Category Archives: 日本語

聞こえた?

4月1日(金)

東京は昨日桜が満開になり、4月を迎えました。午前中は健康診断があり、ちょっと遠回りして桜を楽しみながら病院へ向かいました。朝の早い時間帯、しかも平日ときていましたから、悠長に花見などしている人はおらず、私1人のんびりと花を愛でることができました。

病院は思ったほど込んでいませんでしたから、健康診断は各検査項目で待たされることもなく、順調に進みました。ただ1か所、聴力検査で引っかかりました。

「音が聞こえたらボタンを押してください」と言われたので、ピーピーという電子音が聞こえるたびにボタンを押したのですが、途中で検査担当者が飛んできて、「ちゃんとボタンを押してください」と言います。「音に合わせて何回も押すんですか」「いいえ、鳴り始まってから鳴り終わるまでずっと押していてください」「押し続けるんですか」「はい、そうです」。そういえば、瞬間的に押すんじゃなくて、ずっと押したままだったなあと、去年までの健康診断を思い出しました。

検査担当者にとっては毎日のことでしょうが、検査されるほうにとっては年に1回こっきりのイベントでしかありません。1年経ったら、やり方なんか忘れちゃうほうが普通ですよ。検査員さん、あなたの説明の言葉、ちょっと足りなかったんじゃないですか。

健康診断は午前中で終わり、午後からは新学期の準備。夕方、初級の先生に頼まれて、聴解テストの問題を聞きました。私のほかにも何名かの先生がテストに取り組んだのですが、絵のある問題の絵の受け取り方に違いがあることが浮き彫りになりました。絵を描いた本人が意図した状況・場面と、その絵を見た人が受け取った状況・場面とにずれが生じていたのです。学生と教師とでは受け取り方がまた違うでしょうし、出身国、すなわち、生まれ育った環境によっても、同じ絵を見て何に注目して何を感じ取るかが違ってくるでしょう。

人間のコミュニケーションは、誤解の連続です。誤解をいかに少なくするかに頭を使います。ここをすっ飛ばしてしまうと、気が利かないとか親切じゃないとか言われてしまいます。私は、今朝の聴力検査で、聞こえている間じゅうずっとボタンを押し続けないと、検査員が聞こえた・聞こえないの判断ができないってとこまで思いを馳せなければならなかったのかなって、ちょっと反省しました。

大仕事

3月23日(水)

今学期最後の授業は初級クラスでした。教科書の残りの部分を片付けたら、後は復習とまとめです。初級は1学期の間にグンと力を伸ばしますから、復習と言ってもかなり広範囲にわたります。また、初級も後半に差し掛かると少々特殊な言葉遣いも勉強しますから、覚えるべきことも結構な量です。

Sさんは復習プリントやまとめプリントを読んでいるだけで、そこにある練習問題をやろうとしません。いや、Sさんとしては問題を考え答えを出しているのですが、それを全くプリントに書き込もうとしませんから、教師としてはやっているとは認められないのです。指名すると、案の定、正確には答えられません。こちらが「えっ?」と聞き返し、間違いに気付いた周りの学生が小声で教えても、Sさんは平気な顔です。

こういう学生は、自分はできる、こんな程度のことはわかっていると思い込んでいます。だから、間違いを指摘されてもそれはケアレスミスに過ぎないと思い、本気で改めようとはしません。もちろん、その間違いはケアレスミスなんかじゃありません。文をきちんと作らないから、間違いが間違いとして認識できないのです。だから、本当はわかってなんかいないということが、本人には全然見えてきません。

今までに何十人もこういう学生を見てきましたが、末路は哀れなものです。友人や教師の忠告には耳を傾けず、わが道を歩み続けますから、日本語力は伸びません。進級できずに同じレベルをくり返すとなると、授業がつまらないので受験勉強にのめりこみます。しかし、日本語力がいい加減ですから、受験勉強もうまくいきません。自己流を貫いたあげく、卒業が近づいてから自分の失敗にやっと気がついても、もはや手遅れです。志望校には当然手が届かず、不本意な進学をする羽目に陥ります。

Sさんはそんな体臭をぷんぷん発散させています。Sさんをどうやって真っ当な世界に連れ戻すかっていう、この1年の大仕事を見つけてしまいました。

伸びたね

3月10日(木)

お昼過ぎに去年の卒業生のCさんが来ました。スーツ姿なのでどうしたのかと聞くと、この近くの会社までアルバイトの面接に来たからKCPにも顔を出しに来たとのことでした。

