Category Archives: 授業

違う頭

6月2日(土)

来週は養成講座の講義があるので、そこで使う資料の点検をしました。今までに何回か使ってきた資料ですが、読み返すたびにちょこちょこ手を入れたくなります。もう少し正確に言うと、しばらく動かしていなかった頭の部分に血を通わせながら資料に目を通すと、あれこれ疑問点が浮かび上がってくるのです。新鮮な目で見ると、前回まで使ったときには気づかなかったあらが見えてくるのです。

こういう説明やデータが足りないんじゃないかとか、これは回りくどい表現だとか、半年ぐらい前にその資料を作った自分自身に突っ込みを入れつつ作業を進めます。これは決して面倒くさい、できれば避けたい仕事ではなく、修正のために調べ物をすることは、心地よい脳みその体操です。

私の場合、日本語のほかに理科も教えています。午前中が日本語で、午後から理科というパターンもしょっちゅうです。そのたびに、脳の切り替えというか、頭を作り上げていく感じがします。日本語を教えているときは大脳の言語野が活性化されていて、理科のときは別の部分が働いているのでしょう。養成講座の講義では、これらとはまた違う部位を活動させているようにも感じます。一度、脳の血流を測る装置でも装着して授業をしてみたいです。

さらに私は、学校を一歩出たら読書人になります。朝の電車の中か昼の食事のときかに読んだストーリーを思い出し、電車に乗るや否やそこに没入します。頭のいろいろなところを使うとボケないとかいわれていますが、私の場合はどうなのでしょう。このごろ忘れっぽくなったり根気が続かなくなったりしています。マルチタスクでそういう劣化を何とか押さえ込みたいです。

復活

5月25日(金)

金曜日は、みどりの日、運動会、中間テストと3週間連続でつぶれていましたから、ほぼ1か月ぶりに金曜の初級クラスに入りました。4月の最終週は御苑でお花見だったのでろくに授業をしませんでしたから、ほとんどアウェー状態でした。この間、諸般の事情であるクラスに集中的に代講に入りましたから、そちらのクラスのほうが事情がよくわかるほどです。まあ、こういうのは惑星直列みたいなレアケースでしょうが…。

出席を取る時はごくわずかな特徴的な学生しか覚えていませんでした。でも、幸いにも返却物が何種類もあったので、それを返しながらどうにか顔と名前を一致させていきました。だんだん勘を取り戻してきましたが、まだパキパキと指名する段階には至りません。できる学生だと思って難しい問題を当てたら、その学生はあわあわするばかりで大いに当てがはずれたり、集中していない学生を指名したつもりがその隣の隣の学生だったり…。このクラスは机の上に置くネームプレートを作っていたことすら忘れていました。

初級は特に顔と名前をしっかり覚えて、次々と指名して緊張感を持たせながら練習していくことが肝要です。頭で理解していても、口が回らなければコミュニケーションは取れません。コミュニケーションを無視した語学の勉強は、畳の上の水練に過ぎません。個人指名がうまくいかない分をコーラスでごまかしちゃいましたが、これじゃあ必要最低限をかろうじてこなしたっていうだけです。

今学期は期末テストも金曜日ですから、このクラスの私の授業はあと3回。頭の中の配線が復旧しつつあります。学生たちの実になる授業をしていきたいです。

目盛りをメモリー

5月23日(水)

漢字の時間に「盛」の字を取り上げました。教科書には、「繁盛」「全盛期」など、「盛」といえば「大盛り」の学生たちにとって普段見慣れない使い方が載っています。教科書に載っている用例以外に「花盛り」と板書して「読めますか」と聞いたところ、さすがに「はなもり」は出てきませんでした。私がわざわざ聞くくらいですから、「はなもり」などという単純な読み方ではないだろうということぐらいは見当がつきます。1か月以上も付き合っているんですからね。少しひねって「かもり」という答えが出てきましたが、そこまででした。

答えが出てきそうもないので、「はなざかり」と板書すると、「グォーッ」というような驚きの声が上がりました。意味を教え、この場合の「盛り」は「全盛期」の「盛」と同じなんだよと解説すると、みんな一斉にノートに取っていました。「働き盛り」「食べ盛り」「伸び盛り」などは、応用で意味が理解できました。「君たちの日本語の実力は、今が伸び盛り? それとも伸び盛りが過ぎちゃった?」なんて聞いたら、ドキッとした表情の学生もいました。

