遺言?

1月21日(木)

超級クラス、しかも卒業式を迎えるこの学期ともなると、教えることがなくなってきます。特に読解は、外国人向けの日本語教材では全然追いつきませんから、新聞・雑誌の記事や小説や論説文やエッセイや日本人高校生向け問題集など、あらゆる方面に手を回して教材を集めています。

そういったものから教材を採ったとしても、字面を追うだけなら学生たちは自習できちゃいますから、字面だけからはわからない何がしかを付け加えています。例えば、今扱っている教材には関西弁がふんだんに出てきますから、関西弁を共通語に訳してみたり、その訳語と関西弁のニュアンスの違いを議論したりしています。

小説なら、文中に表れたちょっとした言葉から登場人物の心理を推理してみるなんてこともしています。行間を読むというか、1つの単語から想像を広げるすべを身に付けてほしいと思っています。また、日本人なら暗黙の了解で済むことも、学生たちはきっちり説明してもらわないとわからないこともあります。辞書やネットではつかめない何物かを与えていくことが、このレベルの学生たちに対する我々教師の役割だと思っています。

このクラスの学生の大半は、4月から進学先で日本人に囲まれて勉強していきます。授業では留学生だからと手加減や特別扱いされることはないでしょう。日本語にじっくり向き合えるのは、日本語学校の卒業式までですから、こちらもその間に日本人に「伍して」いけるだけの、日本語力プラスアルファをつけさせようと思うのです。日本語力はもう十分ですから、「プラスアルファ」の部分に力点を置いて、卒業直前の授業を組み立てています。

私から皆さんへの遺言だよって言って、授業をしています。

さすが新成年‥‥の一方で

1月20日(水)

先日の成人式で成人の祝福を受けたHさんは、学校の近くのコンビニでアルバイトしています。そのコンビニへKCPの学生が来て、タバコを買おうとしました。Hさんは店の規則に従って、年齢確認のため身分証明書の提示を求めました。その学生が出した身分証明書には1996年8月という生年月日が記されていました。Hさんは、その学生へのタバコの販売を拒否しました。

Hさんの判断は、さすが新成年というものであり、悪いことは悪いと断固拒否するところは、いかにも法学部への進学が決まった学生らしいです。また、店員の立場で客の要求を拒否するのは勇気が要ったでしょうが、よくぞ断ってくれたと感心しました。

それにしても、タバコを買おうとした学生です。20歳未満の喫煙は法律で禁じられているとあれほど注意しているのに、まだあきらめようとしません。耳にたこができて、鼓膜が震えなくなってしまったのでしょうか。違法行為を働くということについていったいどう考えているのか、問い詰めてみたいです。

未成年学生の喫煙は、法律を破るか破らないかですから、見逃すとか妥協するとかということはありえません。でも、これが後を絶たないのは、こちらの指導法に欠けているところがあるからなのでしょう。タバコ以外の面で太陽政策みたいな指導が執れればいいのですが、「タバコは絶対ダメだけど、〇〇は認めてあげよう」という“〇〇”が見つかりません。かといって、「タバコは健康に悪いから…」と理詰めに説いてみたところで、タバコが吸いたくてたまらない、日本語の理解力に難のある外国人未成年の心には響きません。通訳を介しても、五十歩百歩でしょう。

学生と教師とのあいだに確固たる信頼関係が成立していれば、こういう指導もうまくいきます。ここで教師力などという抽象的なファクターを軽々しく出したくはありませんが、1週間で学生の心をがっちりつかむ教師もいれば、1学期経っても学生に名前すら覚えてもらえない影の薄い教師もいることは事実です。その違いが未成年喫煙を始めとする法律、ルール、マナーに対する学生の順法精神の違いにつながっているとすれば、教師が自分自身を磨き続けることが学生の人生に直結しているのであり、責任重大です。

上澄み

1月19日(火)

今学期は最高レベルの超級クラスを2つ、上級の入口レベルのクラスを1つ持っています。両者を比べると、愕然とするほどの実力差があります。卒業文集の下書きを並べてみると、超級クラスは語句レベルの手直しで済みますが、上級の入口レベルは文の構成に抜け落ちがあります。だから、そこを補うように指示を出していかねばなりません。

いやしくも上級なのにそんな体たらくなのかと言われてしまいそうですが、そもそも文章を書くという技能は、語学の四技能のうち最難関なのではないかと思います。「聞く」「読む」は情報受信であり、受け身の姿勢でも何とかなります。「話す」「書く」は情報発信なので、何より発信すべき何物かを持っていなければ、どうしようもありません。そして、情報発信となると、受信する身にならないと一方的、独りよがりの行動になってしまいます。また、「話す」は後に何も残りませんが、「書く」は書いたものがいつまでも形として残り、何回でも読み返され、時には批判に晒されます。超級クラスの学生は、発信すべき何物かを持ち合わせ、しかも受信する側を慮って発信しています。上級入口クラスは、その域には及ばないというわけです。

