壁を突き抜けて

7月9日(木)

各教室に久しぶりに顔を合わせた学生たちの歓声が響き、どの学生も希望で満ち溢れている始業日は、一種独特な雰囲気が感じられます。宿題を忘れたとか授業がわからないとかテストが不合格だったとか友達とけんかしたとか、そういうネガティブな要素がありませんから、今日のような曇り空ないしは小雨という天気でも、校舎内には明るさが感じられます。

私のクラスもそういう空気が詰まっていましたが、受験生の多いクラスで今から浮かれてもいられないので、現実に引き戻す話をたっぷりしました。「みんなの日本語」の文法を完全に使いこなせれば、どんな面接でも恐れるに足りないけれども、「みんなの日本語」に出てくる単語の2倍以上知っていても、JLPTのN3をとるのに必要な単語数にも遠く及ばないなんて話をしました。

すると、学生たちはとたんに意気消沈してしまいました。目の前に突然厚い壁が現れた感じだったかもしれません。でも、この壁を突き抜けた学生だけが、次の学期に中級へと進級できるのです。中級を担当した教師としても、ここをごまかしたままの学生は受け取りたくないです。先学期同じレベルのクラスを受け持ったとき、本当にそれを強く感じました。学期の最初で意気消沈したとしても、それをばねに伸び上がっていく勢いがないと、その人の日本語力はそこで打ち止めです。

ここまで考えると、先学期の私のクラスの学生たちはよくやったと思います。期末テスト直前でも3分の1ぐらいが壁に跳ね返されるんじゃないかと思っていたのですが、期末の日に休んで受けなかった学生以外、かろうじてではあっても合格点を取ったんですから。

はて、今学期の学生たちはどこまでやってくれるでしょうか。

看板

7月8日(水)

Bさんは私なんかと同年代と言っていいくらいの学生で、KCPの学生の中ではかなり年齢が高いです。だから、未成年と同じように扱われるのがどうも嫌なようです。ことにKCPは語学以外の躾も厳しく、学生の行動にあれこれ口を出します。また、Bさんぐらいの年齢となるとクラスの先生のほうが年下のことが多く、そういう先生から細かなことまで注意されることにストレスを感じているように見受けられました。

話し合ってみると、学生には学生の責務があり、学校の中では年下であろうとなんであろうと教師の指示に従うべきだと言います。こちらが訴え続けたことが多少は理解してもらえたようです。ただ、学校の中ではという点を強調していたようにも聞こえましたから、少なくとも学校の近辺ではKCPの看板を背負って歩いているのだということを忘れないでほしいとお願いしました。

昨日の夜、帰宅しようと学校を出て御苑の駅へ向かっていると、「先生、こんばんは」とDさんとLさんに挨拶されました。2人は旧校舎時代の卒業生で、進学先も卒業する頃ではないかと思います。学校の近くではそんな学生からも声をかけられます。また、学校近辺の店で買い物すると、店員から「先生、こんにちは」とにっこり笑いかけられることもよくあります。私の知らない顔の学生がいたるところでアルバイトをしています。

日本人からも、「このごろ学生さん、いませんね。学校、休み?」なんて声をかけられることも。わたしも、KCPの旗ざおを背中に差して歩いているのです。だから、Bさんも学校の中だけ「いい学生」では困るのです。地域の中で育ててもらっていると思ってもらわなければ困ります。Bさんはそのあたりをどこまでわかっているのだろうかと思いました。

さらにBさんは年長者ということで、若い学生に与える影響が強いです。自分は周りから見られているということを意識して行動してもらいたいです。明日から新学期。Bさんはどんな留学生活を送るのでしょうか。

入学式挨拶

7月7日(火)

皆さん、ご入学おめでとうございます。このように世界の各地から多くの新入生を迎えることができ、非常にうれしく思っています。

皆さんは自分自身のことをどれぐらい知っていますか。自分の長所や短所、思考回路や行動様式、性格や嗜好などをどこまで把握していますか。知っているようで知らないのが自分のことです。

これから始まる留学生活では、今までに一度も経験したことのないことに出くわすことも多いでしょう。幾度もピンチに見舞われることと思います。皆さんが持っている物差しでは測りきれない事態に遭遇することの連続です。そのときに、皆さんが何をどのように考え、どんな結論を導き出し、いかに動くか、これによって皆さんは自分自身を知ることになるのです。意外に打たれ強いとか、一人ぼっちに弱いとか、交渉事が思ったよりうまいとか、そんなことを感じていくでしょう。今まで気が付かなかった自分の一面が見えてきます。こういう経験を通して、新しい自分を切り開いていってほしいのです。