次に「目盛り」と書くと、お決まりのように「めざかり」。「めもり」と口でだけ言うと、「メモリー?」と聞き返してきました。カタカナ語の「メモリー」の日本語流漢字表記だと思ったのでしょう。これもほうっておいたら授業時間が終わるまでわからないでしょうから、定規の絵を描いて、この細かい線のことだと説明すると、みんな納得しました。

この「目盛り」なんていうのは、日本人なら小学生でも知っていることばですが、KCPに限らずほとんどの留学生は知らないでしょう。もちろん、学生たちの国の言葉に「目盛り」はあるでしょう。ごくシンプルな概念なんですが、それを表す日本語がわからないという例は、かなりあるはずです。「みんなの日本語」で取り上げるほど基礎的ではなくても、どこかで改めて取り上げられることのない単語が山ほどあります。そんな単語を、「留学生だけ知らない日本語」として、ことあるごとに取り上げています。

伸び盛り

5月17日(木)

朝、まだ先生方の姿も少ない職員室で仕事をしていると、Oさんが受付のカウンターから私に向かってお辞儀をしていました。呼んでいるのだろうと思って行ってみると、「すみません。2階のラウンジを開けてください」と言います。普通の学生ならそのまま鍵を持って2階へ行くところですが、頼んできたのがOさんですから、ちょっとばかり驚いてしまいました。そんな程度の日本語なら、初級の学生でも話せるとお思いになるかもしれませんが、何と言っても声の主はOさんなのです。

Oさんは4月の新入生で、レベルテストの結果、中級と判定されました。しかし、ペーパーテスト以外の日本語力はゼロに等しかったのです。こちらの話が聞き取れない、自分から話そうとしないなど、コミュニケーションが成り立ちませんでした。Oさんよりも下のレベルに判定された学生に通訳してもらっていたくらいですからね。話す力を付けるために初級クラスにしようかという意見すら出てきました。

そのOさんが、自ら口を開いて自分の意思を私に伝えてきたのです。これが驚かずにいられましょうか。しかも、「毎日、朝早くから学校へ来ているんですか」と話しかけると、「明日、中間テストですから」ときちんと応答してくるではありませんか。1か月ちょっとの間に、長足の進歩と言っていいでしょう。

毎日のように顔を合わせている先生はなかなか気づかないものですが、きちんと努力している学生は確実に力を伸ばしているのです。その積み重ねが1か月とかという単位になると、はっとさせられるほどの高みに上っているのです。

そういう意味で、来週は1つ楽しみがあります。週1回、金曜日だけに担当しているレベル1のクラスに、4週間ぶりに入るのです。金曜日の授業は、みどりの日、運動会、中間テストと3週連続でつぶれています。伸びが一番大きいレベル1ですから、どこまで話せるようになっているか、今からワクワクしています。でも、不安もあります。顔と名前が全く一致しないんじゃないでしょうか。そもそも、学生たちは私を覚えているでしょうか…。

居眠りするとよくわかる

5月14日(月)

Jさんが授業中寝ていました。こういうとき、私はそれをネタにその学生をいじります。「授業中に寝るのは教師に対して失礼というものだ」「Jさんは遅刻した。しかも授業中寝ている。どうしようもない学生だ」なんていう調子で、その日に習う文法や語彙の導入や例文などに使います。ちゃんと授業を聞いている学生にとっては、目の前に実物があり、その単語や文法を使う状況が話し手の心理が明確に見えますから、これほどわかりやすい教材はありません。教師側も余計な説明が不要ですから、手間と時間の節約になります。

いじられる学生はたまったもんじゃありませんよね。クラスメートの前で恥をかかされて、目が覚めた時には説明がすべて終わっており、わからないのは自分だけなのですから。自分が身をもって例を示したおかげで、他の学生たちは理解が進んでいるのに…。事実、Jさんが例を示してくれた文法項目は学生たちの理解がすばらしく、書いてもらった例文も的外れなものが全くありませんでした。

学生の名誉を傷つけるような例文を提示するのはいかがなものかという意見もあるでしょうが、たたき起こして衆人環視の中で説教するほうがよっぽど不名誉だと思います。そっと起こして授業後にこっそり叱ってあげるほど、私は心やさしい教師ではありません。授業時間を割いて説教したら、その間は起きていた学生にとっては無駄な時間です。そっと起こすだけでは、他の学生への示しが付きません。もちろん、一罰百戒として、1人の学生を例に取り、授業内でクラス全体に向けて訓戒を垂れることもあります。