在校中のCさんは、おとなしいを通り越して、意思疎通すら事欠くありさまで、Cさんに一言しゃべらせようとすると、こちらが十言ぐらいしゃべらなければなりませんでした。今通っているM大学も、Cさんにとってはレベルが高すぎるので、あの話しっぷりでは面接で落とされるのではないかと危惧したほどです。どこをどう評価されたのか首尾よく合格しましたが、入学してからが試練だろうなと思っていました。

ところが、目の前のCさんは、私が一言口を挟む前に十言ぐらい話すのです。それも、無意味な内容ではなく、いいたいことを要領よくまとめた話し方なのです。これならM大学でもそれなり以上の成績を収めているだろうなと感じさせられました。また、こういう調子で面接を受けてきたなら、きっとその会社のアルバイトに採用されるだろうとも思いました。

Cさんの口から、就職希望先として、T社の名前が出てきました。日本人でも簡単には入れない会社ですが、挑戦してみたいと、1年生が終わったばかりですが、目標として掲げたようです。以前のCさんだったら、とても考えられない積極性です。日本人学生に伍して1年間大学生活を送ってきたという自信が、「T社」という希望表明につながったに違いありません。

どうやら、私たちよりもM大学の面接官のほうが、学生を見る目が確かだったようです。潜在力を引き出してもらえたCさんは、M大学で充実した学生生活を送っているんだろうなと思いながら、Cさんの背中を見送りました。

泣くかな

3月3日(木)

今年の卒業式の卒業生代表挨拶は、Kさんにお願いしました。月曜日、Kさんに電話で依頼すると、二つ返事で引き受けてくれました。電話をかける前に説得の言葉をあれこれ考えたのですが、そんなのを動員するまでもありませんでした。

昨日、原稿を見せてもらいましたが、いくつか語句の訂正をした程度で、内容は私なんかが手を入れる必要など全くないすばらしいものでした。KさんはKCPに2年いましたから、語るものもいろいろあったようです。そのなかから厳選して原稿にしたのですから、空虚なものになるわけがありません。

今日はその原稿を読む練習をしました。声に出して読むとなると、自分で書いた原稿にしても、留学生にとっては難しいものがあります。卒業生代表挨拶は棒読みではいけませんし、スピーチコンテストの要領ともちょっと違います。感動を誘わなければなりませんからね。

Kさんは、最初は、「っ」の間が十分に取れていませんでしたし、長音の延ばし具合も不完全でした。なんだか急ぎすぎていて、聞き手にしてみると、聞いた内容を吟味する暇がない感じがしました。アクセントとかイントネーションとかいう前に、まず、促音と長音を確実に出すよう指導しました。そうしたら、全体的にペースがゆったりしてきて、最初に比べて次は、20秒も長くなりました。

急ぎすぎがなくなったところで、アクセント、イントネーション、そして、間の置き方の指導です。Kさんの書いてきた原稿にアクセント・イントネーションの記号を付けると、見違えるように自然な話し方になりました。さらにもう10~15秒ほど長くなりましたが、緩慢な感じはありませんでした。

明日、もう一度練習をして、明後日の本番に臨みます。Kさんの挨拶で誰か泣くんじゃないかなって、密かに期待しています。

かわいがり

2月10日(水)

新人のO先生をいたぶってしまいました。いつも面倒を見ているM先生が代講だったので、私がO先生の文法の下調べの出来具合をチェックすることになったのです。

O先生は文法書を見たり自分で例文を作ったりして、各文法項目について調べてきてはいました。でも、私がその分析結果の隙をついて悪い例文を並べると、とたんに言葉が詰まってしまいます。私は学生のとんでもない例文を腐るほど見ていますから、勘違いのポイントもわかります。そのポイントに合わせて非文の例文を作ることぐらい、朝飯前です。私の作った例文は、Oさんが自分で作った基準に当てはめると〇なのですが、感覚的には×です。どこが引っ掛かるのか、なぜダメなのかがわからず、呻吟し続けていました。

文法書の内容を伝えるだけなら、学生たちに自習させれば十分です。文法書に書かれていないポイント、それをまねて例文を作ってもつかめないニュアンスなどを伝えてこそ、本物の教師です。O先生は文法書の行間を読み取ることがまだまだのようでした。

新人の先生には申し訳ないのですが、この辺の感覚はある程度場数を踏まないと身に付きません。場数を踏むと、どんな分析をすればその文法の特徴がつかめるかが見えてきます。教えたことのない文法事項にぶつかっても、どんな例文を出してどことどこを説明すれば学生たちに理解してもらえるかが、頭のなかにひらめいてくるようになります。

