食事会

11月4日(金)

文部科学省の学習奨励費を始め、各種奨学金をもらっている学生たちとの昼食会がありました。奨学金受給者が一堂に会するのは初めてで、個々の学生の顔は知っていますが、全員をいっぺんに眺め回すと、改めて錚々たるメンバーだなあと思いました。

奨学金受給者を決めるときは、出席率や成績はもちろんのこと、他の学生にどれぐらいよい影響を与えるかを重視します。出席・成績がよくても自己完結してしまう学生は、奨学金受給者にはなれません。たとえそういう学生より成績は劣っても、クラスのリーダーになったりクラスメートに刺激を与えたりすることができる学生を選びます。そういう学生たちが集まったのですから、そりゃあ壮観ですよ。

集まった学生の中には、MさんやZさんのようにすでに進学先が決まった学生もいれば、VさんやJさんやYさんのようにこれから入試を迎える学生もいます。受かった学生もいい加減な態度になることもなく、まだの学生も自分さえよければという気持ちに陥ることなく、それぞれのクラスで真剣に勉強に取り組んでいます。食事をしながらの話を聞いていると、さすが受給者という感じがしました。

Lさんは関西の大学に進学したいと言います。Kさんはエンジニアとして日本で就職したいそうです。そういう夢を聞いていると、私自身もこういう学生たちのために一肌も二肌も脱がなければという気持ちが湧き上がってきました。彼らのような常に斜め上を見て、向上心を忘れない若者が、これからの世界を作っていくのです。そんな学生を輩出する学校に、この学校をしていきたいと思いました。

髪を切りました

11月2日(水)

午前の授業が終わって1階に下りてくると、Aさんにばったり会いました。肩まであった長い髪をばっさり切り、だいぶさっぱりした精悍な顔つきになっていました。「面接か」「はい。今度の週末です」。入試の面接を迎え、長髪ではむさくるしく思われるかもしれないと、断髪に及んだのでしょう。

私もすぐに次の用事があったので、Aさんと交わした言葉はこれだけですが、短くなった髪を恥ずかしがることもなく、私の目を見てきちんと答えていたAさんに、今週末の入試にかける意気込みを感じました。「形だけ整えても意味がない」と言いますが、外見を変えることによって心の持ちようも変わることだってあります。そういえば、先学期成績が振るわなかったYさんも、今学期の初日から頭を丸めて出直しを図っています。頭を丸めた成果が出ているかどうかは聞いていませんが、心機一転しないと入試に間に合いません。

「外見だけで人を判断してはいけない」とはよく言います。同時に、「人は見た目が90%」とも言われています。入試では、面接によってその人に中身を推し量ろうとしています。でも、たった10分かそこらの面接で各受験生の真の価値を探り当てることは難しいです。だから、見た目や第一印象に頼らざるを得ない面もあると思います。Aさんの断髪も、そういう点で大いに意味があると思います。

もちろん、中身を高めることが第一です。それとともに、その中身を相手に伝える術も身に付けなければなりません。私は、外見を整えることは中身を伝えることの一部分だと思っています。面接官に良い先入観を持たせることにつながるからです。立派な中身を宝の持ち腐れにしないためにも、見た目は重要なのです。

晩秋

11月1日(火)

読解のテキストに「晩秋」という言葉が出てきたので、晩秋とはいつごろかと学生に聞いてみました。すると、11月ごろとかちょうど今頃とかという声が挙がりました。確かにその通りなのですが、天気予報によると、明日は晴れますが気温は13度までしか上がらないとか。晩秋というより初冬という感じです。

職員室にはいつの間にか何着かのコートが掛かるようになりました。先週末は朝の日比谷線の電車にヒーターが入っていたことに驚き、今朝は降り立った新宿御苑前駅が妙に暖かく、暖房を始めたのだろうと思いました。もっとも、私の通勤時間はラッシュのはるか前で、人いきれに無縁の時間帯ですから、こうなのかもしれません。

秋の深まりというか冬の始まりというか、季節が進むにつれて、マスクをしている学生・教職員が増えてきました。昨日のハロウィンで大活躍だったFさんからも、風邪で調子が悪いとメールが入りました。そのFさんのクラスは、マスク越しのせきが激しく、授業が終わると窓を開けて空気の総入れ替えをせずに入られません。私が授業後に説教することになっていたSさんも、熱を出して早退したそうです。毎朝校舎内の掃除をしてくださるKさんまで、昨日からダウンしています。