上級入口クラスの学生にも、あまり手を入れなくてもいい文章を書く学生もいます。しかし、超級クラスの文章に比べると、エンターテインメントの要素に欠けているように思います。KCPでの思い出を語るのに精一杯で、読み手の心に響くところには至っていません。超級レベルは、サラッと書いているようで、きっちり盛り上げているんですね。自分にとっての外国語をここまで使いこなせるなんて、外国語を学んだことのある者として尊敬してしまいます。

そういう超級クラスでも、受験では頭を痛めています。Yさんは、今、国立大学に出す志望理由書を書いています。Yさんレベルの学生が紙一重の差で戦うのです。上を見ればきりがないと言いますが、まさにその通りです。

大雪

1月18日(月)

朝、結露を拭いて窓の外を見ると、真っ白ではありませんか。目を凝らすと横殴りの降りのようです。午前の授業は大混乱だろうなと思いつつ、いつもの電車で出勤しました。

私が住んでいるところは、地下鉄の車両基地のあるところなので、よほどのことがない限り電車には乗れます。3.11の直後でも普通に通えたくらいですからね。その上一番電車と来れば、地下鉄ですから雪の影響もなく、また、他からの遅れを引きずることもなく、定時に新宿御苑前に着くのです。今朝もまさにそのパターンでした。

しかし、そうはいかない先生方も大勢いらっしゃいました。T先生は最寄り駅を通る線がどちらも不通で、出勤がお昼ごろになりました。それほどではなくても、大回りしたとか車内で缶詰にされたとかという例はかなりありました。新宿に比較的近い駅では、着く電車がすべて超満員で乗り込もうにも乗り込めずに、9時までには来られなかった方もいました。最寄り駅までバスというのはさらに悲惨で、バスがまともに走らず、雪かみぞれかの中を何十分も歩くことを余儀なくされたという例も。

雪のたびに言われますが、東京は本当に雪に対して脆弱です。でも、年に数回もない雪の日のために、札幌並みの備えをしていたのでは、その設備の維持費だけでもとんでもなく費用がかさみ、不経済のきわみと指摘されるでしょう。逆に言うと、札幌は東京の言う「不経済のきわみ」を抱えていないと、生活が維持できないのです。人口が札幌の100分の1,1000分の1の規模でも、雪国においてはそれがインフラの一部なのです。

こうして考えると、東京は贅沢な町です。雪に降られる都度大騒ぎはしますが、片手で数えられる雪の日さえ我慢すれば、軽装でいられるのですから。東京の雪は長続きしません。雪の翌日は、必ず晴れです。夏は確かに暑いですが、それとて連日38度とかということはありません。こういう軽装で住む町だから、雪には脆弱ですが人が集まるのでしょう。

国立も受けますか

1月16日(土)

午前中仕事をしていると、受付のカウンターからCさんが私を呼びました。出て行くと、Cさんは「先生、S大学に合格しました」と報告してくれました。

Cさんは建築学を勉強するために日本へ来ました。去年のこの学期、Cさんはまだ初級でしたが、EJUの過去問を求めて私のところへ通いました。数学と物理が大好きなCさんは、少し日本語がわかるようになったら、腕がうずうずしてならなかったのでしょう。S大学はこういう理科が本当に好きな学生を大事に育ててくれる大学ですから、きっとCさんの一生を支え続けるいい勉強ができることでしょう。

ところがCさんは、「先生、国立も受けたほうがいいですか」と聞いてきました。Cさんが名前を出した大学は、うまくすれば手が届くかもしれない大学です。そういうところに挑戦しようという気持ちは評価できますが、ただ単に”国立に受かった“という名誉(?)がほしいだけなら勧められません。

それよりも、私はCさんの日本語力が心配です。入学以来ここまで順調に進級してきたのですから、まるっきり力がないわけではありませんが、今のままS大学に入ったら、入ってからが大変なのではないかと心配せずにはいられないくらいの実力です。S大学できっちり勉強すれば4年後に鳴くことはありませんから、国立の入試に備える暇があったら、今の日本語力を1ミリでも伸ばしてもらいたいです。

新学期が始まってまだ1週間も経っていませんが、卒業式は3月5日ですから、Cさんが勉強できる期間は1ヵ月半ほどです。その間必死に勉強して、S大学の授業についていけるだけの日本語力をつけて卒業していってもらいたいです。進学後、目を輝かせてS大学での生活を語りに来てほしいですから。

