入学式が終わって

4月5日(火)

今週は入学式が花盛りで、入学式を終えた学生が何人か報告に来てくれました。Yさんもそんな1人で、S大学の入学式後、スーツ姿を見せに来てくれました。

「入学席でどんな話を聞いた?」「うん、いろいろ」なんていう受け答えには若干不安も感じますが、「S大学に進学できてよかったです」と言っていましたから、きっといい話が聞けたのでしょう。明日から早速授業だという声には、これからの勉学に希望を抱いている確かな響きがありました。

Yさんの学科の新入生には留学生が5人いるそうですが、Yさんの国からはYさんだけで、先輩も1人いるだけだとか。でも、おかげで、入試の面接官だった先生が顔と名前を覚えていてくださったそうです。「だから悪いことはできないよ。欠席なんかしたらすぐわかっちゃうからね」っていってやったら、ちょっとビビッていました。

私だって、少数派の国の学生は顔と名前をすぐ覚えます。まして、学科でたった2人しかいない国の学生だったら、学科の先生方全員の注目を集めるはずです。目をかけてもらえるとも言えますが、期待を裏切ったらその反動も大きいんじゃないかな。良きにつけ、悪しきにつけ、国旗をまとってキャンパスを歩いているようなものですから、公私にわたって心して行動しなければなりません。

Yさんは早くもサークルに入ったそうです。そこでも少数派の国からの留学生ということで、けっこう声をかけられているそうです。先輩や同輩がいないことを、今のところはハンデとは感じず、ウリにしているみたいです。Yさんは敵を作るキャラじゃありませんから、頼りになる仲間、将来につながる友人も得られるんじゃないかな。

とはいえ、あまり張り切りすぎても、息切れしてしまいます。いきなりたくさん履修登録しすぎて、レポート・試験の時期に青息吐息どころか、共倒れになってしまったら、楽しいはずの留学生活が、挫折感にまみれてしまいます。頑張り屋のYさんが一番気をつけなければならないのが、この点です。「また大学の様子を報告に来ます」というYさんの言葉に期待して、もう一回り大きくなったYさんの姿を思い描いています。

年間10万円

4月4日(月)

今月から日本経済新聞の電子版の有料会員になりました。日経の記事には日本や世界の情勢を的確につかんだものが多く、教材や授業のネタとしてではなくても、教師として目を通しておきたい内容が毎日のようにあります。無料会員だと読める記事に制限がありましたが、毎月4200円の購読料を払えば無制限に読めます。

私はすでに朝日新聞のデジタル版会員になっており、日経と合わせると毎月8000円以上、年間にすると10万円以上を新聞につぎ込むことになります。高いと言えば高いですが、去年、あまり見ていないケーブルテレビの契約をやめましたから、その視聴料が日経の購読料になったと考えれば、プラスマイナスゼロです。

上級の授業を担当していると、どうしても今の世の中の情勢に通じていなければなりません。その情報の入手方法はいろいろとありますが、日中ほとんど外に出ることができず、また、帰宅してからもテレビはほとんど見ることのない私にとって、電子版の新聞というのが一番アクセスしやすいのです。

それはさておき、年間10万円強という情報料は、高いのでしょうか、安いのでしょうか。1日当たりにすると300円ほどです。1日コーヒー1杯といえば、そんなでもありません。でも、年に10万円といえば、豪勢な旅行1回分であり、高めのスーツ1着であり、ふぐのフルコースなら3~4回分かな。まさに、「ちりも積もれば山となる」です。

旅行1回分を新聞につぎ込んでいると考えるとちょっと悔しい気もしますが、旅行の軍資金を得るための必要経費だと考えれば、納得できないわけでもありません。サラッと流す授業ならここまでしなくてもいいのですが、自分自身が満足できる質の授業をしようと思えば、これぐらいの投資は必要です。

来週の月曜からは、もう授業が始まります。日経電子版の記事をどこでどういう形で使うかはまだ構想段階で明確には決めていませんが、せっかく4200円も払うのですから、その分授業で楽しませてもらおうと思っています。学生がそれに応えてくれたら、言うことないのですが。

聞こえた?