今週末にいろいろな大学の入試を控えている学生たちは、私の知る範囲では風邪に冒されていないようですが、試験日まで何とか持ちこたえてもらいたいものです。今週は木曜日が文化の日でお休みですから、選択科目の身近な化学はありません。でも、来週は風邪を取り上げて、予防に努めるように訴えるつもりです。

暗雲

10月31日(月)

「Lさん、今日の面接練習、2時半からでどうかってK先生がおっしゃってたけど…」「すみません。今日は無理だと思います。志望校のイベントがあるんです」。

今日は無理だと思います??? “だと思います”って、あんた、他人事じゃないんだよって言いたくなります。Lさんは超級の学生ですが、こんな程度のやり取りになってしまいます。もちろん本人に悪気はありません。K先生のご好意を断るにあたって、精一杯気を使っているつもりなのです。でも、それがかえって裏目に出ています。私たち日本語教師はこういうのに慣れていますからスルーしてあげられますが、普通の日本人だったらどうなのでしょう。

午後、Yさんの面接練習をしました。ひと通り模擬面接をしてからのフィードバックでのことです。「ディテールを表現するというのがYさんの答えの特徴になっているから、ここをもっと強調したほうがいいと思うよ」「でも先生、そうすると、私の日本語力では、面接の先生に全体像をつかんでもらえなくなるかもしれません」「そう考えるんなら、ディテールの話は思い切ってカットしたらどう?」「でも先生、そうすると、私の答えの特徴はどこにありますか」という調子で、心配ばかりしてさっぱり先に進みません。

能天気に行き当たりばったりというのも困りますが、Yさんのように物事を否定的に見てばかりいたら、何もできません。Yさんのクラスでは、今日の授業で「敢然」という言葉を取り上げました。しかし、今のYさんの心理状況は「敢然」とは対極にあるようです。

2人とも、受験が近づいてきていますが、果たして面接が通るでしょうか。少々不安にさせられました。

感じる

10月28日(金)

もうすぐ11月ともなると、早い時期に入試があった大学は合格発表の時期です。私の身の回りでも笑った学生もいれば泣いた学生もいます。

HさんはD大学に受かりました。Hさんの友人たちはすごいと驚いていますが、私はそうでもありません。面接練習をしたときの感触から、受かって当然と思っていました。面接官役をしていると、HさんのD大学への憧れとか学問に対する夢とか、思わず聞き入ってしまうような話が次から次へと出てきました。そういう内容を記した志望理由書も大いに読み応えがありました。それゆえ、受かるに違いないと思えてきたのです。

私のこのビビビッという感覚は、わりとよく当たります。やっぱり、受かる学生はどこか一頭地を抜いています。その部分が私に電波を送ってくるのでしょう。具体的にどういう受け答えのときにビビビを感じるかと聞かれても、口ではうまく説明できません。これが説明できたら、すぐさま面接練習に来た学生たちに教えられるんですけどね。

そんなHさんに対して、残念組の学生の面接には、引き付けられるものがありませんでした。あれこれ指導はしましたが、学生はピンと来なかったのでしょう。私の説明が悪かったのか、学生に私の指導を受け入れる心のゆとりがなかったのか、そこまではわかりません。私は学生の心に響く指導ができず、学生は、もしかすると、落とされて初めてこちらの言いたかったことが胸にすとんと落ちたのかもしれません。

11月は留学生入試の山場で、EJUが終わったら別の忙しさが襲ってきます。1人でも多くの学生からビビビを感じたいものです。

エレベーターと喫煙所

10月27日(木)

私は、都会のマンション住人の典型で、隣にどんな人が住んでいるのか全く知りません。また、エレベーターで誰かと乗り合わせても、せいぜい目礼をする程度です。1階から自分の階までの数十秒間、お互い無言のまま過ごしますが、その雰囲気が息苦しいとも気まずいとも思いません。

たまに、両手に荷物を抱えて、降りる階のボタンが押せない人が乗ってくることがあります。そんなときは、ためらうことなく「何階ですか」と聞き、「すみません、〇×階です」などというやり取りをします。

こんな、会話などとは到底呼べないような言葉を交わしただけでも、そして、その後エレベーターの中で何もしゃべらなくても、エレベーター内の空気がいくらか和らいだように感じます。お互いがお互いを敵ではないと認識できるからでしょう。

言葉はコミュニケーションの道具です。そして、コミュニケーションとは単に情報を伝えるだけでなく、心を通わせ合うことでもあります。英語のcommunicateやcommunicationには後者の意味がないかもしれませんが、“言葉はコミュニケーションの道具”と言ったら、そういう意味も含まれると思います。