気がつくと1時間以上も変な例文を出してはO先生を困らせていました。相撲の世界なら「かわいがり」に相当するのかな。Oさんは、今は文法書と同じ地平にしか立てていませんが、来学期になったら丘の中腹ぐらいには立てるでしょう。そのとき、そのとき、どんな風景を目にするのでしょうか。

10ppm

2月2日(火)

新聞報道によると、先週日銀から発表されたマイナス金利に呼応して、S銀行は預金金利を0.001%にするそうです。ここまでではなくても、現在主流の普通預金で0.02%という金利が、さらに下がりそうだと言っていました。私は経済学に関しては素人ですから、この金利が妥当なものなのか、マイナス金利政策で日本経済が上向くのかなどということについては何も言えません。ただ、0.001%という表現は受け入れがたく、理系人間としては10ppmと表したいところです。

こう表現すると、経済学的にというより、感情的にこの金利はひどいと言いたくなります。金利が10ppmですよ。汚染物質の環境基準じゃないんですよ。何でわれわれが汚染物質濃度並みの金利に甘んじなければならないのかっていう気持ちになります。雀だって、おいらの涙はもっとたくさん出るぜって言いそうです。

同じ事柄でも言い方を変えるだけで印象がガラッと変わることがよくあります。よく例に挙げられるのは、「100円(10分)だけある」と「100円(10分)しかない」です。「だけ」は希望が抱けますが、「しか」は絶望感にさいなまれそうです。自分から積極的に目の前事態に対処するか、目の前の事態に追われて対処するかの違いともいえます。

10ppmと0.001%とを比べると、%は感覚が麻痺してしまって、0.001がどのくらい悲惨な数字なのか見当がつかなくなっているんじゃないでしょうか。ppmは新鮮ですから、それの表す微小さと相まって、ショックが強いのでしょう。

ppm表示をするまでもなく、経済を知らない庶民の感覚として、今の預金金利は低すぎると思います。その金利をさらに下げることで、いったいどんな効果を期待しているのか、そこが見えません。

「山」と「やま」

1月29日(金)

中国語の「山」と、日本語の「やま」は同じだと思いますか、違うと思いますか。「山 中国」、「山 日本」で、googleで画像検索してみてください。全然違う画像が出てきます。

「山 中国」は、まさに峨峨たる山容であり、なるほど象形文字の「山」はここから生まれたのかと納得できます。これに対し、「山 日本」は、なだらかな稜線の緑あふれる穏やかな景色ばかりです。両者の間には、歴然たる違いが見られます。

超級クラスの読解テキストに関連して、こんな画像を学生に見せました。両方を見比べた学生からは、「おお」とも「ああ」ともつかない驚きの声があがり、同時に、中国の学生からは、「山 中国」の画像こそ中国語の「山」の意味するところだという感想が聞かれました。さらに、大和三山の画像を見せたところ、これは「山」ではなく「おか」だとある学生が発言し、多くの学生がその意見にうなずいていました。

漢字が伝来した当初、日本人は「山」という漢字に、自分たちが古来有していた「やま」というやまと言葉を当てはめました。それを訳語としたと言ってもいいでしょう。しかし、上述のように、山≠やまです。「山」は「やま」と訳されたとたんに、峨峨たる山容を失い、なだらかな稜線を描いてしまうのです。「やま」は「山」と訳されるや否や、耳成山にも鋭い岩が屹立してしまうのです。

これと同じような誤解が、いたるところにあるんじゃないかと思います。日中は同じ漢字圏といいつつも、同じ漢字で違うことを考えているのですから。なまじ字が同じだから誤解に気付きにくく、混迷の度合いを深めているんじゃないでしょうか。こういうことに思いが至るのも、留学の意義です。

実は、「山」と「やま」は、日本語教師養成講座の講義が元ネタです。今日のクラスにも、日本語教育に進もうと考えている学生がいます。その学生たちに、ほんのちょっぴりサービスをしました。

ノートが取れない

1月28日(木)

選択授業・身近な科学では、今学期も私の話のノートを取らせて提出させています。今学期の受講者は先学期よりもいくらか下のレベルなので、果たしてどのくらいノートが取れるだろうかと心配していました。先週、今週とやってみると、その心配が杞憂ではないことがはっきりしました。

今学期の学生たちは、メモとも言えないほど何も書けません。ここが要点だよと強調したつもりのところが、さっぱりノートに書かれていないのです。私の話に集中していたと言えば聞こえはいいですが、ノートを取る余裕もないほど集中しないと話の内容が理解できないとしたら、由々しき事態です。