Jさんがこれで懲りるかどうかはわかりません。懲りなかったら例文でいじって、授業後に残して、ねちこち責めていくまでです。Jさんのことは、明日の先生に引き継ぎます。

上級になるには

4月16日(月)

今学期は中級のクラスを1つ持っています。私は上級を教えることが多いため、中級というと、そこから逆算して、今最低このくらいはできてほしいと考えてしまいます。7月期か10月期に私のクラスに入るんだったら、中級のうちにこのくらいはできるようにわかるようになっておいてほしい、という発想です。

例えば、読解のテキストに出てきた「見かける」。意味は中級でも十分に理解できます。目にしたり耳にしたりした時に、文脈の理解を妨げるようなことはないでしょう。しかし、自分で文を書いたりまとまった話をしたりするとき、この単語を使うことは絶対にないでしょう。「見かける」が正しく使えていたら、こいつなかなかやるなと思ってしまうくらいですから。中級と上級の差は、語彙力です。文法力よりも、知っている、使える単語の数の差です。それを埋めるべく今から動けば、押しも押されもせぬ超級話者になれることでしょう。

文章を読む時には、行間を読めとまでは言いませんが、単語の意味がわかったら終わりというレベルで止まってほしくはありません。せめて段落単位で文章を眺めて、単語の意味の総和以上の何物かをつかみ取ってもらいたいです。筆者が言わんとしていることを読み取ってほしいです。その補助線となる質問を、次から次へと繰り出していますから、それをヒントに読解の要領も身に付けていけば、上級での長文生教材に耐えうる力も養っていけます。進学希望ならその夢の実現に向けて歩みだすことでしょう。

今学期末にはEJUがあり、次の学期休み中にはJLPTがあり、新年度早々力を蓄え発揮することが求められます。留学の成否を決めかねない緊張の場面が続きます。教師にとっても…。

最優先課題

4月6日(金)

学期中は授業や学生対応を最優先にしなければなりませんから、どうしても目の前の仕事を1つずつ確実に仕上げていくことが中心になります。ですから、学期休み中に長期的な視野を要する仕事をしようということになります。しかし、今回の学期休みは養成講座の授業がたくさん入っているため、思うように仕事が進みません。

養成講座も、次の世代の日本語教師を育てるという意味ではスパンの長い仕事です。私自身の反省も込めて、新しい人たちにより高い位置からスタートを切ってもらおうと思いながら授業をしています。朝、出勤してから9時に授業が始まるまで、その日に何を教え、何を考えてもらうか、そのために何を語るかなどに頭を悩ますことは、非常に知的かつ心地よいひとときです。毎日だとしんどいかもしれませんが、養成講座がある日は心が弾みます。

でも、日本語のクラス授業のために隅に追いやられがちな受験講座理科に頭と時間を使えるのは学期休み中なのですが、今学期はそれができそうにありません。11月のEJUの問題を解いて解説を作るところまではしたものの、それまでです。授業で使う資料をばりばり作りたかったのですが、そこまでには至っていません。学校全体に目を配って方向性を示すのも私の仕事ですが、これもまた当初の計画どおりに進んでいません。

そんなに時間がなかったら、こんなブログなんぞ書いていないで本来の仕事をすればいいじゃないかと言われそうです。でも、こういう駄文を草することも、私にとっては、その日一日を振り返り、社会全体を眺め回し、学校や自分のあり方を見つめ直す貴重な日課なのです。

初授業

4月3日(火)

2018年度初の授業をしました。学生相手の日本語の授業ではなく、日本語教師養成講座の文法の授業でした。養成講座は、日本語は存分に通じる方たちへの授業ですが、日本語の出力を抑える訓練という一面も持っています。属性形容詞とか連用修飾とか連体詞とかという用語は、日本人に対しては使えても、KCPの学生のような日本語学習者には使えません。また、「カリナさんの髪は長いです」よりも「カリナさんは髪が長いです」のような形の文が日本語には多いことを、学習者に対して理屈をこねて説明しても意味を成しません。練習を重ねて後者のタイプが口をついて出てくるようにしていくことが肝心です。