学校の近くのタバコ屋さんから、KCPの学生が店の前の喫煙所で外国語で大声でしゃべりながらタバコを吸って困るというクレームが来ました。喫煙所を汚して立ち去るなど、学生たちのマナーもよくないようですが、店の方が一番嫌なのは、外国語で話されてはコミュニケーションが取れない、心の通わせようがないことだと思います。

学生にしたら、休み時間にタバコを吸う時ぐらい日本語から開放されて、友達と国の言葉で思いっきりおしゃべりしたいのでしょう。しかし、それは同時に、タバコを吸う場所を提供してくれている店の方とのコミュニケーションを拒否することも意味するのです。

店の方にしたら、自分の店の軒先で、顔も知らない学生たちに、自分のわからない言葉でしゃべられたら、恐怖感もするでしょうし、店を乗っ取られたようにも思うかもしれません。すなれば、学生の所属する学校に苦情の一つも訴えたくなります。

だから、かたことであっても、学生が真剣に日本語で話しかけようとすれば、店の方も安心できるはずです。お客さんとの心のふれあいが楽しみで店を開いているとすれば、これは喫煙所を使わせてもらうための必須の条件です。こういうことを教えていくのも、学校の役割なのです。

整理整頓

10月26日(水)

「先生、ちょっとお時間、いいですか」「うん」「この問題、教えてほしいんですけど…」と、GさんがEJUの理科の問題を持って来ました。Gさんが持ってきた問題用紙には、Gさんの字で計算式が書き散らされていました。Gさんが問題文に引っ張ったアンダーラインやキーワードを囲んだ〇や□も入り乱れていますから、問題文を読むだけでも一苦労です。

私が問題文を読むそばで、Gさんが自分の考えを披瀝します。自分なりの考えを伝えようとする点は評価できますが、そのときに、すでに字やら記号やらがあふれている問題用紙に、さらに何か書こうとするのです。こうなると問題用紙は混沌そのもので、Gさんでさえ何がなにやらわからなくなっています。

私もGさんがどこでつまずいているのかわかりませんから、新しい白い紙を渡して、そこに式や図を描くように言いました。すると、「あ、そうか。ここで2倍するのを忘れたんだ」と、Gさんは自分の間違いに気がつきました。

だから、式をきちんとわかりやすく書き直せばいいのに、次の問題に取り掛かるや否や、Gさんは私が渡した新しい紙もあっという間に混沌の渦の中に巻き込んでしまいました。そして、考えの筋道が本人にもわからなくなり、自滅へと突き進んでいきました。

「こんなことしていたんじゃダメだ。ノートにきちんと式を丁寧に書いて、それでもわからなかったら、私のところへ聞きに来い。こんな問題の解き方をしてたんじゃ、EJUで絶対いい点数は取れない」と言って、Gさんの質問を打ち切りました。「でも、先生、EJUのときは式を書く場所がありません」「ある。なかったら自分で作れ」というやり取りの末、Gさんを追い返しました。

自分の間違いに気付くことができるのですから、Gさんは理科系のセンスがない学生ではありません。でも、問題用紙に無計画に式を書き殴って、読解不能に陥っているようじゃ、そのすばらしいセンスも宝の持ち腐れです。式をわかりやすく書くだけで、間違いは半分どころかそのまた半分ぐらいになるでしょう。それができなかったら、いや、そんなことすらできなかったら、理系の勉強をする資格がないと思います。実験記録もまともに残せないでしょうし、データ整理も満足にできないでしょう。

Gさんは、いつ再質問に来るでしょうか…。

ずるいですか

10月25日(火)

私がこの学校で教えている理科は、「受験」講座ですから、純粋な理科だけではなく、時には受験のテクニックも教えます。EJU対策として、マークシート方式の特性を利用したずるい解き方を教えることもあります。

このずるい解き方の説明となると俄然目を輝かせるのがCさんです。ずるい解き方を覚えて、お手軽に点数を稼ごうという魂胆なのですが、なかなかそういうわけにはいきません。

確かに、ずるい解き方を使えば、まじめに考えて計算するより早く答えにたどり着きます。しかし、ずるい解き方は万能ではなく、その問題に使えるかどうかの見極めが必要です。つまり、しっかりした基礎があって、問題の本質をつかむだけの実力を持っている人だけが、ずるい解き方を使うことができるのです。