4月1日(金)

東京は昨日桜が満開になり、4月を迎えました。午前中は健康診断があり、ちょっと遠回りして桜を楽しみながら病院へ向かいました。朝の早い時間帯、しかも平日ときていましたから、悠長に花見などしている人はおらず、私1人のんびりと花を愛でることができました。

病院は思ったほど込んでいませんでしたから、健康診断は各検査項目で待たされることもなく、順調に進みました。ただ1か所、聴力検査で引っかかりました。

「音が聞こえたらボタンを押してください」と言われたので、ピーピーという電子音が聞こえるたびにボタンを押したのですが、途中で検査担当者が飛んできて、「ちゃんとボタンを押してください」と言います。「音に合わせて何回も押すんですか」「いいえ、鳴り始まってから鳴り終わるまでずっと押していてください」「押し続けるんですか」「はい、そうです」。そういえば、瞬間的に押すんじゃなくて、ずっと押したままだったなあと、去年までの健康診断を思い出しました。

検査担当者にとっては毎日のことでしょうが、検査されるほうにとっては年に1回こっきりのイベントでしかありません。1年経ったら、やり方なんか忘れちゃうほうが普通ですよ。検査員さん、あなたの説明の言葉、ちょっと足りなかったんじゃないですか。

健康診断は午前中で終わり、午後からは新学期の準備。夕方、初級の先生に頼まれて、聴解テストの問題を聞きました。私のほかにも何名かの先生がテストに取り組んだのですが、絵のある問題の絵の受け取り方に違いがあることが浮き彫りになりました。絵を描いた本人が意図した状況・場面と、その絵を見た人が受け取った状況・場面とにずれが生じていたのです。学生と教師とでは受け取り方がまた違うでしょうし、出身国、すなわち、生まれ育った環境によっても、同じ絵を見て何に注目して何を感じ取るかが違ってくるでしょう。

人間のコミュニケーションは、誤解の連続です。誤解をいかに少なくするかに頭を使います。ここをすっ飛ばしてしまうと、気が利かないとか親切じゃないとか言われてしまいます。私は、今朝の聴力検査で、聞こえている間じゅうずっとボタンを押し続けないと、検査員が聞こえた・聞こえないの判断ができないってとこまで思いを馳せなければならなかったのかなって、ちょっと反省しました。

残念な学生

3月31日(木)

学期休みになると、先生方は「残念な」学生に電話をかけ、その学生を呼び出したり宿題を与えたりして、何とか進級させようとします。私は、今学期受け持った学生は卒業生が大半で、来学期も残る学生たちには「残念な」学生はいませんでしたから、高みの見物を決め込んでいます。

教師から「残念な」成績を知らされた学生は、たいてい、自分はそんなにわからないわけではないということをアピールしようとします。わかっているんだけど、ケアレスミスを犯したとか、答え方がちょっとまずかっただけだとか、そんな言い訳をします。中には、あまり勉強しないで期末を受けたと言って、教師の逆鱗に触れてしまう学生もいます。勉強しさえすればこんなのチョロイと言いたいのでしょうが、学生の本分である勉強を怠けたのだから、進級する資格などあるわけがないというのが教師の論理です。

それでも説教+宿題ぐらいで進級を認めてもらった学生は、まだ幸せです。電話口で冷たく「もう一度同じレベルです」と告げられた学生は、憤懣と落胆と悲憤と怒りと嘆きとが入り混じった複雑な感情を抱きます。それを教師に吐き出そうとしますが、「残念な」成績しか挙げられない学生ですから、教師の心を動かすような日本語になどなるはずがありません。その日本語が火に油を注ぐ形となり、さらにドツボに陥っていくパターンが大半です。「あなたには上のレベルじゃなくて下のレベルに行ってもらいます」なんて言われている学生すらいます。

でも、本当に困るのは、テストでは点を取っちゃうんだけど、全然話せなかったりコミュニケーションが取れなかったりする学生です。そういう学生の実力のなさがあぶりだされるのが、志望理由書を書いたり面接練習をしたりする頃なのです。入試は、説教+宿題や再試験でどうにかなる問題ではありませんから、今から自覚を持って真の実力を上げるように、こちらも指導しどうしていかねばなりません。

書類整理

3月30日(水)

職員室の席替えがあるため、教職員一同、身の回りの整理整頓に余念がありません。私は席の移動はありませんが、引き出しの中や机の上にたまった書類をずいぶん整理しました。

自分としては書類をため込んでいるつもりはなかったのですが、今は捨てられないとか、後で必要になるかもとか思ってどこかに突っ込んでおいた書類が、賞味期限切れとなって、わんさか見つかりました。一度捨てちゃったらもう復活できませんから、迷ったらキープなのですが、何で取っておいたのかわからないようなので机や引き出しが占領されているようじゃ、社会人失格ですね。

机まわりだけではありません。受け持ったクラスのプリント類も整理しなければなりません。欠席者に配り損ねた教材を見ていると、この3か月のことがありありと思い出されてきます。出席簿を見ると、卒業していった学生の顔が一人ひとり浮かび上がってきます。でも、そんな感傷に浸っている暇はありません。いらないものはばっさり捨てて、保存すべきものはしかるべきところに置き、新学期に備えました。

