたのでしょう。

Jさんのように、日本語を武器に、自分の足で歩み、自分の手で人生を切り開いている卒業生を見ると、うれしくなります。石ころ1個分であれ、そういう人の人生の石垣を築く手助けができたのですから。

校庭活用法

6月20日(火)

最近、受験講座の教室へ行くのに外階段を上っていると、下のほうから「先生、こんにちは」と声をかけられることが多くなりました。校庭でくつろいでいる学生たちが視線をちょっと上に向けると、階段をとぼとぼ上がって行く私の姿が目に留まるのでしょう。また、お昼前後は日が真上から差しますから暑かったりまぶしかったりしますが、私が受験講座のために教室へ移動する3時過ぎは、日陰になって風も適度に入って、ちょうど居心地のいい時間帯なのです。校庭が開放されてからひと月もたっていませんが、学生たちの間には着実に定着しているようです。

その校庭にいる学生たちですが、今週は期末テストが近いとあって、多くが教科書を広げています。OさんやUさんたちはアイスキャンディーをなめながら文法や漢字の勉強をしているようでした。午後3時の東京は気温26.8℃で湿度65%、ちょっと蒸したかもしれませんが、エアコンのきいた2階ラウンジや、静かにしなければならない図書室とは違ってそよ風に吹かれながらの勉強は、私が想像するより気持ちのいいものなのかもしれません。

校庭は三方がビルに囲まれていますが、それでも風が通り、また、青空が望めますから、やっぱり開放感があります。校庭のベンチで昼寝ができたらどんなに気持ちがいいだろうと思いますが、学生の目もありますから、今は遠慮しています。受験講座の理科はそんなに人数が多くないですから、陽気のいい季節は青空教室にできたら、リラックスできて覚えなければならないことが頭にスムーズに入っていくんじゃないかと考えたりしています。

受験講座から職員室に戻ってくると、Sさんが先週の文法テストの再試を受けに来ていました。再試の結果もあまり思わしいものではなく、校庭のテーブルで受けさせたほうがよかったかななんて思いました。

大丈夫は大丈夫じゃない

6月19日(月)

瞬間、私は目を開けた。そうだ。これは全部夢だったのだ。もったいない気持ちだが大丈夫だ。

先週の作文の時間は、創作的な文章を書かせました。Mさんの作品は後半に入るまで非常にテンポよく進んで、思わず引き込まれました。最後が「夢」というのもベタな終わり方ですが、私はそれ以上に「大丈夫」に引っかかりました。この「大丈夫」が気の利いた言葉だったら、ベタな終わり方を補うこともできたはずです。しかし、最後の最後で「大丈夫」という安易な言葉を選んでしまったため、なんともやりきれない、もって行き場のない中途半端さが残る結末となってしまいました。

このように、安易な言葉を使うと安易な結論となり、文章全体を安っぽくします。「いい」とか「大丈夫」とかはその典型です。話す時でもこういう言葉を多用されると、何だか雑な感じがしてきて、話している人自体の人格を疑いたくすらなります。

そういう意味で、私は、中級以上では、自分のクラスの学生には「いい」とか「大丈夫」のような、便利すぎる言葉気安く使うなと言っています。こういう言葉は意味が広いですから、なんとなくプラスの意味だということを示すのには適していますが、ピンポイントで鋭く描写するには向きません。

ところが、町を歩くと「大丈夫」が氾濫しています。街まで出ずとも、学校の中も「大丈夫」だらけです。語彙が乏しい初級の学生との意思疎通においては、「大丈夫」は有力な武器です。サバイバルジャパニーズとしての「大丈夫」まで否定するつもりはありません。しかし、そうじゃない場面においてまでも多用するのはいかがなものかと思います。私は「大丈夫」以外に表す言葉がないかどうかよく考えて(聞き手の日本語力も勘案して)、どうしてもという場合以外、「大丈夫」は使わないようにしています。

Mさんは次の学期は中級に進級するでしょう。中級の教室で会ったときにこのような文章を出してきたら、遠慮なくガバッと減点してやります。

会話テスト

6月16日(金)

今週ずっと、「金曜日に休んだら今学期の会話の成績はFですよ」と言い続けてきた甲斐があって、私のクラスの会話テストは全員出席でした。学生をペアにして、各ペアに課題を配り、その課題に沿って会話を作ってもらうというテストです。もちろん、今学期習った文法や語彙を使います。

ペアAは、2人とも少し緊張気味。ストーリーに飛躍があり、また焦って早口になり、それでも制限時間オーバーであえなく沈没。努力が空回りのようでした。

ペアBは実に滑らかな日本語でした。聞いていた学生たちから、ウォーッと、会話のはずみように感心した地鳴りのような驚きの声があがりました。しかし、教師の耳は文法のミスを次々とキャッチし、評価的には1番にはなりませんでした。この2人は、気合と勢いで話しますから、予想通りといえばまさにそうです。