身近な科学に出ている学生たちは、ほぼ全員4月に進学します。進学先では毎日いくつもの講義を聞きます。そのとき、こんなノートだったら勉強したことが何も残らないでしょう。配布資料があったとしても、そこに適切な書き込みができなければ、試験前など、後日読み返したときにわからないでしょう。こんな調子じゃ、単位なんか取れないんじゃないかな。

先学期は優秀な学生のノートを見ると、授業をした私自身が自分の授業に新たな発見をすることがたびたびありましたが、先週・今週のノートは中身がほとんどありません。この学生たちも上級ですから、初級、中級の授業を聞いてきたはずですが、そのときはどんなノートを取っていたのでしょう。今の日々の授業ではどうなのでしょう。

細かい内容はともかくとして、授業全体を通じてのキーワードすらつかめないのだとしたら、これは進学先のみならず、就職してからだって困るんじゃないかなあ。不安が募ります。

国立も受けますか

1月16日(土)

午前中仕事をしていると、受付のカウンターからCさんが私を呼びました。出て行くと、Cさんは「先生、S大学に合格しました」と報告してくれました。

Cさんは建築学を勉強するために日本へ来ました。去年のこの学期、Cさんはまだ初級でしたが、EJUの過去問を求めて私のところへ通いました。数学と物理が大好きなCさんは、少し日本語がわかるようになったら、腕がうずうずしてならなかったのでしょう。S大学はこういう理科が本当に好きな学生を大事に育ててくれる大学ですから、きっとCさんの一生を支え続けるいい勉強ができることでしょう。

ところがCさんは、「先生、国立も受けたほうがいいですか」と聞いてきました。Cさんが名前を出した大学は、うまくすれば手が届くかもしれない大学です。そういうところに挑戦しようという気持ちは評価できますが、ただ単に”国立に受かった“という名誉(?)がほしいだけなら勧められません。

それよりも、私はCさんの日本語力が心配です。入学以来ここまで順調に進級してきたのですから、まるっきり力がないわけではありませんが、今のままS大学に入ったら、入ってからが大変なのではないかと心配せずにはいられないくらいの実力です。S大学できっちり勉強すれば4年後に鳴くことはありませんから、国立の入試に備える暇があったら、今の日本語力を1ミリでも伸ばしてもらいたいです。

新学期が始まってまだ1週間も経っていませんが、卒業式は3月5日ですから、Cさんが勉強できる期間は1ヵ月半ほどです。その間必死に勉強して、S大学の授業についていけるだけの日本語力をつけて卒業していってもらいたいです。進学後、目を輝かせてS大学での生活を語りに来てほしいですから。

どんな先生ですか

12月15日(火)

期末テストまでちょうど1週間なので、テスト範囲の発表がありました。毎学期、この時期になると、アメリカの大学のプログラムで来ている学生のオーラルテストを受け持ちます。

オーラルテストのポイントは、その学生が今学期までに勉強した文法や語句を使いこなしているか、スムーズなコミュニケーションが図れているかというあたりです。初級の学生でも、ナチュラルスピードについていけるかを見ます。普段接することにない学生の話が聞けるのは、私にとっても楽しみです。

私は学生に余計な緊張を与えないようにと思って、まず、クラスの先生の名前を言わせます。ところが、これが言えない学生がけっこういるんですね。確かに、いつでもどこでも「先生」で通じてしまいますから、先生の名前を日常的によく使うわけではありません。でも、1学期間お世話になってきた先生の名前を覚えていないっていうのは、失礼ですよ。

先生の名前が言えなかったら、「どんな先生ですか」という質問で、その先生を表現させます。一番下のレベルでも、「髪が長くて背が高い女の先生です」ぐらいは勉強していますから、初級は初級なりの、中級は中級なりの答えができるはずです。ですから、この質問にきちんと答えられたら、名前の件は帳消しにします。

これに限らず、「どうして」とか「どんな」とかいう質問で、単語レベルの答えを深く掘り下げようとします。ここで差がついちゃうんですよね。文法や語彙の不足をものともせずに喜々として語り始める学生もいれば、いっこうに話が深まらない学生もいます。後者の学生のテストでは、得意な分野で勝負できるようにいろいろな角度から話をさせようと試みても、さっぱり話題が広がらないこともあります。そうなると、「話す」というコミュニケーションはあまり得意でないのだなと判断せざるを得ません。

今学期は、全員クラスの先生の名前が言えたし、突っ込んだ質問にもそれぞれのレベルに応じた答えが返ってきました。今学期いっぱいで帰国する学生もいれば、来年もKCPで勉強を続ける学生もいます。どの学生も、私のコメントを読んで、さらに会話力を伸ばしてもらいたいです。