ひねた子どもたち

1月15日(金)

国民の祝日としての成人の日は1月の第2月曜日に移動したものの、私たちの世代にとっては成人の日は1月15日のほうがしっくりきます。

大人になるとは、周りの人や状況など、自分以外のものに合わせて行動できる人、誰かのために、何かのために動ける人だと思います。逆に言うと、どんなに年齢を重ねていても、自分のことしか考えられない人は、まだ子どもなのです。こういう目で見ると、世の中にはひねた子どもが大勢います。

まず、吸殻のポイ捨てをする人。毎朝校舎の正面を見て回ると、たいてい吸殻が落ちています。多くは校舎前の道路ですが、敷地内に投げ込まれたと思える吸殻も珍しくはありません。一服の快楽が得られれば、後は野となれ山となれなのです。

それから、電車のシートに中途半端に座る人。詰めればもう一人座れるのに、込んでいても詰めようとしない人は毎日のように見かけます。ちゃんと規定の人数が座れるようにシートがくぼんでいても、そのくぼみを無視してまでゆったり座ろうっていうのは、どういう神経なのでしょう。

電車ついでに、駆け込み乗車してドアに挟まれ、車掌にドアの開閉をやり直させる乗客は、その電車1本の全乗客の時間を奪っていることに気付いていないんでしょうね。乗客1000人の電車で再開閉に10秒かかったとすると、10000秒=2時間46分40秒が無駄になります。新幹線に乗れば新神戸か八戸まで行けます。北陸新幹線なら終点の金沢で降りて、タクシーで香林坊まで行けちゃうかもしれません。

昼の時間にKCPの成人式がありました。大勢の新成人が集まりましたが、この中には上のような“子ども”はいないですよね。

答えに詰まる

1月14日(木)

午後からDさんの面接練習をしました。Dさんは理系の学生で、志望校の面接の際に口頭試問も行われますから、物理や化学の問題を出す役目を負った次第です。

Dさんは、EJUの物理や化学ではかなりの点数を取りましたが、口頭試問は大苦戦でした。化学や物理の基本事項を根っこから理解していないことがあらわになりました。「なぜ」を追究せず、表面的な現象や結論となる公式だけを覚えて満足していたのです。数学の問題の解き方なんか見ていると、理系のセンスは十分あると思うんですがね。Dさんには、面接本番までに教科書を読み直し、応用問題ではなく、“〇〇とは何か”という根本の知識を確認しておくように指示を出しました。

口頭試問を貸して学生を選抜しようという大学側の姿勢は評価できますが、根本のところを押さえていなくても好成績が収められてしまうEJUって何だろうという気持ちになりました。理系的な勘が働けば、訓練によって点が取れてしまうのです。こういうテストだけで選ばれて大学に入学したら、入ってから苦労するだろうなと思いました。

先学期、理科の受験講座で記述式試験の対策をしました。T大学の電磁気学の問題など、難問ではないけれども基礎を余さず盛り込んで、それを組み合わせて答えを導き出す惚れ惚れするような良問でした。解説していて気持ちがよかったです。こういう問題なら真に力のある学生、科学的な基礎知識をもとに創造的な学問ができる学生が選ばれるだろうなと思いました。

今週末はセンター試験です。そして、センター試験を中心に、大学入試のあり方全体の改革が議論されています。そこに留学生入試を含めることは難しいでしょうが、入試対策ではなく大学で学問していく基礎力を身に付けようというインセンティブが働く試験制度になるといいです。

プレッシャーに弱い

1月13日(水)

早朝、一人で仕事をしていると、Kさんが外から窓をたたきました。まだ暗いうちでしたが、志望理由書をチェックしてもらいに来たのです。急いで玄関のドアの鍵を開け、Kさんを招き入れました。そして、Kさんの書いてきたS大学の志望理由書を見ました。ややインパクトに書けるところはありますが、日本語としての間違いの少ないよくできた文章でした。

そういう感想を述べ、どんなことを付け加えればいいかを指摘しました。ところが、今思うと、Kさんの本題はここから先でした。S大学を始め、いくつかの大学に出願しようとしていますが、Kさんの最大の悩みはプレッシャーに弱いということでした。EJUの前などでも、体の震えが止まらないほどの緊張感を味わうそうです。今も、午前中の授業が終わるとすぐ帰宅して、夜の8時ごろまで寝て、それから夜を徹して朝まで勉強するそうです。だから、暗いうちから学校へ来られるのです。