世界を広げるために留学に来ました――こう語る留学生は多いです。確かに、留学によって自分の知らなかった世界を知ることはできます。生の日本文化に触れることを楽しみに来ている方も多いでしょう。KCPの教室で異文化を持った友人と語り合うことは、留学ならではの得がたい経験です。それをきっかけにして、世界に目を見開いていった先輩もたくさんいました。しかし、そんな彼方のことではなく、足元の自分自身を知ることもまた、留学の大きな意義です。

自分を知るとは、自分の適性を見極めるとも言えます。これが皆さんの将来を形作る大きな要素になることもあるでしょう。自分自身に対する新しい発見によって、自分の秘められた可能性を引き出し、それをベースに将来設計をし直すことだってあり得るのです。留学で広げられる世界は、外に向かう世界だけではありません。自分の内的世界、未知の能力の開発のほうが、重要な意味を持っていると私は思います。

孫子の兵法に「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」という言葉があります。敵に勝つには、敵を知ることはもちろんですが、自分自身を知ることもそれに負けず劣らず重要なのです。親元や母国を離れて長期間外国で暮らすのは、多くの方にとって初めての経験でしょう。ただ勉強に追われて漫然と過ごすのではなく、自分自身を直視し、強さも弱さも見極める機会としてほしいのです。これができれば、この留学は皆さんのこれからの長い人生における強固な基盤になるでしょう。その基盤の上に、日本での経験や学問を応用した皆さん自身の人生を築いていってください。

この留学が、10年後、20年後、30年後の皆さんに資するものになることを切に願っています。本日は、ご入学、本当におめでとうございます。

雨降り

7月6日(月)

強い雨ではないけれども傘をささないわけにはいかないぐらいの雨がずっと降っています。天気図を見ると高気圧も台風も勢いよく動く気配はなく、予想天気図でも前線の位置はほとんど動きません。ということは、ここしばらくはこんな天気が続くということです。先週もパッとしない天気が続きました。梅雨だから文句を言ってもしかたがないのですが、そろそろスカッとした青空が恋しくなってきました。

お天気にかかわらず、新学期は着実に近づいています。その準備の一環として、図書室の整理をしました。蔵書の配置換えをしましたが、古い本の多さに改めて驚かされました。古いことが価値につながる本や記録として取っておく必要がある専門書などは捨てるわけにはいきませんが、それ以外にもこんなの誰が読むのっていう本が多数ありました。でも、勝手に捨てるわけにはいかないんですよね、学校法人の場合は。

古新聞や昔のアルバムが出てくると思わずそれに見入ってしまうように、20年以上も昔のガイドブックなんていうと、史料価値といいたくなるくらいの面白さがあります。三条から浜大津に向かう京阪電車なんて、私が学生のころの話です(現在は京都市営地下鉄)。その頃のことを思い出して、涙が出そうになりました。また、ハードカバーの単行本が昭和58年には480円だったなんて、そう簡単にはわかりませんよ。私の感覚だと、昭和58年はついこの前なんですが、実際にはかなり昔なんですね。

夕方は、入学式の会場設営。講堂全体を埋め尽くす椅子は、壮観そのものです。明日もお天気はよさそうにありませんが、ここに期待に目を輝かせた顔が並ぶのでしょう。

手直し

7月4日(土)

今学期は超級クラスを担当しそうなので、教材集めをしています。といっても、新しく見つけ出すのではなく、以前使った教材を再利用しようと考えています。このレベルともなると、外国人向けの市販の教科書をそのまま使うわけにはいきません。それでは易しすぎるし授業が単調になってしまうし、こちらで補助教材を用意するなど、かなり手を加えなければなりません。それをやるのはかなり大変なので、昔の教材のリバイバルとなるわけです。

昔の教材を使うとなると、教材の鮮度が問題となります。3.11より前の教材は、現在では的外れなことになっていることもありますから、ことに要注意です。文法の例文も漢字のテスト問題も、手直しの必要なことがあります。そのときアップ・トゥー・デートな話題であるほど、その時期が過ぎると急に古臭くなってしまうものです。

そういう目で見ていくと、そのまま使える教材のなんと少ないことでしょう。ゼロから作るよりはましですが、やっぱりかなりの労力がかかります。また、教材を作ってから今までの間に、学生の志向や嗜好や思考が変わったという面も見逃せません。進学志向が強まり、多かれ少なかれサブカルを嗜好し、個人主義的な思考法が広まったと思います。そんなことも反映する必要があります。