学問に王道なしというとおり、EJUの本番で楽をしようと思ったら、その前に血のにじむような努力が必要なのです。Cさんのように、おいしい果実だけ盗み取ろうとしても、そうは問屋が卸しません。

私がある程度の実力を持ったが学生にずるい解き方を教えるのは、ずるい解き方の根底に物理や化学や生物の真髄が隠されているからです。正攻法とは違った角度から問題となっている現象を見ることで、今まで気づかなかったその現象の一面が浮かび上がってくることがあります。それを学生たちに感じ取ってもらいたいのです。そして、それを感じ取ることで、勉強した項目の意外なつながりを発見することもあります。

実力がある臨界点を超えると、このずるい解き方を自在に活用できるようになり、さらに点数が伸びていきます。強い人がより強くなるのです。お金持ちのところにお金がさらに集まるのと似ていなくもありません。Cさんは臨界点まであと一歩のところまで来ています。3週間を切った本番までに、超えられるでしょうか。

努力家とは

10月24日(月)

秋が深まるとともに、学生の推薦書のシーズンも最盛期を迎えつつあります。今、私は3人分の推薦書の宿題を抱えています。こういうことになるだろうと思って、始業日に「自己推薦書」なるものをクラスの学生に書かせましたが、それに助けられています。

自己推薦書とは、自分で自分を志望校に推薦するとしたら、自分のどんなところを売り込むかを書いてもらったものです。自分の長所とか、学業に対する姿勢とか、そういったことで私に見えていないことや、学生自身が自分をどう見ているかを知りたかったのです。

3人とも、表現は違いますが、自分は努力家だという意味のことを書いています。他の学生のを見ても、頑張るとか努力とかいう言葉が目立ちました。今の学生は、努力することにかなりの価値を置いていることがわかります。私が推薦書を書く3人は本当に努力家ですが、中にはそうとは言いかねる学生もいます。そういう学生は、努力家を装うというよりは、努力家にあこがれているのではないかと思います。

最後は努力家が勝つという寓話やことわざは、世界中にあります。これは、どこへ行っても努力が続けられる人が少ないことを意味していると思います。一発勝負のギャンブルに出て、それに勝ってしまうことを夢見る人たちが無数にいるからこそ、こういう戒めがあるのです。学生たちも、自分のそういう傾向にうすうす気付いて、こういう心持は他人には見せられないと思って、私は努力家だと言い張りたくなるのでしょう。

私も学生たちのことを笑えません。「努力かたらんと努力している」というのが、精一杯の私の現状です。すきあらば低きにつこうとする自分に鞭打って、かろうじて厳しい世間を生き抜いています。怠けている学生を叱りつつも、その心根にどこか共感してしまう自分がいます。

3人の学生は、無理に下駄を履かせなくても推薦に値する学生です。自己推薦書から学生自身の自分観を読み取り、それを参考にして、推薦書を書き上げました。

手応えはあてにならない

10月21日(金)

KさんがD大学に合格しました。Kさん自身は面接の手応えが悪くダメだと思っていただけに、喜びも一入だったようです。私は、EJUの持ち点も高いし、直前の面接練習の受け答えもしっかりしていたし、十分に勝ち目があると思っていました。

こんなふうに、試験を受けた学生の感覚は、えてしてあてにならないものです。Kさんとは逆に、「絶対大丈夫」なんて言っている学生に限って、落ちてしまうものです。学生は面接でたくさん話せると自分の思いが伝わったと思い込んでしまうようですが、実は、それは非常に危険です。往々にして空回りしているのです。

面接練習の時には、他の受験生でも話せるようなことはいくらたくさん話したところで評価されないと指導しています。具体的な内容、独自の考えや感想などを語らなければ、評価に値しないとされてしまいます。「将来、自分の会社をつくりたいです」の類は、点にならないのです。

Kさんは面接では自分の思いが語りきれなかったので手応えを感じなかったようです。しかし、KさんのD大学に対する思いは非常に深いものがあり、面接官としては、その一端を知るだけで、我が校で学ぶに値する学生だと判断できたのでしょう。

午後、T大学の大学院の入試面接を明後日に控えたHさんの面接練習をしました。大学院を目指す学生だけあって、一から指導しなければならない答え方ではありません。それでも、脇の甘さが見られて、私に問い詰められると言葉を失う場面もありました。こちらの注意は十分理解できていると思いますから、本番までに軌道修正してくれるでしょう。

受験シーズンはこれからが山場です。他の学生も、Kさんにどんどん続いてもらいたいです。