教える内容の10倍の知識を持っていないと教えられないと言いますが、10倍の知識を持っているとそれを全部披露したくなるものです。どうだすごいだろうと威張りたくもなります。しかし、それをしたら、特に日本語学校の初級でそんなことをしようものなら、クラス全体が「???」で包まれます。そして、教師としての信頼を失うことでしょう。だから、出力を抑える訓練をしなければならないのです。

養成講座の授業をしている私も、自分用のメモにはあれこれいっぱい書き込みをしています。また、書き込み以外のネタも頭の中には仕込んであります。しかし、受講生にはそれを全部伝えているわけではありません。そうするには時間が足りませんし、そうしても聞いている皆さんの頭に残るのはそのごく一部です。

要するに、養成講座受講中に、日本語文法の思考回路を脳内に築き上げてほしいのです。これさえあれば、日常生活で目にしたり耳にしたりする日本語を自分で分析し、そこから学習者の理解を助ける教材を自分で見出せるようになるでしょう。そうなれば、もう一人歩きできる日本語教師です。

先生こそ例文作り

3月24日(土)

養成講座の初級文法の最終回は、例文の作り方を取り上げます。日本語教師を目指す人たちは、とかく文法を言葉で説明しようとします。しかし、特に初級クラスでは、言葉による説明はあまり効果がありません。だって初級ですよ。言葉がわからないから初級にいるのであり、その人たちに言葉で文法や単語の意味を説明しようったって、土台無理な話です。言葉によらずに説明するには、例文が最も有効なのです。

でも、漫然と作っていては、説明力のある例文は生まれません。寸鉄人を刺すような例文を作るにはどうしたらいいかということになるのです。はっきり言って、私の話を聞いたからといってすぐにそういう例文が作れるようにはなりません。文法や単語の意味の構成要素を抽出し、それを際立たせるような例文を考え出します。これができるようになるには、残念ながら訓練を積むしかありません。作り慣れてくれば、文法や単語の意味の特徴が見えてきて、それを組み合わせた例文も、「う~ん」とかうなっているうちに作れるようになります。

また、例文はドリルの基本材料にもなります。単に機械的に言葉を入れ換えていくだけでは、練習する側も流れ作業になってしまい、覚えてほしいことが定着しません。学生の印象に残るドリルのキューは、例文作りから得られるものです。私は授業で遅刻した学生や前日欠席した学生をよくいじります。そういう学生をネタに文法導入するのにも、例文作りの訓練が生きてきます。

受講生の皆さんはどう感じてくれたでしょう。これからも講義やら実習やらが続きますが、例文作りの練習も忘れないでもらいたいです。将来確実に役に立ちますから。

お久しぶり

3月23日(金)

代講で初級クラスに入りました。今学期の受け持ちクラスはみな上級でしたし、先学期も中級以上でしたから、半年ぶりです。不思議なもので、初級の教室に入ると、上級クラスの省エネモードとは違って、挨拶から大きな声が出るのです。文法の説明も、理屈をこねくり回す気はまったく起こらず、練習して体で覚えてもらいたくなってくるのです。学生が変な答えを出すと、あなたの言ったことはこういうことだよとアクションで示して、その不自然さに気づいてもらいます。それがすらっと出て来てしまうんですねえ、初級の教室だと。

単語の意味ならともかく、文法を言葉で説明してわかってもらうのは、初級では厳しいです。私はもっぱら印象付けることに徹します。そのためにアクションで示したり、その日の教室に即した例文を考え出したりします。もちろん、口頭練習がその最たるものです。代講に入ったらクラスの雰囲気を読んで、おとなしそうなクラスだったらこちらが引っ張って何とか盛り上げますし、ほうっておいてもしゃべるクラスだったらそのパワーを最大限利用します。

初級のクラスのいいところ、おもしろいとこと、やりがいのあるところは、手ごたえが感じられることです。上級だとクラスの作り方をちょっと間違えると、のれんに腕押しの毎日になってしまいますが、初級はこちらがその気で立ち向かえば必ず何かはね返ってくるものです。はね返ってくるときは、印象付けがうまくいったときです。毎日初級だとパワーを吸い取られて体がもたないでしょうが、たまになら授業が楽しめます。

さて、このクラスの学生たちも、今年の後半には私のテリトリーに上がってくるかもしれません。そのときの成長ぶりを見るのが楽しみです。