ペアCは意外性を狙いました。何かの間違いだと思って聞いていたのが間違いではないとわかってから、学生たちは安心して笑っていました。こちらの予想を上回る会話を作ってくれました。

どのペアも今学期勉強した項目を織り込んで会話を作ってきました。そういう意味では合格点ですが、でもそれは会話テストというしゃっちょこばった条件の下でよく考えてその場に臨んだからこそできたのです。肩肘張らない雰囲気だと、まだまだ易しい言葉や文法の方に流れて、初級っぽい口の利き方になってしまうだろうと思います。今学期勉強した日本語が自然に口をついて出てくるのは、数か月先のことでしょう。

会話テストを終えた学生たちは、あさってのEJUと来週木曜日の期末テストに向けて進んでいきます。

記述

6月15日(木)

木曜日は作文の授業があります。EJU前の最後の授業でしたから、EJU記述対策の仕上げをしたクラスも多かったようです。

Mさんも18日に本番を迎えますが、今日の授業での出来がよくなくて、先生にどこがいけないのか説明してもらっていました。どうやら、「〇〇の長所と短所を述べよ」という設問に対して、自分の意見をとうとうと述べてしまったみたいです。その点を先生から指摘されたのですが、Mさんは承服できない様子でした。自分の意見を書いてどこが悪いという気持ちが、表情にありありと浮かんでいました。

私がEJUの記述対策の授業を担当していたときは、EJUの記述はゲームだと思って割り切って書けと指示したこともあります。2万人からの受験生の文章を一定の基準で採点するのですから、課題について熱く語るよりも、淡々と論理的に述べたほうが高く評価されます。ですから、極端に言えば、自分の考えとは違っても、規定字数以内で論理的な文章になりやすい意見を書いたほうが安全なのです。

大勢の文章を公平に評価するには、ある枠をはめてその中でどれだけ内容のある文章が書けるかとするのがやりやすいと思います。でも、そういう方法に慣れていない学生、枠からはみ出してしまう学生は、すばらしいものを持っていても評価してもらえないこともありえます。Mさんはどうやら自分を枠の中に収めることを是としない、ないしは枠の存在が意識できないようです。だから、一生懸命書いたのに認めてもらえない不満を感じたのだと思います。

センター試験の改良案には小論文も含まれていますが、EJUよりもさらに1桁多い受験生数ですから、どうなることでしょうか…。

受験講座なんつ

6月14日(水)

ある初級のクラスで助数詞を導入したときのお話です。まず、薄っぺらい物を数える時の「枚」、パソコンや自動車のような機械類を数える時の「台」を教えます。これらは、どんな場合でも、数詞も助数詞も音が変化しません。不定数も「なんまい/だい」です。対して、細長い物を数える時の「本」は、「いっぽん」のように、数詞も助数詞も音が変化しますから、最初の導入には不向きです。

「ひとつ、ふたつ、…とお」は、「枚」「台」という一番簡単なパターンとは違って、「いち」とか「に」とかとは全然違う音になります。しかし、カレンダーを思い出せば、「みっつ」と「みっか」、「ここのつ」と「ここのか」など関連が見えてきますから、日付を覚える苦労の何分の一かで身に付けられるでしょう。

さて、あるクラスで、「枚」の“?”は「なんまい」、「台」の“?”は「なんだい」とさんざん練習した後で、「~つ」の“?”はと聞いたところ、クラス全員声を合わせて元気に「なんつ」。普通は1人か2人か国で勉強してきて「いくつ」と答えてくれる学生がいるものですが、たまたまこのクラスにはいなかったのか、忘れてしまっていたのか、「なんつ」の大合唱となってしまいました。

その「なんつ」、久しぶりに聞いてしまいました。進学コースの学生に来学期の受験講座の登録をしてもらっているのですが、Jさんは私の説明を聞いた後に「受験講座の授業はなんつ申し込みますか」と質問してきました。思わず「えっ?」と聞き返してしまいました。聞き返しても同じことばが返ってきました。そこでようやく初級クラスの「なんつ」と結びつき、「3つでも4つでも5つでもいくつでもいいですよ」と答えることができました。

Jさんは事情があってついこの前まで一時帰国していました。そのため、頭の中が国の言葉のモードになっているのかもしれません。今度の日曜日がEJUなのに、日本語を習い始めたころのレベルに戻っているとしたら、非常に困ったことです。EJUの後には期末テストも控えています。「なんつ」では進級も覚束ないでしょう。となれば、受験講座の説明も無駄になってしまいます…。