驚くべきはシュレッダー。ダストボックスが数時間も経たないうちに2回も満杯になりました。それだけの秘密書類が、この職員室から消え去りました。それだけ、思い責任を背負っているのだなと感じさせられました。でも、サーバーにはシュレッダー級の書類がその数百倍か数千倍か数万倍か、もしかすると、数億倍ぐらいあるに違いありません。二度と日の目を見ることのない電子的なデータが、これからも幾何級数的に増えていくことでしょう。

コンピューターの中に保存しておけば大丈夫って、私たちは書類整理を放棄している面があるんじゃないかなって、ふと思いました。

分不相応?

3月29日(火)

卒業式前からずっと一時帰国していたGさんが、お土産を持って挨拶に来てくれました。お母様が入院していたので全然遊べなかったとか。

GさんはS大学に進学し、来週早々入学式とオリエンテーションがあります。「先生、なんだか不安です」と言いますが、もう入学金も授業料も払ってしまったのですから、突き進むしかありません。今さら授業についていけるかどうか心配だなんて口走るくらいなら、最初からS大学など受験しなければよかったのです。

S大学は、Gさんにとっては「入れたらいいな」という大学で、はっきり言って、実力相応校より1ランクか2ランクか上の大学です。入試の際には私も精一杯支援をしました。Gさんも憧れの大学に入れるなら何でもしますっていう覚悟でした。合格発表のときの喜びようは、尋常なものではありませんでした。でも、自分でもS大学は実力より上の大学という認識がありますから、いざ入学が迫ると、あれこれ不安を感じずにはいられないのです。

日本人の友達が作れるだろうかというのが、最大の不安のようです。「私は日本語がまだまだですから」ってそういうGさんを、日本語力だけではなく、キャラも深い部分の人間性も含めて、S大学は自分のところで勉強するだけの力があると認めたのですから、その判断を信じようじゃありませんか。少なくとも、同国人だけで固まってるようなら、楽しいキャンパスライフは望めません。

おそらく、Gさん以外にも同じような不安を抱えている学生が少なからずいることでしょう。でも、あなた方はその大学に選ばれたのです。学力も申し分なく、学風にも溶け込めると見込まれたのです。自信を持って、入学式を迎えてください。

小技を磨け

3月25日(金)

最上級クラスの期末テストの採点をしました。このクラスの学生は、卒業式までは卒業生と机を並べて勉強した学生たちです。卒業式以降は、4月からの新学期への助走期間として、初級から今まで習ってきた文法を正確に使いこなす練習をしてきました。

採点結果は、みんなそれなりの成績を挙げはしたのですが、私には不満が残りました。学生たちにとっては復習問題だったので、満点に近い点数で合格してほしかったのに、そこには程遠い成績でした。「名ばかり最上級」とまでは言いませんが、横綱相撲で勝ってほしかったのに、土俵際まで押し込まれてかろうじて逆転の突き落としみたいな成績じゃ、4月以降KCPを引っ張っていく立場の学生としては情けないものがあります。

だからといって、この学生たちの日本語が意味不明なわけでもなく、こちらの言葉が通じていないわけでもなく、難しい文章も読みこなしています。コミュニケーションに支障をきたすようなことはありません。それでも、可能や使役や「ている」などの使い方を間違えているのです。研究計画書や志望理由書、プレゼンテーションなど、正確な日本語が要求される場面では、不安が残ります。

実は、卒業生の中に、志望理由書を見てくれと持って来たものの、「てある」とか受身とかの使い方がまるでなっていなくて、愕然とさせられた学生がいました。そんなことがあったので、今回、復習の時間を設けたのです。私が採点した学生たちも、あと半年足らずのうちに研究計画書や志望理由書を書かなければならない運命にあります。そのときまでには、せめて大関相撲が取れるくらいにはなっていてもらいたいです。

期末の採点が終わり、一息つけるかと思いましたが、新たな課題を見つけてしまいました。

桜一輪

3月24日(木)

毎年、東京の桜の開花と歩調を合わせるかのように、新宿御苑前駅には大木戸門と新宿門の案内が出ます。案内といっても矢印で示されるだけですが、その案内の地が桜色で、しかもでかいので、陽光の入らない地下鉄駅が一気に明るくなるのです。この案内を見ると春が来たなと感じますし、だから、そろそろコートを脱がなきゃと思い始めます。