それから、受験シーズンに入っていきますから、志望理由書の書き方やら面接の受け方やら大学の独自試験対策やらもしていかなければなりません。以前の資料を見ると、われながら甘いなと思うところもありますから、やっぱり何かすることになるでしょう。

来週は新入生の受け入れと養成講座の授業のかたわら、こんなことをしていきます。

魂を込める

7月3日(金)

昨日帰り際に、DさんからW大学の志望理由書が送られてきました。新学期が始まったら程なく出願で、いよいよ今年の受験シーズンが始まったと思いました。

まだ志望理由書を書く練習をしていませんから、Dさんの志望理由書も全然練れたものではありませんでした。まず、制限字数の2倍近くも書いてありましたから、大鉈を振るいました。取り留めのない経験談をばっさり切り捨て、将来計画も大学で何を学びたいかも今一つはっきりしていなかったので、それを書くことに。それ以外の内容も一般的過ぎるので、Dさんに聞き直した上で、特徴的なことを強調した文章に。エキスだけをぎゅっと絞って、何とか最初の半分にし、制限字数をクリアできるレベルにまで切り詰めました。

新学期が始まったら、まずスピーチコンテストの原稿書きですが、それに引き続いて志望理由書の指導をしないといけません。早い大学は今学期中に出願締め切りを迎えますから、もたもたしている暇はありません。学生の意識を自分自身の内面に向け、自分と向き合うことが第一歩です。志望理由書にウソを並べても、面接で簡単に見破られます。ここで心の棚卸しをし、自分の魅力とセールスポイントに気付くことが求められます。始業日から臨戦態勢です。

学生は、よく、志望理由書の雛形をくれと言います。あげてもいいんですが、雛形って自分で作るべきものなんじゃないかな。真に読み手に伝えたいメッセージは何なのか、それこそ追求すべきことですよ。それがいい加減で形だけまねたって、仏作って魂入れずです。

Dさんの志望理由書は、魂が3分の2ぐらい入ったかな。出願までにはもうちょっと時間がありますから、試験官へのメッセージを練り上げていってもらいたいです。

爆弾作り

7月2日(木)

来週の木曜日は始業日なので、先生方の打ち合わせがありました。スピーチコンテストの概要や、進学に関する情報などをお伝えし、新学期への準備を進めました。K先生がスピーチの指導方法について詳しく講義してくださり、また、今までよりぐっとすてきな今年の会場の写真を見せられたりして、ああ今年も夏学期が始まるんだなという気分になってきました。

私は明日も来週も養成講座の授業があるので、そっちに頭を使っていると、ついつい新学期の準備が疎かになってしまいます。別に現実逃避しているわけではありませんが、受講生には全力で立ち向かいたいですから、授業の下調べに力こぶが入るのです。まあ、語彙論とか意味論とか形態論とか日本語の歴史とか、授業内容が私の好きな分野ですから、なおさらそっちのほうに目が向いてしまうのでしょう。

それでも、新学期に私が担当することになりそうなクラスの授業構想を立て始めています。教材集め、教材作りにも取りかかっています。こちらもやり始めると結構熱中してしまうもので、この教材は今学期は難しいかもしれないけど、学生たちが力をつけた来学期ならこなせるかななんて、3か月も先のことまで心配しちゃったりしています。仕事のしかたが散漫でいけませんね。

今度のクラスは進学希望の学生が大半ですが、進学するのに役に立つ日本語だけではなく、進学してから勉強しておいてよかったと思ってもらえるような日本語を教えていきたいと思っています。1年後か2年後に爆発するような時限爆弾を仕込んでいるような感じです。そう考えると、教材作りがおもしろくなります。

計画が進む

7月1日(水)

大阪からお客様が見えて、打ち合わせをしました。今日だからよかったものの、昨日だったら大変なことになっていたかもしれません。新幹線の車中で焼身自殺とは、人迷惑にも程があります。巻き添えで亡くなった方はどんな思いだったのでしょう。

死人に口なしで、自殺した当の本人は何を考えてわざわざ死に場所に新幹線を選んだのかはわかりませんが、死に場所を選ぶという発想自体、精神的に余裕のある人間の考えることなのかもしれません。自分のことしか見えなくなっているから自殺するのでしょう。自分を客観視できたら、そう簡単には死を選ばないんじゃないかな。