確かに、KさんのEJUの成績は、周りの教師たちが感じるKさんの実力よりだいぶ低いものでした。緊張しやすい性質を矯正するのはなかなか難しいです。自信を持たせようとしても、実際の試験のことを思うと、こちらの小細工など消し飛んでしまうのです。私にできることは、Kさんの話をじっくり聞くことぐらいです。だから、1時間あまりKさんの話に耳を傾けました。

取り留めのない話と言ってしまえば身も蓋もありませんが、Kさんにとっては多少はカタルシスになったようです。朝ごはん(Kさんにとっては晩ごはん???)を取りに出たところを見かけた出勤途上のR先生は、ずいぶんすっきりした顔をしていたとおっしゃっていました。

プレッシャーに弱かろうとどうしようと、受験は容赦なく迫ってきます。それまでKさんを支え続けねば…。

日本語力の差

1月12日(火)

小雨の新学期初日でした。教室を間違えたとか事務手続きに手間取ったとか、何名かが遅刻しました。まあ、でも、最終的には欠席1名にこぎつけましたから、よしとしなければならないでしょう。

午前のクラスは上級クラスでしたが、初級で教えた学生が何人もいて、なんだか上級という気分にはなりませんでした。「Tさんがいるなんて、上級もお安くなっちゃったね」なんていう冗談が通じるのですから、まあ彼らも上級なのでしょう。でも、消しゴムで字を消した時にできる黒いものを「消しゴムのごみ」なんて言っちゃうあたり、初級的な発想が抜け切っていないとも言えます。「消しゴムのかす」なんて、日本人なら子どもでも知っています。そういう言葉を知らないと進学してから日本人の同級生にバカにされるよって言ってやったら、妙に納得していました。

こんなのは比較的どうでもいいのですが、このクラスで一番いけなかったのは、自己紹介のときに全員が「〇〇です。◎◎(国)から来ました。趣味は△△です」で済まそうとしたことです。これならみんなの日本語の14課だと怒ってやり直させたら、中級ぐらいの文法は使って夢やら日常やらを語ってくれました。やればできるんですから、やるように仕向けることがこのクラスを教える上での課題です。

一息つく間もなく、午後は代講。そのクラスは一番下のレベルですから、初日は挨拶と教室用語と数字と自己紹介です。自己紹介では「初めまして。〇▲です。△▽(国)の▼◎(都市)から来ました。どうぞよろしく」と、都市名に触れる分だけ午前中の上級の学生より上ではないかっていう自己紹介を練習しました。日本語の発音に慣れていないためにおかしげなイントネーションの学生もいましたが、全体的に見ればよくできたんじゃないでしょうか。

教室の片づけを済ませ職員室に戻ると、C大学に進学したTさんが来ていました。「新学期の初日だからお日柄が悪いんだよなあ」なんて言いながらも、懐かしさのほうが勝って、思わず話し込んでしまいました。4月から3年生で、就職に向けて動き始めるとか。こなれた日本語を話していますが、入学当初は日本人学生との間の日本語力のギャップに悩んだそうです。このねたは、明日の超級クラスで使えそうです…。

言霊

1月9日(土)

始業日に渡す、先学期の成績表を作っています。単純に中間テストや期末テストの点数を記入し、合格か不合格かを伝えるだけなら楽なのですが、1人1人にコメントを書くのが頭脳的に重労働です。「頑張れ」だけならどうということはありませんが、先学期の3か月間を振り返り、伸びた学生はほめ、出席率の芳しくない学生は叱り、合格が決まった学生にはお祝いのことばを送り、成績の思わしくない学生を励ましてって考え、しかも私の気持ちが効果的に学生に伝わるような表現を探していくとなると、1人の学生のコメントを書くのに意外と時間がかかるのです。

私も最初からこんなに力を入れていたわけではありません。コメントの言葉を選ぶようになったのは、もうだいぶ前に卒業したHさんがきっかけです。Hさんは卒業式の後のパーティーで、「先生が成績表に書いてくれた言葉が励みになって志望校に合格できました。その成績表、これからもずっと取っておきます」と、これだけは伝えなくちゃっていう顔つきで言ってきました。

これはとても名誉なことでしたが、同時に自分が発した言葉の重みをひしひしと感じさせられました。教師の言葉ってこんなにも強い影響力を持つのかと身の引き締まる思いがしたことが、Hさんの笑顔とともに今でも私の頭に深く刻み込まれています。

それ以後、成績表のコメントにはいい加減なことがかけなくなりました。先学期も、非常に腹立たしい学生が数名いましたが、そういう学生にも、いや、そういう学生だからこそ、コメントに知恵を絞りました。

言霊っていうくらい、日本では昔から言葉の力は畏れられていました。言葉を教えることを職業にしている私は、二重の意味でこのおそれを感じなければならないわけです。来週から、このおそれに立ち向かっていきます。