今週の月曜日、この案内を見つけ、火曜日からコートを脱いで通勤しています。今朝はちょっと寒かったので、よっぽどコートを着ようかと思ったのですが、少しのやせ我慢と勇気を持って、着ないで家を出ました。駅の温度計は7.7度でしたが、手がかじかむような冷たさは感じませんでした。結局、コートなしでも耐えられました。もうこのまま秋までコートは着ないんでしょうね。まあ、上には着なくても、下はヒートテックを着込んでいますからね、春まだ浅しといったところでしょうか。

朝、仕事をしていると、卒業生のHさんが書類をもらいに来ました。午後から専門学校の入試で、そのときに提出する書類です。今年は、Hさんには暖かい春が来ませんでした。もう1年冬を過ごさなければなりません。妥協すれば入れる大学はたくさんあったのですが、Hさんは最後まで妥協をしませんでした。さらにもう1年その固い意志を保ち続けることは至難の業ですが、その茨の道を敢えて選んだのです。挫けずに貫き通してもらいたいものです。

期末テストが終わり、明日から新入生が来るまでは、束の間の静けさが訪れます。その静けさのうちに、新学期に備えて頭の体力を回復しておかなければ…。

大仕事

3月23日(水)

今学期最後の授業は初級クラスでした。教科書の残りの部分を片付けたら、後は復習とまとめです。初級は1学期の間にグンと力を伸ばしますから、復習と言ってもかなり広範囲にわたります。また、初級も後半に差し掛かると少々特殊な言葉遣いも勉強しますから、覚えるべきことも結構な量です。

Sさんは復習プリントやまとめプリントを読んでいるだけで、そこにある練習問題をやろうとしません。いや、Sさんとしては問題を考え答えを出しているのですが、それを全くプリントに書き込もうとしませんから、教師としてはやっているとは認められないのです。指名すると、案の定、正確には答えられません。こちらが「えっ?」と聞き返し、間違いに気付いた周りの学生が小声で教えても、Sさんは平気な顔です。

こういう学生は、自分はできる、こんな程度のことはわかっていると思い込んでいます。だから、間違いを指摘されてもそれはケアレスミスに過ぎないと思い、本気で改めようとはしません。もちろん、その間違いはケアレスミスなんかじゃありません。文をきちんと作らないから、間違いが間違いとして認識できないのです。だから、本当はわかってなんかいないということが、本人には全然見えてきません。

今までに何十人もこういう学生を見てきましたが、末路は哀れなものです。友人や教師の忠告には耳を傾けず、わが道を歩み続けますから、日本語力は伸びません。進級できずに同じレベルをくり返すとなると、授業がつまらないので受験勉強にのめりこみます。しかし、日本語力がいい加減ですから、受験勉強もうまくいきません。自己流を貫いたあげく、卒業が近づいてから自分の失敗にやっと気がついても、もはや手遅れです。志望校には当然手が届かず、不本意な進学をする羽目に陥ります。

Sさんはそんな体臭をぷんぷん発散させています。Sさんをどうやって真っ当な世界に連れ戻すかっていう、この1年の大仕事を見つけてしまいました。

流れる授業

3月22日(火)

最近、新しい先生の授業見学をしています。どの先生もきちんと教案を立てて授業に臨んでいることは、教案もろくに立てずに授業をしている私から見ると、立派なことだと思います。

でも、教案の通りに進めようとするあまり、教案にとらわれてしまってはいけません。教案は台本やマニュアルではありませんから、絶対その通りに進めなければならないというものではありません。私が教案を立てないのは、その場の雰囲気に重きを置きたいからです。教室内の空気の流れに合わせて、自然に授業を進めたいのです。遅刻してきた学生や、昨日までとは違う様子の学生や、ちょっとした学生のことばを授業に取り入れて、作られた場面ではなく、実地で文法やことばの使い方が体験できる授業が理想形なのです。

たとえ初級でも、そういう授業の作り方は可能だと信じて、授業の時は学生の一挙一動に注目しています。もちろん、その日の授業で何を教えなければならないかはきっちり押さえています。その上で、そこまで持っていくのに、いかに学生をいじるかを考えるのです。こんなことをした学生がいたら、こんなことを言った学生がいたら、それを捕まえてこんなふうに授業につなげようということは、さんざん考えます。

1日の授業がよどみなく流れるように進んで、気が付いたら漢字も文法も読解もたくさん勉強していたっていうのが、私の目指す究極の授業です。「これで漢字は終わりです。次は文法です」っていうんじゃなくて、その日の漢字の最後が文法の導入につながっていて、そこに教室の学生の雰囲気が反映されているという授業です。

明日は今学期最後の授業です。引継ぎによると、あれこれやることが山ほどあるようで、流れるような授業にはならないかもしれませんが、学生にとっても私にとっても気持ちのいい授業をしたいです。