そうだとしても、新幹線で死ぬなよ。新幹線に乗る金があったら、迷惑のかからない死に方ができただろうに。いや、どんな死に方でも誰かに迷惑をかけますよ。だから、その金でおいしいものでも食べて、小さくても夢を抱けばよかったんです。

私はそもそも死にたいと思いません。辛いことがあったら、休みに何をしようかと考えます。今は夏休みの計画立案の真っ最中であり、時には年末年始の休みにも思いを馳せます。あれしようこれしようと考えたり、ネットで調べたり予約したりしているうちに、気持ちが前向きになってきます。この辛い場面を乗り越えたらまた一歩夏休みに近づくと思うと、どうしたら乗り越えられるかという方に気持ちが向いてきます。

そろそろ新学期の授業計画を練り、教材をそろえなければならないのですが、これが遅々として進んでいません。進むのは夏休みの計画ばかりで…。

お問い合わせ

6月30日(火)

先週末から期末テストの成績の問い合わせが相次いでいます。私が担任をしたクラスは期末テストを受験しなかった1名を除いて、全員合格して進級します。ですから、問い合わせメールに答えるのは気楽なのですが、果たしてこれでいいのだろうかと思うことがあります。

たとえば、Mさんのメール。「私  4行 。心配……」とだけ書いてありました。「私はレベル4にいけるでしょうか。とても心配です…」とでもいう意味なのでしょう。確かにMさんの言いたいことも気持ちもわかりますが、こんなメールの送り主を中級に上げてしまっていいのだろうかと思ってしまうのです。

Mさんも含めて、クラス全員が私の予想を上回る好成績を挙げてくれたことはうれしい限りです。試験直前にかなり一生懸命勉強したのでしょう。でも、授業中の様子を見ていると、「この学生が中級???」という学生が何名かいることも事実です。平常テストは再テストでかろうじて合格点を確保し、期末テストの一発勝負でVサインというパターンが目立ちます。

自分は余裕たっぷりで上がったのではないという自覚があればいいのですが、そういう学生に限って上がってしまえばこっちのものと思うものです。そうすると、学期休み中ろくに勉強せず、新学期が始まるころには中級どころか初級に逆戻りとなりかねません。自分は余裕たっぷりで上がったのではないという自覚があれば、合格で安心せずに復習もするでしょう。でも、メンバーを見ると、そんな奇特な心がけの学生はいそうにありません。

上がるにしても、もっと苦しんでから上がってほしかったなというのが、正直な感想です。順調すぎて逆に最終的な勝利に結びつかなかったっていうんじゃ、全く意味がないじゃありませんか。小さな挫折で軌道修正し、大きな挫折を未然に防ぐのが理想なんですが、挫折はたとえ小さくても味わいたくないですよね。

気が付いたら今年も半分過ぎてしまいました…。

たまのお葬式

6月29日(月)

昨日は和歌山電鐵の社長代理・ウルトラ駅長のたまのお葬式がありました。式場となった貴志駅はたまが駅長として勤務していた駅であり、昨日はそこに警察が交通整理をするほどの参列者が訪れました。3000人と報じられていますから、人間の葬式にしてもかなりの規模です。

私も、去年の5月の連休にたまを見に和歌山まで出かけました。私が乗った和歌山電鐵の電車は、乗客の大半がたま目当てでした。たまによって和歌山電鐵の乗客が大幅に増えたと報じられていましたが、それを身をもって感じました。たまがいなかったら、貴志駅まで乗ったお客はほとんどいなかったでしょう。それが和歌山電鐵沿線の実力であり、たまによって数十名の乗客が数百円の運賃を払って貴志駅まで乗り通したのです。そして、貴志駅に併設されているカフェや売店でお金を落としていました。たまの経済効果が11億円とかと算出されていますが、それぐらいあっても全然おかしくないと思いました。

たまの成功の後、各地の地方鉄道で動物の駅長が相次いで生まれました。二番煎じにならないようにと工夫はされていますが、たまを超える駅長はいまだ出現していないようです。それだけに、たまを招き猫として見出し、駅長に抜擢した和歌山電鐵の社長さんは偉いと思います。こういう経営センスは、机上の学問だけじゃ身に付きませんよね。学生たちは「大学を卒業したら経験を積んで…」と気安く言いますが、こういう発想の現場での経験こそ、学生の将来に資するものなんじゃないかと思います。

和歌山電鐵にはたまの後継ぎの猫がいるそうですから、きっと人気は保たれるでしょう。それどころか、たま大明神として祭られるそうですから、死して後も和歌山電鐵の貢献する勢いです。